アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

「自己責任」は無責任

こんばんは、鍵野です。
一昨日、福岡で歴史のある先輩主催の自助グループに参加してきました。例によって、高速は使わず福岡まで五時間ちょっとのドライブを楽しみながらだったんですが、エアコンがねぇ…、夏の昼間はあまり効きません(泣)。それに、エアコン使うと山道が厳しくて…、2速でエンジンフル回転でようやく上るんですが、とっても辛そうな唸り声というか悲鳴を上げてる感じになってですね…、やっぱりノンターボの軽には厳しいなぁと。佐伯から福岡中心部に行って帰ってくると430キロくらい走ることになるんですが、オイルレベルゲージもLowギリギリまで減ってました。オイル喰い1000キロで1.2~1.3リッターくらい消費するレベルに悪化してるかもしれませんね。Amazonでもう一缶オイルを買っておきました。どんどんオイル減っていって、継ぎ足して、を繰り返してると、このままオイル交換しなくてもいいんじゃない?燃えちゃうんだし…とも思ったんですが、オイルフィルターに汚れが溜まるだろうし、減ってはいても汚れたオイルがあるにはあるんだから、やっぱりオイル交換はした方がいいんでしょうね。あと福岡二往復くらしたら交換しようかな。


先輩主催の自助グループでは、互いの近況報告などしつつ、どうやって学習会とか自助グループに来てもらうか、いわゆる集客についてのブレインストーミングなどをしました。そこでどんなことが行われて、参加すると何が得られるのかは、発信していった方がいいよねという話になり、いまさらではありますがホームページ(福岡アドラー心理学研究会)での情報発信も大事だなぁと。アドラー心理学を、ネット検索で知った人、本屋さんで数多あるアドラー心理学本のどれかを手にして知った人などなどが、我々、野田先生の流れにある会(福岡アドラー心理学研究会)にたどり着く確率ってどのくらいなんだろうか? よっぽど引きの強い人でないと無理だよなぁ…、どこにたどり着いたにせよ、せめてそこでアドラー心理学を嫌いにならないで欲しいね、とか、ちょっとと悲観的な話になりながらも…


そこはアドレリアンですから気を取り直して(笑)、熊本、宮崎、大分など、福岡以外でも、数は少なくても熱心な人たちが核となって自助グループを育てていけて、それらが福岡のグループと有機的につながりながら、九州でアドラー心理学を学びたい人たちの、それぞれのニーズ、打ち込み度合いに合わせて、浅いところから深いところまで、学習機会を提供していけるといいねと、夢のある話でゆるやかに(笑)盛り上がりました。具体的には、九州でパセージリーダーとかカウンセラーの資格を持っている人(あまりに少ないので持っていた人も一緒に(笑))が入口的な講座を提供しながら、さらに学びたい人には、野田俊作顕彰財団(AIJ)の先生方の講座を紹介して、できたらまずは福岡中心に九州各地でも講座開催を誘致していく流れができればなぁと。そのためにも、やっぱりベースキャンプとしての自助グループが各地に育っていかないとですね。それには、核となる人、本気の人が各地にどれだけいるかということに尽きると思います。鍵野にできることとして、本気の人がアドラー心理学に出会えるようなタネ蒔きは工夫しながら続けていくつもりです。そんな話をしながら、先輩主催の自助グループは、いつもお世話になっている近くのインド(ネパール)カレー屋さんに場所を移し、美味しく食べての散会となりました。


それで今日は、世間でよく言われる「自己責任」とアドラー心理学で言う「責任」との違いについて考えてみたいと思います。


「自己責任」、批判的に言う場合に「自己責任論」という言い方を目にすることがありますが、よく使われている文脈は、何か辛い状況にある人に対して、なんとかしてあげたいと手を差し伸べる動きと反対の方向で、「そんなの自己責任だよ」と助けずに放っておきたいときだと思います。例えば、「非正規雇用でキャリアも詰めず収入が低いまま年齢を重ねていき、結婚したくてももできなくて…」とか、「収入は国民年金だけで、貯金もほとんどないのよ…、どんどん食料品も値上がりするし、どうやって暮らしていったらいいのか…」といった、まぁよく聞く話ではありますが、そういう人たちを「そんなの関係ねぇ」と自分の視界から追いやるときに使われるのが「自己責任」だと思います。


そういう言い方を社会のいたるところで目にする耳にするようになると、困っている当人たちが、自分で自分に「自己責任」という言葉をぶつけるようになって、声を上げれば手を伸ばせば助けてくれる人もいたかもしれないのに、他の人に知られないまま、自分で自分を責めて、自分を責めている間は社会の側にいるような錯覚もあったりして、それが癖になって、不幸のらせん階段を落ちていく人もたくさんいるように見受けられます。


