アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

大人になったら何に?

こんばんは、鍵野です。
数日前、歯医者さんに行って残りの親知らず2本を抜いてもらって、親知らずがなくなりました。親知らずの前の奥歯を守るための抜歯ということだったんですが、今回もあっさり抜けて、腫れもなく痛みもほとんどなく、抗生剤も痛み止めも使わずに済みました。先月抜いた左側は、その後は歯磨きがしやすくなってかなりいい感じなので、今回もその後が楽しみです。得るよりも捨てるのが大事だなぁと実感しています(笑)。


久しぶりに何日か福岡に行ってこようと思っていたんですが、急遽大事な仕事が入ったので、しばらく家に籠って集中することにしました。もともといつ入るかは未定だったけど、入ったら優先対応することは予定していたので、陰性感情なく冷静に対応できました。お客さんも喜んでくれました。


アドラー心理学を学んで実践するようになって、カウンセラーになってから、いつもたいていは協力的目標に向けて行動できている感じがあります。まぁそう判断しているのも自分なので他の人からみてどうかはわかりませんが、自分がこれから取る行動が他の人にとってどういう影響をもたらすかについて、わかっているのにわかっていないフリをして、自分の都合だけを考えて突き進むことはしなくなりました。


これ、カウンセラーになる前は、そうするのがアドレリアンだから、そうすべき、それができる自分になるべき、という目標追及のために共同体感覚に沿っているように見えそうな行動を選んでいたという感じだったんですが、カウンセラーになってからは、相手も自分も満足する方へ行かないと、人は結局満足できないんだということに頭だけではなくて全体として気づいてしまった感じに変わりました。


身近な例でたとえるなら、楽しみにしていた美味しいケーキがあったとして、カウンセラーになる前の自分は、それを独り占めはせず、無理して誰かと分け合って、そんなことができる自分をエライ!と思うようなやせ我慢的な感じの実践だったんだけど、今は、たとえ自分の取り分が減っても、それを喜んでくれそうな誰かと一緒に食べた方がもっと幸せになれることを、当たり前に疑いもなく知っている感じですね。月並みかもしれませんが、分かち合うと増えるんですよね、喜びって、物質とは違って。不思議ですね(笑)。


もう一つ身近な例で、自分の変化を感じているのは、カウンセラーになる前は、車で走っているときに、横から出てくる車など、そこに入りたそうな他の車を入れてあげたりとか、あるいはコンビニとかエレベーターのドアを開けてしばらく押さえておいて、入ってくる人が入りやすいようにするとか、そういうことも「これっていいことだよね、アドレリアンならやるべき」という意識でやっていたように思います。そのせいか、過剰というか、かえって迷惑というか、車でもタイミング的にそこはサッと行ってしまった方がかえってよかったかものところで、しばらく入れてあげようとして待ち過ぎたり、ドアを開けて待っているのも、別にそんなこと求めてない相手だったりもして、なんだか鬱陶しい感じになってたりとか、「感謝してよ」の気持ちがチラッとはあったりして、今思えばお恥ずかしい感じでした。それが、カウンセラーになってからは、もう少し自然に、それが必要なタイミングでスッとできるようになったし、それが必要なさそうな時にはサラッとスルーしたり、相手も(見ず知らずの人ですが(笑))自分ももっと楽になるような感じで対応できるようになりました。恩着せがましい気持ちもなくなりました(笑)。


それで今日は、「大人になったら何になりたかったか?」からわかることについて考えてみたいと思います。


みなさん、子どもの頃、大人になったら何になりたいと思ってましたか? 


鍵野は一番小さい頃になりたかったのは「パイロット」、その次が「外交官」、小学校高学年の頃には「物理学者」、中学卒業の頃には「コンピュータープログラマー」でした。高校の時には「映画監督」になりたくなって、それで現役では日芸を受けたんですけど見事に落ちて(爆笑問題の太田さんは偉い(笑))、浪人の時に「小説家」になりたくなって、で、文芸専修のある早稲田の文学部だけ受けて、一文には落ち、二文に入ったのでした(そこからズルズルと8年もいました)。


パイロットと外交官は、なんかカッコイイというか、そんなことを言われた記憶はないのですが、それでも両方ともいかにも母が喜びそうな、自慢できそうな(笑)職業なので、母を喜ばせようとしてただそう思っていただけの気がします。

「物理学者」については、原理というか理屈がわかることで、それまでバラバラに見えたいろんなことがつながって、世の中のことがパッとわかってしまうというような、そういうところに惹かれたのを覚えています。デカルト方法序説を読んで憧れたのかも(笑)。

「コンピュータープログラマー」は、たぶん友だちの家でMZ-80Bというマイコン(当時はそう呼んでいた)でスタートレックというゲームをやらせてもらって、それで面白くて感動して、自分もそういう、何かプログラミングでそれまでなかった世界を創ることができるというところに魅力を感じたんだと思います。今でもよく覚えているのが、中三で担任だったW先生が「今はいいけど、鍵野が大人になるころにはコンピューターでプログラミングする仕事なんかなくなってるかもよ」と言っていたことです。そのときは、人がせっかくその気になってるのに、そんな水を差すようなことを…と思ったものですが、この予測は見事に外れましたね(笑)。もう少ししたらわかりませんけども(笑)。


それで、実際に大学を卒業して最初に選んだ職業は「コンピュータープログラマー」でした。今、買収騒動の渦中にあるらしいF社(当時は二部上場で名前にABCというのが付いてましたけど)に入れてもらったんですが、たぶん役員の方だったのかな? 面接試験で、圧迫面接気味でしたけど、卒論で安部公房の評論を書いた話になって「安部公房のどこがいいの?」と聞かれて、ウーン…としばらく考えていたら、「不条理だろ!」と言われて、「はぁ…」という感じで終わって、いい印象はなかったんですが、3月に卒業してフラフラしているうちにもう秋になっていて、やっぱり就職しようとは決めていたので、入れてくれるならということで、そこから新人研修でプログラミングを覚えたんでした。夢の実現なんてつもりは全然ありませんでした(笑)。


その後、転職を重ねながら、ソフトウェアの開発方法を研究して人に教える仕事に携わるようになり、そのうちソフトウェア開発より上流の経営そのものに興味が移り、技術経営の大学院で学び、中小企業診断士という資格も取って、経営企画室に社内公募で異動して新規事業を推進する仕事をするようになりました。そこから、自営の経営コンサルタントとして独立して、公的機関でのマネージャの仕事も経験した後、経営よりさらに上流の(笑)、人が幸せになることそのものに興味が移り、アドラー心理学を学んでカウンセラーとなり現在に至っています。


と、なんだかいろんなことをしてきた鍵野ですが、アドラー心理学から見ると、小さな頃からの一貫した流れがあることがわかります。


こうして書いていて気づきましたが「普通」を避けてきたんですね、ずっと。普通に大学に入って、普通に卒業して、普通に就職して…という、世間一般の「普通」で暮らしていく勇気がなかった(笑)。

紆余曲折はありながら、サラリーマンとしての最後は、地味だけどみんなが知ってはいる大企業の中枢である経営企画室で働いていたので、立派な「普通」に落ち着いていたし、母も喜んではくれてたんですが、結局、飛び出してしまいました(笑)。


こうした「普通」でいられない鍵野のような人って、かなり勇気をくじかれているんですよね。劣等感が強いので、それを補償する目標も高くなってしまいがちで、「自分は人とは違う!」と自分と他人にいつも示し続けていないとそこにいられないのは、劣等コンプレックスの一種としての優越コンプレックスですね。そうでないと、仲間になれていない、所属できていないと感じてしまう人なんですね。


パイロットも外交官も物理学者もコンピュータープログラマーも映画監督も小説家も、当時の鍵野には「普通」じゃないように見えた人たちでした。


自営の経営コンサルタントも、(とってもマイナーな)アドラー心理学のカウンセラーも、やはり「普通」じゃないし(笑)。


なので、「嫌われる勇気」は、一読して「ごもっとも、ごもっとも」という感じで終わりましたが、もし「みんなと同じでいる勇気」という本があったら、すごく刺さって痛かっただろうなと思います(笑)。


思い起こせば、父は若くして独立して自分で事業をしていたのですが、オイルショックで事業がダメになって、身体も壊し、しばらくして親戚を頼りに大分から東京に出てきて、勤め人として再帰を図りました。鍵野が小学二年生のときでしたが、家族五人で東京での暮らしが始まり、転校して、当時、言葉の違いは意識していなかったのですが、同級生に大分弁をからかわれた思い出もあり、子どもなりにカルチャーショックを受けました。


そんな経験もあって、子どもながらに父と母が大変な苦労をしているのを感じていて、それで、父も母もとってもいい人なのに、一生懸命頑張っているのに全然報われていない感じがして、そんなの間違ってる! それは父や母が悪いのではなく、世の中の方が間違っている!と強く思い込んでいたように思います。


それで、何か世の中を変えるような、意味のあることがしたい、父や母が報われるような世の中にしたい、それには「普通」じゃダメだ! この今の世の中をそのままを受け入れるような「普通」な生き方じゃダメだと、子どもながらに無意識的に思っていた気がします。まだ自分にはわかっていないけど、この世の秘密というか原理というか、きっと何かあるはずだと、それがわかればなんとかなるはずだ!と強く思っていた気がします。


そんな思いがあったからこそ、野田先生に、アドラー心理学に辿り着くことができたのではないかなと、今、書いていてい思います。でも、「世の中を変えたい!」ってちょっと間違ったらヤバイですもんね、破壊的ではなく建設的な方へ、競合的ではなく協力的な方へ向かえてよかった! 辿り着いたのがアドラー心理学でよかったです(笑)。


それで、人は、一人ひとりユニークなその人のサバイバル戦略、人生の方針ともいえる「ライフスタイル」に表れるその人の人生目標の達成の方向でなりたい職業をイメージします。強くあるべきという人生目標を持っている人は、格闘技のチャンピオンを目指すかもしれないし、お金があることが強いと信じていれば、とんでもない金持ちを目指すかもしれません。


職業をどう見ているのかというのも、人によってかなり違うかもしれなくて、「学校の先生」から、人(子ども)を支配できるというイメージを持つ人もいるし、人(子ども)の成長を助けるというイメージを持つ人もいるでしょうし。「看護師さん」から、病気の人の世話をする優しい人というイメージを持つ人もいれば、冷静に仕事をテキパキこなす人というイメージを持つ人もいるかもしれません(鍵野の看護師さんへのイメージはこれ(笑))。


アドラー先生の本に出てくる面白い例が、子どものころ「死」に強く印象づけられた子(きょうだいが死ぬなど)は、その「死」を克服しようとして、医者などの医療関係の職業に就きたいと思うようになる子が多いけど、中には「墓堀り人」になりたいという子がいたんだそうな(日本だったら、葬儀屋さんかな?)。 これは、自分は、埋められる方にはならないで、埋める方になってやるという、意味ですよね。これも、そりゃぁ墓堀り人も必要だろうし(あまりイメージ湧きませんが)、葬儀屋さんだったら、絶対必要な職業なので、必ずしも破壊的な方向と決めつける必要はないですけれど、医療関係者の方が建設的なイメージはありますよね、死の克服の方向としては。


なので、どんな職業に就きたいか?を聞いて、それだけで、どうこう言うのではなく、それはどうしてか? も聞きたいですね。その職業に就くことで何を成し遂げようとしているのか、それが感じ取れれば、そこにその人の人生目標が透けて見えるかもしれません。


それで、お子さんがいらっしゃる方で、お子さんがどんな職業に就きたいのかを聞いたとして、何でもいいと言えばいいんですけれど、「普通」じゃなくて、それが極端なものだとしたら、たとえば、世界一の科学者とか、世界一のサッカー選手とか、世界一のピアニストとか、世界一のカウンセラーとか(さすがにいないか(笑))だったら、ちょっと気にしてあげた方がいいかもしれません。


「普通」じゃない目標を達成しないと自分はダメなんだと思い込んでいるということは、劣等感が強い証拠です。劣等感が強いというのは、自分の理想に対して現実の自分がイケてない感じがそれだけ強いということです。理想が高いから劣等感が強いのか、劣等感が強いから理想が高くなるのか、どっちが先なんだと言えば、劣等感が先ですね。赤ちゃんの頃から周りの大人に世話してもらってようやく生存できるところから、少しずつできることを増やしていくわけですが、(周りの人のように)したいのにできないという劣等感から、それをバネにして成長していくのが人間です。劣等感が強ければ強いほど、それを補償するために、より高い目標を設定してしまうんですね。


なので、お子さんがズバ抜けて高い目標を掲げていたとしたら、かなり劣等感に苦しんでいるのかもしれません。もちろん、がんばって努力して、実際に世界一になってしまう人もいるかもしれませんが、アドラー心理学はその方向はおススメしません。だってとっても苦しいから。世界一になったとしても、ずっと世界一で居続けることはできませんし。


でも、「普通」というのも、誰かと比較して「普通」と言っているとしたら、「人並み」という意味での「普通」と言っているとしたら、これも結局あまり「世界一」と変わらず苦しい不幸な人生が待っていそうです。いつもいつも他の人と比べて「普通」かどうか「人並み」かどうか気にし続ける人生は、一番かどうか気にする人生と、人がどう見るかを気にするという意味で五十歩百歩ですから。


なので、アドラー心理学のおススメする「普通」の目標は、他の人との比較ではなく、自分の大事にしている価値の軸線上で、自分としてこれまでよりも成長できたなと実感できればよしとするくらいの「普通」を目標に、都度都度具体的なマイルストーンを置きながらそこを目指して動いていくことです。


「人を助けたい」という目標を抱いている人が、「医者になる」という具体的な職業選択上の目標を持ち、そのために「医学部に入る」という目標を、そのために高校では「地域一番の進学校」に入って「模試でも上位をキープ」する…といった意味での「普通」の目標を立てて進んでいった結果として、ひょっとしたら将来、世界一腕のいい心臓外科医になっているかもしれませんが、それは最初から「世界一の心臓外科医」を目指すのとは全然違うということです。最初から「世界一の…」を目指すのは「普通」の目標ではなくて、強い劣等感の裏返しの、それが実現してもしなくても苦しみが約束されている目標なのでおススメしないという意味です。


「普通」の目標であれば、途中でうまくいかなくても代替案がいくらでも出てきますから安心です。「医学部に入る」が無理そうだとわかったら、「歯学部に入る」とか「看護学部に入る」とか、カウンセラーもいいかなと「心理学科」に入るとか、他にも医療系の専門学校に行くとか、消防士を目指すとか、他にもいくらでもありますよね「人を助けたい」が実現できる具体的な職業は。


これが「世界一の〇〇」とかだとやっかいです。途中のどこかで引っかかってしまうと、なかなか他の案に乗り換えることができなくなります。「世界一の○○」ならなんでもいいやと、世界一悪い人を目指されても大迷惑ですし、「世界一」じゃなきゃ意味がないと、どこかで躓いた後は挑戦する意欲を失って「もしあそこであんなことがなければ、今頃世界一の〇〇だったのに…」なんて言い訳しながら一生を暮らすというのは、非建設的だしとっても辛いですもんね。