アドラー心理学の「責任」はそういうものではありません。人は社会に所属して暮らしていくしかない生き物です。そうやってサバイバルしてきた生き物です。だから社会に所属できなくなるようなことを徹底的に避けて暮らす生き物です。社会的に死ぬよりは、生物学的な死を選ぶ生き物です。忘れられるよりは人から覚えられるように自殺する方を選ぶ生き物です。そういう社会的な動物である人間の「責任」の意味は、社会の呼びかけに応えることができるという意味での Responsibility であって、呼びかける側の社会と応える側の個人のどちらが100でも0でもない、本来、共同に責任を持つべき「責任」なんです。


人は社会に生まれてきます。人っ子一人いない無人島で生まれてくる人はいません。死ぬ時も一人ではありません。たとえ富士の樹海で命を絶った人だったとしても、それは「富士の樹海」という社会的に特別の意味のある場所で社会的な意味を理解して死んでいるわけですし、その後誰かが弔ってくれることもあるかもしれません。身寄りもない人がアパートで孤独死してしばらくして発見されるというような場合も、アパートのオーナーとか、不動産業者や特殊清掃業者とか、自治体職員とか、いろんな人が関わることになります。


その人が人である以上、社会の一員であって、社会の一部であって、社会にもその人を組み込んで活動する責任があります。そのために社会は個人に呼びかけます。その呼びかけに応える責任が個人にはあります。それは社会の奴隷になるという意味ではありません。社会の方も、具体的に、あなたはA大学を出てB社に入ってCさんと結婚して二人子どもを育てて…と指示するわけではなくて、たんに「あなたも社会の一員なんだから、あなたにできることをして、この社会の存続と発展に協力してね」と言ってるだけです。どんな能力を磨いてどうやって社会に貢献していくかの決定は個人に委ねられています。職業の話で言えば、この職業をやってみたけど、結果がこうで思わしくないので、やっぱりこっちにしますはありですよね、当然。それでその職業再選択を社会は応援するために、職業訓練をサポートしたり、失業手当を支給したりとか、やっているわけですね。で、社会、社会と言っても「社会」さんはいないので、実際は、そういう仕組みを作ったりしてるのも個人なんですよね、結局は。いろんな会議体を通して、衆議院参議院で了承されて法律になって施行されるんでしょうけれど、お役人や議員さんたちが社会からの要請に応える形で、それぞれのできる範囲での責任を果たしてくださっているわけです。


ということで、アドラー心理学的に見ると「自己責任でしょ」と困っている人を突き放す人は、無責任なんではないか? 社会からの責任を果たしていないのではないかなという気がします。もちろん余計なお世話、お節介をすすめているわけではなくて、困っていそうな人をみかけたとき、もし何かできそうな余裕があるのであれば「何かお困りですか?」「できることはありますか?」と声をかけて、事情を理解してから、共同の課題として協力できるのなら協力すればいいし、自分には無理そうであれば、お断りしてもいいわけですよね。呼びかけに応えはしたよと(笑)。


いろいろ書いてきて、何が言いたいのかと言うと、抽象的な「社会」なんてものは存在しなくて、それは目の前で困っているAさんBさんCくんDちゃんだよねということです。で、アドラー心理学の責任というのは、そういうAさんBさんCくんDちゃんも、同じ社会の一員でたとえ会ったことがなくても、あなたの仲間だよねということです。その仲間の呼びかけに応えることが(従うという意味ではないです、くどいですが)、責任を果たすということだということです。だから「責任」という概念自体に「社会」が前提とされているわけで、「この仕事、課題について、この範囲は自分の責任としてやります」と引き受けた個人が、いろいろやってみて、失敗して悩んでいるのであれば、それはもう一度「社会」と相談し直して、自分の責任範囲を括り直した上で、またがんばってみる、「社会」はそれを応援する、そんなことがいつでもどこでもできる「社会」にみんながアドラー心理学を学ぶことで成長していけたらいいなぁと、それには、前置きに戻るんですが、やっぱり自助グループだよね、と強く思うのでした(笑)。


今日の写真ですが、いつだったか、お得さに惹かれて、ごぼう天うどんにカツ丼と稲荷ずしまで食べて、後でとっても苦しい思いをしたのでした。これは完全に自己責任でしたが(笑)、でも、本当にお腹が痛くなってひどいことになったら病院に行くだろうし、そうしたら、お医者さんも看護師さんも「自己責任です。そのまま苦しみなさい!」なんて言わずに、きっと助けてくれますよね。誰だって間違うんですから、この社会の仲間同士できるだけ助け合っていきたいですね。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。