もしお子さんが「世界一の○○」とか「日本一の○○」と言い出したら、どうしたらいいのかと? 年齢にもよりますけれど、先ほども書いたようにその理由を聞いてみて、それが人からの評価をもの凄く気にしているからこそらしいとわかったら、自分がそう仕向けてはいないかと子育てを振り返ってみてもいいかもしれません。


一番じゃないと意味がないとか、いつも他の子と比較してたりとか、お子さんに対してでなくても、自分に対しても、あるいは夫さん(妻さん)に対してとか、テレビに向かってとか、いろんなところで人と人を比較して、人より上でなければ価値がないかのような言動をしていないかどうか気にしてみてください。


家ではそんなことはないけど、という場合は、学校など家の外でそういう価値観をしっかり学び取ってきているのかもしれません。教師や友達からの影響も大きいでしょうし、SNSやYouTube、テレビやラジオ、漫画やゲームなどからも大きな影響を受けているはずですし。


子どもは素直で敏感ですから、親や教師を始めとする世間の大人の大事にしている価値観をよく知っています。そこからどんどん学んでどんどん影響を受けます。


そして、残念ながら現代社会の価値観は、人と人に価値の違いがあるという前提に立った競合的な価値観が支配的です。どちらが上か下か、勝ち負けを争い続ける人生が続いていくと想像した子どもたちの劣等感が強まるのも致し方ないことかもしれません。


それでも、だからこそ、アドラー心理学の考え方、人は一人ひとり能力は違うけれど人としての価値は平等で(これは事実)、それぞれの能力を持ち寄り分かち合って協力しながら暮らしていくべき、そこに人の幸せがあるという思想(共同体感覚)を一人でも多くの人に知ってもらい学んでもらい体験してもらって、大事なお子さんに伝えていって欲しいんですね。


みんなが「普通」の目標を持って、その達成度合いを人と比較する必要なく暮らせる社会の実現に向けて、自分のできること、アドラー心理学を伝えることをやっていきたいというのが、今の鍵野の「普通」の目標です(笑)。

 

いつの間にかたぶん過去最長の文章を書いてしまいました。ここまでお付き合いくださって本当にありがとうございます。

 

カウンセリングでも講演でも勉強会でも、行けるところまでは採算度外視でやっていきたいと思いますので、生きたアドラー心理学を体験したいという方はぜひお気軽にお問い合わせください。よろしくお願いいたします。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

やっぱりアドラー心理学

こんにちは、鍵野です。
9月に入ってだいぶ涼しくなってきて、エアコンも日中だけ使う感じになりました。秋が近づいてるんでしょうね、夜になると虫の音もよく聞こえてきます。先日の小林市での講演会の様子が小林市の広報で紹介されていました。理論をお伝えしたところをピックアップしてくださって嬉しかったです。今回は試食という感じだったので、小林市でアドラー心理学を学ぶ方の実践に向けてさらにお手伝い出来たらと思っています。


ほとんど本を買わなくなってしばらく経つんですが、この前紹介した「ピダハン」の本もそうですけど、例外的に林千勝さんの『原爆は「日本人」へ二十数発投下せよ!』という本を買ってしまいました。林さんがロスチャイルド家について書いた本もそれまで知らなかったことがいろいろわかって凄い本だったんですけれど、この本は、日本人として知っておかないとという、それまで知らなかったことが書かれていて、買って、読んで、本当によかったです。


広島平和記念資料館には2度行ったことがあって、本で紹介されているルーズヴェルトチャーチルによる「ハイドパーク覚書」も読んだはずなのですが、「原爆は日本へ」ではなく、「原爆は日本人へ」だったことにピンと来ていませんでした。当時の米英の指導者が日本人へならいいだろうと考えていたというのは、恐ろしいというか、おぞましいというか…


戦争に勝つためではなく、巨費を投じた原爆開発の成果を示すため、効果測定のためにも、1発、2発ではなく、新しい車を開発でもしているかのように、当時の責任者たちが、生産ラインのキャパと輸送能力を考慮しながら、冷静に月に3発ずつは投下可能と検討している文書も示されていて、広島の惨状(彼らはそれを成功と)も充分知っていながら(知っているだけにでしょうけれど)、原爆に殺された人間、彼らの仕事によって、殺されるであろう人間の苦しみを一顧だにすることのないやり取りが紹介されています。


少しでも原爆の効果を高めるために、あえて広島など攻撃目標の都市の空爆をしないでいて、しかも、恐ろしいことに、8月6日、原爆を投下するために広島市を目指したエノラ・ゲイは、いったん広島方面に行って、空襲警報を発令させて避難させておいて、そこから向きを変えて、警報が解除されて、勤労動員で少年少女も含めて、一番人が広島市中心部に集まって動き出す時間帯を狙って、再度広島市上空に表れ、そこで原爆を投下したというのです。飛行計画は真っすぐ広島市を目指すもので、それは残っているんですが、実際の飛行記録は残っていません。どうしてその向きを変えたりなどがわかったかというと、当時の日本の防空監視体制を担っていた人々の証言があったためです。前日も米空軍は何度も空襲警報を鳴り響かせるような行動をして、狼少年効果を狙ったのだろうとも言われています。人々が防空壕に入っていると、原爆の効果が著しく弱まることを米国はよく知っていたためです。実際、当時防空壕にいた人々は、その後の後遺症についてはわかりませんが、爆発直後でも、皮膚が焼けただれるようなこともなく、普通に外を歩けていたそうです。


これが悪魔の仕業であれば、まだ救いがあるかもしれません。救いがないのは、そうではなくて、普通の米国の人々、普通に仕事をしている軍人、役人、政治家が、家に帰れば夫として父として兄として息子として家族を愛して暮らしていたであろう、刑務所に収監されていたわけでも精神病院に隔離されていたわけでもない人々が、冷静に計画して実行したことだということです。


広島、長崎で多くの人が苦しんでいた最中にも、「原爆を日本人に」という仕事を完遂した彼ら彼女らの多くは、楽しく彼ら彼女らなりの幸せを感じながら暮らしていただろうと思います。米国人が特別ひどいというわけでもなく、アウシュビッツに代表されるユダヤ人抹殺計画を冷静に執行していたドイツ人も、スターリンの粛清に加担したロシア人も、文化大革命で大量に同国人を殺害した中国人も、状況が状況なら、日本人でも、何人でも、人間はそういうことができる生き物だということが証明されてしまったということですね。


3発目は東京に投下することをトルーマン大統領が了承した記録も紹介されています。昭和天皇のご英断がなければ、東京は広島以上に悲惨なことになっていたはずです。


そして、本では付録として米ソ共同作戦「プロジェクト・フラ」についても紹介されています。ソ連は、ポツダム宣言後に北方四島を占領したわけですが、なんと、それは米軍の長期間にわたるソ連兵への訓練と艦船の百数十隻を無償貸与により実現したことだったというものです。ソ連には米国の海兵隊のような戦力はなく、米国の熱心な助力なしの作戦遂行はできなかったということです。


戦争に負けるということは、敗者になるということは、そういうことなんでしょうね…


だからリベンジ!…なぁんてことは、やめましょう。キリがないですから、本当に。ガザに広島、長崎のような原爆を落とすべきと取れるような発言をした米国議員がいたそうですね。一番核兵器を持っている国の代表が、そういう人だとしたら、理性的に話し合っていくべき、なんてことが通用するはずもない気がしてきますが、それでも、唯一の被爆国である日本だからこそ、暴力ではなく理性で、どちらか一方ではなく、互いの幸せのために、妥協点を求めて歩み寄っていくことをあきらめてはいけないと思います。


やっぱりアドラー心理学の普及しかないなぁと、思っています。共同体感覚を育成していくこと。味方だけ、自国民と同盟国民だけが仲間なのではなく、敵国民、仮想敵国民も、同じ人類の仲間であって、同じように自分が大切で家族を大切に思って暮らしているんだということに思いを致すこと。目の前の仕事が他の人、狭い意味の仲間以外の人たちにどのような影響を与えるのかを責任をもって考えること、奪うのではなく分かち合うこと、そんなことが呼吸をするように当たり前にできるようになるレベルまで人類が成長するためには、みんながアドラー心理学を学んで実践するしかないと思っています。


世界の平和、人類の平和は、それを声高に叫ぶことでもなく、軍備を減らすことでも増強することでもなく、今日、たった今の、目の前の人に対して、あなたが何をするか、何を言うかにかかっています。目の前の人と折り合えない人が世界平和を謳っても空しいだけです。一人一人が、自分が関わる人と折り合いをつけながら、嫌いでもいいから、自分だけでなくその人も幸せであるようにと願いながら暮らしていくことができるようになれたとき、ようやく人類の平和について真剣に話し合えるようになる気がしています。


野田俊作顕彰財団(AIJ)あるいは日本アドラー心理学会の認定カウンセラーから直接学ぶことができれば、何も知らないところから(他の心理学は知らない方がかえって早い(笑))半年あればアドラー心理学を身につけることができます(本気で学ぶのが前提ですが)。


理論と思想と実践方法を学んで、日常生活の中で実践を繰り返しながら、カウンセラーの先輩にコーチしてもらえば、周りの人と協力しながら貢献的に暮らせるようになります。貢献的に暮らせるようになれば、周りの人を幸せにするので、結果として、自分も幸せを感じて暮らせるようになります。


アドラー心理学のある暮らしを想像してもらうのは難しくて、ポケベルもないような時代の人に、スマホの便利さをわかってもらおうとしているようなものなのでですね。別になくても困っていないんだけど(知らないから)、使ってしまえばそれなしの生活は考えられないようになるようなものなんですよね。


ということで、どんなに美味しい料理でも、食べたことがない人に、「美味しいよ、美味しいよ!」と言っててもしょうがないので、試食してもらうしかないなと。アドラー心理学の試食と言うと、既にアドラー心理学が身についている先輩とリアルに交わってもらうことですね。講義でも、ワークショップでも、自助グループでも、勉強会でも、カウンセリングでもいいんですが、そこにアドレリアンがいれば、ちゃんとその味は伝わると思います。


原爆が使われない未来のためにも、できることからやっていくしかないですね。一人とか二人しか来なくてもいいから、やっぱり勉強会をときどきやろうかな? 勝手に単独アドラー心理学ライブツアーという感じで、九州各県を回るとか(笑)。ちょっとしたスペースがあればいいので、お客さんを待っているよりは貢献になるかもなぁ… 楽しみながらいろいろ考えてみます。役に立った実績と自信はあるので(笑)。


林千勝さんの本、ぜひおススメです。広島、長崎を経験した日本人の子孫として、一度読んでみられたらと思います。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

毒親って

こんにちは、鍵野です。
昨日、前回の献血から3か月経って、また献血可能という知らせがあり、時間もあるし(たいていあるんですが(笑))、大分にある献血ルームに行ってきました。


今回も400mlと思って行っては来たんですが…残念ながら比重が少し足りず、貧血気味ということで今回は献血できませんでした。もともとギリギリの数値なことも多く、以前にも1回だけこういうことがあったんですが、最近あまり玄米を食べなくなって、麺類が多かったせいかなぁと少し反省。鉄分を少し意識して取っていこうと思っています。食生活を改善して、しばらくしてからまた行ってみます。


そして、今日は開業記念日でして(特に何をするとかはないのですが)、経営コンサルタントとして大分で開業してから13年目に入りました。サラリーマン時代には何度か転職していて、一番長い会社でも9年しかいませんでしたから、なんとかかんとかここまで続けてやれているところをみると、やっぱり自営で一人でやっていくのが鍵野の性に合っているんでしょうね。儲からないし人を雇う甲斐性もないんですが(経営コンサルタントがそんなことを言っていてはねぇ(笑))、一人が気楽なんですよね(笑)。他人の評価はともかく、他者に貢献できるという意味では、今、過去最高の力があると感じています。お金という物差しで言えば、新人サラリーマンの頃よりも稼いでないかもですが(笑)。そういえば、大学を卒業して最初に勤めたソフトウェア開発の会社が買収されるらしいとニュースになってました。まだそこにいるかもしれないかつての上司や同僚たちの顔が浮かびました。彼らにとっていい方向に進みますように。


さて、今日はちまたでよく見かけるワード「毒親」についてアドラー心理学の視点で考えてみたいと思います。


ちなみにWikipediaでは
毒親(どくおや、英: toxic parents)は、毒と比喩されるような悪影響を子供に及ぼす親に対して、1989年にスーザン・フォワード(Susan Forward)が作った言葉である。学術用語ではなく、スーザン・フォワードは「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」を指す言葉として用いた。」
とありました。


みなさんは「毒親」というとどんなイメージを思い浮かべますか? 具体的にはいろいろあると思いますが、ネガティブなイメージなのは間違いないですよね。育てている子どもに対して「毒」になる親という意味だと思うので。


アドラー心理学を学んでいると、概念の意味を捉えるときに、対で考える癖があるんですが、「毒」の反対は何になりますかね?


調べると対義語として「薬」というのが出てきますが、ちょっと違う気がします。「薬」も「毒」の一種のような気もしますし、悪い状態から戻すという作用はあるけれど、さらによくするという意味はないですもんね。


「毒」を、子どもの生命力が衰えていく方向に作用するという意味と捉えると、子どもの生命力が増していく方向に作用するという意味で「滋養」とか「栄養」とか「涵養」ですかね? 「滋養親」「栄養親」「涵養親」どれもゴロが悪いので、「慈親」がいいかなという気がしてきました。我が子を慈しみながら養い育む親というような意味で(ちょっと仏教的ニュアンスが入ってしまったかな?)。


まぁその辺はとりあえずどうでもいいんですが(笑)、アドラー心理学の用語として「毒親」というのはないので、あえてアドラー心理学用語で表現するとしたら、「(強烈に)子どもの勇気をくじく親」ですかね。その反対は「子どもを勇気づける親」ですね。ということで、「毒親」というのも、よくある子どもの勇気をくじく親の強烈バージョンに過ぎないよね、で、話を終わろうと思えば終われるんですが、せっかくなのでもう少し考えてみたいと思います。


アドラー心理学で「勇気」というときは、一般的な意味ではなく特別な意味があって、「自分だけのためでなく自分も含めたみんなのためになるような行動を選ぶ」というような意味です。なので「勇気をくじく」というのは、「自分のためだけになるような行動を選ぶ」ように仕向けるという意味になりますね。別の言葉でいえば「共同体感覚」を発揮するのが「勇気」の方向で、「自己執着」するのが「勇気をくじかれた」方向です。


ここでちょっと注意が必要なのが、「自分のためだけ」と言っても、勇気をくじかれて、それで例えば自殺をする人がいたときのことです。それって自分のためにもなってないのでは?と思われるかもしれませんが、アドラー心理学では、それは自分のためにしていると捉えます。どういうことかというと、それは、生き続けるよりは自殺した方がいいと自分のために自分で決めていると見るのがアドラー心理学だからです。無視されて社会に所属できないまま暮らすよりは死ぬことを選ぶ(自殺した人として社会に所属することを選ぶ)のが人間だと。


さらに注意が必要なのは、自殺は、安楽死尊厳死の議論とは違うところです。日本では安楽死尊厳死は認められていませんが、例えば、病に苦しんでいて、回復の見込みもなく、このまま苦痛が続いて、さらに家族にも苦労をかけ続けるのも忍びないと思っている人が、選べるのであれば自ら死を選びたいというとき、それが自分のためにもみんなのためにもなると本気でその方が考えているのであれば、それは勇気をくじかれた結果としての自殺とは全然違うことだと思います。


また、「いやいやいや、「毒親」に支配されてる子どもは、自分のためではなくて親のためになるような行動を選んでいるんじゃないですか? それは「勇気をくじかれている」のとは違うのでは?」という声も聞こえてきそうですが、それを考えるときに3点大事なポイントがあります。


まず1点目、「親のため」というのも、「親の言う通りにすること=親のため」とは限らないというところです。それが本当に相手の幸福につながるのかと考える責任はあります。もちろん生殺与奪の権利を握られているに等しい状態の小さな子どもにそれを求めるのは無理な話なのですが、親も子も別人格の対等な人間であるという意味で原理的には押さえておく必要があるポイントです。極端な例で言えば、親の犯罪の手伝いを子どもがするとかですね。他にはアルコール依存で苦しむ親に求められてアルコールを提供するとかですね。

2点目は、「親のため」にすることが、親を越えた「みんなのために」もなるのか、不利益にはならないのかと考える責任はあります。例えば、母親から「あんな子と遊んじゃいけません」と言われて、言う通りにした結果、仲が良かった友だちを遠ざけて、その子がとてもショックを受けて悲しんだとか。

3点目は、「親のため」とは言っているけれども、それはやはり自分のため、自分が生きていくために自ら選んだ行動であるということです。これも繰り返しになりますが、生殺与奪の権利を握られているに等しい状態の小さな子どもが、自分が生き残るためサバイバルするために、親の機嫌を損ねないようにそれ以外に選択肢がないような状況があるのは承知していますが、やはり原理的には押さえておく必要があるポイントです。


それで、アドラー心理学の視点で「毒親」を「(強烈に)子どもの勇気をくじく親」と言い換えてみて気づいたんですが、「毒」と「勇気をくじく」に表れている人間観に違いがありますね。


「毒」という言い方に、何かあきらめというか、毒なんだから化学的な作用で、人がそうなってしまうのも仕方がない、必ず悪い結果になるという原因論的な見方を強く感じます。


一方、「勇気をくじく」といった場合、くじかれている「勇気」はあったんだ、まだあるかもしれない、回復するかもしれない、勇気を持っている人と勇気をくじく人との相互作用的な感じ、結果に一枚かむことができる、何かしら作用できる感じがします。


もう少し具体的に考えたいので、人が「毒親」という言葉を使う場面、実際に鍵野が聞いたことのある場面の話をします。カウンセリングでの話です。相談に来られる方から「私の親が「毒親」で…」という話を聞くことがあります。


でも、「毒親」との関係自体を相談されたことはまだありません。相談自体はその親とのことではなくて、他の人との人間関係についてで、「毒親」というフレーズは、自分の育ち方を説明するときに出てきますね。「毒親」というレッテルを貼った瞬間、あきらめというのか、もうその人との人間関係をどうこうしたいとは思っていないのかなという気がしています。


そういう場合、こちらからその「毒親」に触るつもりはないのですが、とても原因論的に捉えられていて(まだアドラー心理学を知らないのでしょうがないのですが)、「毒親」に育てられたから、今の私がこんなに困っているという強固なロジックを持たれていることがあって、それをそのまま認めてしまうと、タイムマシンにでも乗って「毒親」による子育てのやり直しをしない限り、その方は変わらないことになってしまうので、アドラー派のカウンセラーとしては、「毒親」に育てられたその方であっても、人間関係の改善のためにその方にできること(これまでしていたことをやめる、あるいはこれまでしてこなかったことをする)を一緒にみつけていきます。


そして、「毒親」に育てられても、(変わりたければ)変われることを体験してもらいます。毒親に「勇気をくじかれた」人であっても、「勇気づけ」られて、「勇気」づいて、自分のためだけでなく相手のためにもなるように行動できたとき、もう「毒親」は必要なくなっています。自分が変わらないために、「悪いあなたかわいそうな私」で塗りこめられた、この上なく辛いけれどその辛いという期待だけは裏切られることがなかった(そういう意味では安心できていた)世界を守り続けるための「毒親」ロジックを使う必要がなくなってるんですね。本当に「勇気」のある行動ができたときには。


「「毒親」のことは忘れましょう」と言われて忘れられるのならカウンセラーなんて職業はいりませんよね(笑)。「毒親」という言葉を聞いただけで、いつものロジックでグルグル考えてしまうのが人間です。忘れよう、忘れようとするほど、定着してしまうものです。寝よう、寝ようと思うほど目が冴えて寝れなくなってしまうのと同じですね。


相談に来られた方が、現在の人間関係が好転するような動きをするようになった結果として、不安であれ、落ち込みであれ、憂鬱であれ、疲れであれ、怒りであれ、毒親であれ、いつの間にか「言い訳として」使わなくなっていたねというところを目指すのが、内的葛藤なんて存在しないという前提で動くアドラー派のカウンセリングです。


すべては人間関係の問題だと(アドラー心理学に扱えるのはという意味ですが(笑))。なので、過去にどんなひどい目に遭っていたとしても、それをその記憶をいまここで使っているのはその人であって、それには必ず目的があると考えるのがアドラー心理学です。かといって、どこかの本のように「あなたは「毒親」に育てられたことを言い訳にして、今やるべきことから逃げている!」なぁんて、アドラー心理学のロジックそのままを相談者さんにぶつけるような対話は決してしません(笑)。それこそ勇気くじきになってしまいますから。野田俊作顕彰財団(AIJ)と日本アドラー心理学会の認定カウンセラーにはそんな人はいないはずです(たぶん(笑))。


この辺りの構造的に何重かになった対話の進め方がアドラーカウンセリングの醍醐味だなぁと最近よく思います。


アドラー心理学のカウンセリングは治療ではなくて教育だと野田先生がおっしゃっていました。相談に来られた方にアドラー心理学を学んでもらうことがカウンセリングの本質だと。どうやったら効果的に学んでもらえるかの工夫がカウンセラーに必要で、これは日々鍛錬していくしかないですよね。先生方、先輩方のカウンセリングの見取り稽古をさせてもらいながら、自分なりに工夫していくところかなぁと思っています。


カウンセリング中に、アドラー心理学に対する質問をしてくださる相談者さんもいらっしゃって、鍵野はとても嬉しいのですが、そこではギアというかモードを切り替える感じで、その方のエピソードからいったん離れて、先ほどのようなアドラー心理学のロジック丸出しの対話をします。それは全然OKなんですよね。たっぷり理論とか思想についての対話をすることもよくあります(それで時間を使うことに合意が取れている前提があるからですが)。


エピソードに戻ったら、直接アドラー心理学のロジック自体が言葉として露出するのは避けます。せっかく講義ではなくて、カウンセリングに来てもらっているんですから、頭だけではなくて、心も身体も感情も全体でアドラー心理学を体験してもらいたいですもんね。なので楽屋や舞台裏はできるだけ見せません(笑)。


その辺りのカウンセリングでのモード切替の実際やアドラー心理学ならではの対話を体験されたい方は、ぜひ一度「鍵野の家」までお越しください。今ならキャンペーン中で大変お安くなっていますので(笑)。

 

最後に、参考までにですが、仏教では「毒親」はあり得ません。他にいくらでもある生命の中から、人間として生まれることができるというのは本当に奇跡に近いくらい恵まれたこと、過去の善行為の結果だと仏教では教わります。なので、その人間としての身体を用意してくれて、オギャーと生まれ出てくるまで、長い間お腹の中で栄養を与えてくれて守って育ててくれただけで、その後にどんなひどいことがあったとしても、それだけで、最大の恩人であるとされています。仏教では親孝行は絶対です。それは親を喜ばせていい気持ちになるためではなくて、自分の身体もしょせんは親から借りたものに過ぎないことをいつも思い出すためだと、仏教のお師匠様に教わりました。心を清らかにするための修行なんですね、親孝行は。


「産んでくれなんて頼んだ覚えはない」なんて言葉を聞いたことがありますが、お釈迦さまの教えからしたら、生まれたいからこそあえてその親をその環境を選んで生まれてきたんであって、しっかり頼んだはずなんです。むしろ親の方が「(あなたが)生まれてきてくれなんて頼んだ覚えはない」というのは、そりゃあそうかもしれないなぁと思います。


互いの業の結果として、今生では親子になることを選んだんだなぁと責任を引き受ける(虐待などを甘受するという意味ではありません。責任を持って離れる抗うこともあると思います)のが仏教的な構えだし、アドラー心理学的な構えにも整合するのではないかなと鍵野は思っています。


今日も読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

ライフスタイルと情報収集の指向性

こんばんは、鍵野です。
台風10号熱帯低気圧に変わったそうですね。といっても、さなぎが蝶になるとかとは違って、いきなり性質が変わるわけでもないでしょうから、相変わらず大雨などへの警戒は必要ですね、影響のある地域の方は。ハマチ(ワラサ)がブリになるようなものでしょうか? 逆か? ブリがハマチに? でも、それはあり得ないですね(笑)。18歳で大人と認定されたり、65歳で高齢者と言われるようになったりとか、そういう方が近いんですかね。誕生日が来ていきなり変わるわけもないですもんね(笑)。


9月に入って、ブログはしばらくお休みしようかと思っていたんですが、ある方と話していてちょっと書いておきたいテーマが出てきたので、書いてみます。


ライフスタイルと情報収集の指向性について考えてみたいんです。「ライフスタイル」については、何度か書いてますが、アドラー心理学ならではの概念で、その人が5歳から10歳くらいまでの間に作り上げた、周りの人たちと仲間になるための(最低限無視されないための)サバイバル戦略、人生の方針のことです。いったん作り上げたら、あとはよっぽどのことがない限り、その方針通りに暮らしていきます。シンプルに言えば「私は〇〇であるべき」という文で示されるような人生目標の実現に向けて行動し続けます(と考えるのがアドラー心理学です)。ここで言う「べき」は、英語の"should be"の和訳で、なかなか日本人にはピンと来ない感覚の言葉です。「人間なら当然〇〇であるべき、そうでなければ人間じゃない」という強いニュアンスを持った「べき」です。なので、他の人も当然そう思うはずと疑いもなく信じていて、常に「自分は正しい」目標に向かっていると信じ込んで暮らしていきます。


アドラー心理学(あるいは自分を超えるようなスピリチュアルな何か)に出会わなければ、ライフスタイルに縛られて、死ぬまで「私は〇〇であるべき」という人生を送ることになります。例えば「私は強くあるべき」という人生目標を持った人がいたとして、ボクシングなどの格闘技で世界チャンピオンになったとしても、まだまだ強い人は出てくるし、自分も衰えるし、100%満足できることはあり得ません。また、同じような目標でも「強い=お金を持っている」という意味づけをしている人だったら、格闘技ではなく、事業を起こして、お金を儲けるとか、投資をするとかして、どんどんお金を稼ぐだろうと思います。その場合でも、いくら稼いでもまだ上には上がいるし、これからも出てくるし、死ぬときは1円も持っていけませんし(笑)。「強い=賢い」という意味づけをしている人も同じですね。世の中にはいくらでも賢い人はいるし、いつかは脳も衰えるし、どんなに勉強したところで最後はご苦労様!で終わってしまいます(笑)。


それで、ライフスタイルに縛られるというのは、その人生目標を追及し続けるという意味なんですが、今日書きたいのは、そもそもライフスタイルに「情報収集の指向性」がビルトインされいて、目標追及だけでなくて、眼から耳から鼻から舌から身体から入ってくる情報が、既にライフスタイルの目標追及に寄与すると(思われる)ものにフィルタリングされているということについてです。


身近な例で言えば、お腹が空いて「何食べようかな?」と思いながら、街を歩いているときには、どんどん食べ物屋さんの存在が目に入ってきます。スープの匂いとか、タレが焼けている匂いだとか、そういうのにも敏感に反応しますよね。


ライフスタイルもそんな感じです。ここからは、あえてその辺りの話をわかりやすくするために意地悪く極端な感じで書いていきますが、お許しください。


例えば、「私はみんなから可愛いがられるべき」という人生目標を持っている人は、自分が人から可愛がられるために役立つ情報をどんどんキャッチし続けます。たぶん、賢くなるための情報や、強くなるための情報は、自分の目標追及には有害なので無意識的にスルーして暮らしていくことになります。


自分より可愛いがられる人がいたら、避けるか、邪魔するかして、たぶん仲良しにはならないと思います。比較されたらイヤですからね。それでも、その人がずば抜けて可愛い、もう競争しようもないくらいとなったら、すり寄ることもあるかもしれません。その方が自分が可愛がられるのに有利になると判断すればですね。


自分が可愛がられるためなら、どんな努力も惜しみません(努力が見えると可愛がられないと判断したら決してその姿は見せないでしょうけれど)。


親もきょうだいも友人も学校の先生も、会社の上司も部下も同僚も、夫(妻)も、すべて自分が可愛がられるためのリソースにすぎません。


自分の目標追及に関係のない情報はどんどんスルーしていきます。関係があればすぐに食いつきます。料理が上手になることが可愛がられることにつながるのであれば、真剣に学びます。少しドジな方が可愛がられるのであれば、決してドジな失敗からは学びません(笑)。


この人に子どもが生まれたとすると、その子が勉強ができるかどうかよりも、人から可愛がられるかどうかがもの凄く気になります。いつも人から可愛がられるようにしなさいという意味のことを繰り返し繰り返し子どもに教えていきます。そこが気になって気になってしょうがないので、その子が例えば強くていじめられそうになった友だちを助けたとか、周りに流されずに一人で行動できるとか、そういうステキなところがあっても、そこはスルーします。自分の目標追及の役に立たないので、この人にとっては価値がないんですね、そういう子は。それよりは、可愛がられて助けてもらうキャラの方をよしとする。それで、「可愛げのない子ね、この子は。まったくうちの子とは思えないわ」なんてことを言ったりします。


というのは、極端な例ですが、それでも我々は多かれ少なかれ、自分の目標追及の役に立つであろう情報ばかりを集めたがります。ライフスタイルが気にしない情報はなかなか入ってきません。


それで、アドラー心理学は人が幸せに暮らすためには、人と協力して暮らすことだ、共同体感覚を発揮して暮らすことだと主張しています。


人と協力するには、その協力する相手の関心に関心を持つことが不可欠です。この人は何を求めているのかがわからなければ、協力しようがないからです。それで、その人を観察したり、話したり質問したりしながら、その人の関心事を理解していこうとするわけですが、そのとき、自分の目標追及に汲々としていると、相手を理解するための情報が入ってこなくなります。入ってくるのは自分の目標追及に利する情報ばかりで、相手を道具と見立てての情報は入ってくるんですが、相手も対等の人間で、自分とは別の目標を追及している人だということを忘れてしまうんですね。


なので、いったん自分の目標追及を棚上げするというか、距離を取って、相手と協力するための情報を入手する必要があるんですね。なんだか難しそうに感じられるかもしれませんが、これ、できてしまえば簡単なことで、相手の関心に関心が向いたとたん、協力するために必要な情報がどんどん入ってくるようになります。


具体的には、
1.自分のその場での仮想的目標を意識すること。これで少し自分を俯瞰できるというか、目標追及から少し距離が取れるようになって、即行動に移すのではなく、情報収集するための間を持つことができます。
2.相手の普段の善い意図、普段発揮されているストレンクス(強み)を思い出すこと。さらに、この場での善い意図、この場で発揮されているストレンクス(強み)をみつけること。これによって、相手が自分の邪魔をする嫌な人ではなくて、懸命に生きて暮らしている対等な人間なんだ、協力し合える(可能性のある)人なんだと思い直せます。


そうすると、今まで見えていなかったこと、聞こえていなかったこと、感じていなかったことなどが、見えて、聞こえて、感じられるようになります。


そうなったら、新たに収集した情報を利用して、自分だけでなく相手も満足するような目標を再設定してから、行動すれば、それまでの自分の目標追及に邁進していたときとは違う結果が得られるようになります。今までよりも幸せな方向に踏み出せているはずです。


行動に使うリソースは、自分の目標追及のみに邁進していたころのそれと変わりません。使えるのは自分のストレンクスだけです。それでも、ライフスタイルに目が眩んでいると、本当はいろんなストレンクスを持っているのに、それらは引き出しに入れっぱなしで、いつものアレ、こういうときにはアレだよねと、その場のニーズには合わないかもしれない愛用のストレンクスのゴリ押しになりがちなんですが、そこから距離を取れれば、かなり幅広くいろんなストレンクスを使えるようになります。なぜかといえば、ライフスタイルによるフィルタリングが緩んで、予定調和的な、自己予言達成的な情報ではなく、今ここでのリアルな情報が以前よりもしっかり入ってくるようになるので、その場で必要とされること、問題解決にどんなリソースが必要かがより明確にわかるようになって、その場で使えるストレンクスがあれば、「じゃ、これ使ってみて」という感じで素直にスッと差し出せるようになるからです。


本当にライフスタイルを緩めよう、目標追及に汲々とする人生を変えようと思ったら、しっかりライフスタイル分析をしてもらう必要があるでしょうけれど、スポットのカウンセリングでも、価値観の親分である私的意味づけから派生するところの私的感覚を扱う「エピソード分析」をすることで、少しずつライフスタイルのタガが緩んでくることはあり得ます。


陰性感情をバリバリ使って、死ぬまで目標追及していくんだ!と突っ走っていく方をあえて止めようとは思いませんが、どこかで縁があるのであれば、アドラー心理学をおススメしたいとは思います。


目標追及するのは人の勝手だろ!と言われれば、それはそうなんですが、でも、その勝手の結果としての代償があまりにも大き過ぎる場合があるのを我々人類はたっぷり経験してきています。戦争、ホロコースト原水爆などなどですね。なので勝手にはしたくないんですね。お互いにお互いの幸せの実現に関する責任がありますよねと、言いたい。


難しいのは、人に強制した瞬間にそれはアドラー心理学ではなくなってしまうということです。あくまでも個人個人が主体的に選んだ結果としてアドラー心理学の学びと実践があるというところが、魅力でもあり難しさでもあるといったところですね。アドレリアンは皆、アドラー心理学の普及を目指して活動しているはずですが、でも、それは布教とは違うわけで、息の長いムーブメントとして、どうやって活動していくのがよいのか、悩ましいところですね。


そうそう、今日は野田俊作顕彰財団(AIJ)のカウンセラー養成講座最終日なのでした。果たして何名の新しいアドラー心理学カウンセラーが誕生したのか? 楽しみですね! 受講された方、見学された方、そしていつも熱心にご指導くださる先生方、本当にお疲れ様でした。ここが日本のアドラー心理学普及の一丁目一番地だと思っています。


新しくカウンセラーになられた方、養成講座を修了された方が、また地元に戻って、野田先生から受け継がれてきたアドラー心理学を多くの方に伝えていくんですよね。


大げさではなく、日本人の未来への希望の灯がまた新たに灯った日をお祝いしたいと思います。おめでとうございます!
お互い、今を生きる人たちのためにはもちろん、未来の子どもたちのためにも、できることはしていきましょうね。一緒に学べる日を楽しみにしています。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

劇的ビフォーアフター 何が違ったのか?

こんばんは、鍵野です。
九州から台風が抜けて、雲は多めですが何日かぶりに青空が戻ってきました。台風の影響を今受けている、これから受ける地域のみなさま、勢力は弱くなってはいるようですが、どうぞご安全にお過ごしください。


今日で8月も最後ですね。ここのところ毎日ブログを書いています。最初は100本書いたらそのくらいでいいかなと思っていたんですが、いつの間にか100本は大きく超えていて、これなら200本目指そうかという気になってきまして、それで最近は毎日書くようになって、投稿数を見たら今日で207本目になるんですね。そんなに書いたかなとちょっと驚きました。諸事情から途中10本くらい削除した記事があるんですが、それでも200本以上書けたというのは、質はともかくとして、よっぽどアドラー心理学とそれについて書くことが好きな証拠ではあるなぁと、あらためて思いました。


もともと日記としてではなく、アドラー心理学のことを書いておきたい、書きながら考えを整理していきたい、世の中の物好きな人たち、アドラーおたくというか(笑)、同好の士、アドラー心理学を学びたいという人たちの何かの役に立つかもしれないという思いで始めたブログでしたが、書きたいことは書けた気もしてますし、もう似たようなテーマで何度か書いているのもありそうで、無理やり書くものでもないし、宣伝効果は全くなさそうですし(笑)、9月からはしばらくお休みしようかなと思いながら、今日も書き始めています。


今日は、アドラー心理学を学ぶ前の鍵野だったらどうしてたかな?とシミュレーションしてみたいような出来事があったのでそれについて考えたいと思います。


お昼前に母から電話があって…

母:美容院に予約してるんだけど、列車走ってるかな? 12時過ぎので行く予定にしてたんだけど…
私:(そういえば、今日は静かだなぁ…(線路が目の前なので、いつもはときどき列車が通る音が響くんですが)と気づいて)走ってないなぁ… 台風の後だから止まってるかもしれないね
母:バスは走ってるよなぁ?
私:わかんないけど… 車で送るよ
母:いいの? わぁ、そうしてくれると助かる~。嬉しい~
私:じゃぁ、ちょっとしたら行くよ
母:1時になってもいいけん
私:うん。じゃぁ12時半に迎えにいくわ
母:はい。ありがとう。
私:はい(電話を切る)

こんなやり取りがあり、車で30分はかからないくらいの、佐伯市内の美容院への送迎をすることになりました。

美容院ということは、ある程度時間もかかるだろうし、マクドナルドかジョイフル(九州ではNO.1の大分発のファミレス)で本でも読みながら待つか…と、割と参考にしている、最近お亡くなりになった米国西海岸ワシントン州のアドレリアン、ヘンリー・スタインの"Demonstrations of Therapeutic Techniques"という本を用意して母を迎えに行きました。


美容院に送ったのが1時ちょっと前くらいで、最近はカフェイン断ちをしているので、マクドナルドよりは、ジョイフルのドリンクバーでいろいろ飲む方がいいかと思い、近くのジョイフルで待つことにしました。

ドリンクだけというのも何なので、チーズケーキもいただきながら、"Demonstrations of Therapeutic Techniques"に書かれているスタインとクライエントととの、デモンストレーションながらもリアルなお悩みを扱った真剣なやり取りに引き込まれていきました。"Socratic Method"とスタインが呼んでいる、アドラー先生譲りの、相談者の気づきを促す質問(ソクラテス的質問)に感心しながら、読み込んでいくうちに時間は過ぎ…、1時間、2時間と経過していきました。


母から連絡はありません。まぁ髪を染めたり、いろいろ時間のかかることもあるだろうしと、一応LINEで「終わるの何時ころになりそうですか?」と連絡を入れてから、また本に集中したり、疲れて、動画を見たりなどしていました。


3時間経ってもまだ連絡がありません。LINEも既読になっていません。まぁLINEを見ないのはいつものことなので…と、こんどはSMSで「美容院 何時ころ終わりそうですか?」とメッセージを入れました。


そこから30分ほどして、母から電話が入りました。

母:もしもし? まだ佐伯におるんよな?
私:うん
母:ごめんな~、私、携帯忘れてきて、バッグを変えたときそのままでなぁ… それで、Yちゃんに迎えに来てもらったんよ。それで、もう家におるんよ
私:そうなの? ならよかった
母:どう償ったらいいかなぁ… ごめんなぁ…
私:いや、いいよ。はい。じゃぁ…
母:…
私:(電話を切る)

その後、ジョイフルで会計を済ませてトイレを借りてから家に戻りました。家に戻ってしばらくすると、母が来て、申し訳なさそうに…

母:ごめんなぁ…、本当に。兄ちゃんにどう償ったらいいか…
私:いや、いいよ。誰でも失敗はあるから…
母:あんたは優しいからなぁ… おばちゃんが「○○だったら大変なことになるで~」って言ってたわ
私:まぁ、大丈夫でよかった
母:これなぁ、あそこで買ったパン。Yちゃんはいらんて言うけ~、それで、これが○○さんからもらった饅頭
私:ありがとう。明日にでもいただきます
母:ごめんなぁ…(私のいるリビングから出ていく)
私:よかった
母:(自転車で戻る)


陰性感情をチェックしてみると、2時間経過してまだ連絡がなかったときに、ちらっと「思ったより時間がかかるんだなぁ」という感じで -0.1 くらい。

3時間経過してLINEが既読になってないところで 「何かおかしいなぁ… ひょっとして家で待ってると思われていて、買い物とか済ませてから連絡しようとしてるかな」と想像して、-0.2くらい(携帯忘れてるかもの想定は全然しませんでした。これ、自分がほとんどしたことないので想像できてないんですね、今思えば。結構、あることなのに、母の場合は)。


電話があったときは、連絡がついたことでマイナスではなく+0.5くらいになって、携帯忘れたこと、家にいることもわかって、まぁよかったと、+1に増えたくらいでした。


そうだ、電話の冒頭の「ごめんなぁ…」のくだりは、電話の声がとっても申し訳なさそうにしているので、それはちょっとマイナスに感じてましたね。-1くらいですかね。そこから事情が分かって少しプラスに反転したという感情の流れだったように思います。


まぁ、美味しいチーズケーキは食べれたし、待ちが長いのでフライドポテトも追加で食べちゃえたし(笑)、スタインのカウンセリングの進め方も再確認できたし、迎えには行けなかったけれども(笑)、送ったことで母も目的が果たせたわけで、貢献(親孝行)もできて、よかったなと。戻る道中も、戻ってからも、いつもと変わらず落ち着いて過ごせました。


これ、もしアドラー心理学が身に付く前の鍵野だったらどうだったか? カウンセラー養成講座を受ける前の鍵野だったらどうだったかと想像してみるのも、面白いかなぁと思って、ちょっとやり取りがどう変わるか考えてみました。


先ほどのやり取りをベースに変えてみようと思って、今、気づいたんですが、昔の自分だったら、たぶん2時間経ったところで、「おかしい? なんかあったな」とジョイフルを出て、美容院に行ってますね(笑)。かなりの陰性感情を行動のエネルギー源にしながら、イライラした気持ちで美容院のドアを勢いよく開けている気がします。


結果として、今日の現実よりも早く、母が携帯を忘れてもう帰ったことを知ることができたかもしれないし、あるいはまだ美容院に母がいて、母を迎えに行くというミッションを達成することができたかもしれません。


できたかもしれませんが、感情的にはマイナスの波に翻弄されているでしょうし、何か嫌な言葉とか態度を母にぶつける結果になっていたはずです。どんな言葉や態度にしろ、母の勇気をくじく結果になっていたと思います。それを見て、そんなことをする自分がイヤになって、自分の勇気もくじいていたと思います。


一方、アドラー心理学が身に付いてから(カウンセラーなのでそういうことにしておいてください、一応)の現実の結果は、自分以外にも助けてくれる人がいて実際に助けてもらえてるという母の力は凄いなぁと思えるし、そういうことがあっても、よかった!と思える自分も、いいねと思えてるし、母も自分も勇気づけられたのではないかなぁという気がしています。


何が違ったのか?


アドラー前(笑)の鍵野は、いつでも自分の目標追及のために突っ走っていたと思うんですね。なので「美容院に母親を送り迎えする」という自分のミッションを達成するための道具としてしか母を見れていなかったのではないかと。それを邪魔するやつは許さん!という感じで怒りをぶつけていたのではないかと。


一方、アドラー後(笑)の鍵野は、「美容院に母親を送り迎えする」ということを、自分だけのミッションとしてではなく、母と作戦を練って作り上げた共同の課題として捉えていて、そのために「終わったら電話してね」「わかった」という、事前の取り決めを大事に、まずは電話を待つことを大切に、アドラー前よりも気長に感情を使わずにできたのではないかと思っています。そして、もともとの目的を達成することが大事なのであって、自分が活躍するとかは二の次で、状況が変わって役割が変わっただけだと冷静に受け止められたんだと思います。目的が果たせたのであれば、後はもう帰るだけだと(笑)。


母が携帯を忘れてきてくれたおかげで、あらためてアドラー心理学で学んできたことを確認できましたし、こうしてブログに書いてみなさんに紹介することもできたわけで、感謝しないといけませんね。


お母さん、(今日も)ありがとうございます!(笑)


アドラー心理学、いいですよ、本当に。


今日も読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

家族会議って

こんばんは、鍵野です。
台風10号の脅威が去って、雨戸を開けて、浸水対策の土嚢も片づけて、通常モードに戻りました。
母が食パンを買ってきて欲しいというので、出かけてみましたが、やはりというか、そもそもスーパーは休業していて、ドラッグストアとコンビニに行っても、パン類はほとんど品切れ状態で入手できませんでした。そりゃぁそうですよね、物流も止まってるだろうし、避難生活に備えて買って行った人もいるでしょうしね。明日のパンは諦めました。


そういえば「明日のパン」って、鍵野は小さい頃から聞いてきた言葉ですけど、関東ではあまり使われない言葉らしいですね。朝にパンを食べることが多かった気がします。母も忙しかったし、手軽でよかったのかな? 今日食べるパンではなく、明日のパンを買うんですよね。東京に移ってからですが、すぐ近くにサンドイッチ屋さんがあって、朝、買ってきて、それを食べてから学校に行くという日も結構ありました。これは「明日のパン」ではないですね(笑)。


その頃住んでいたのは東京の市部でしたけど、歩いてすぐにちょっとした商店街があって、本屋さん、お肉屋さん、ラーメン屋さん、豆腐屋さん、八百屋さん、薬屋さん、駄菓子屋さんとかいろんなお店がありました。それぞれのお店のおじさんおばさんとももちろん顔見知りだったし、40年以上も前の話で、まだ大型店の出店が規制されていた時代だったからこそだったんでしょうね。デパートだけが特別という感じの時代…。イオンモール全盛の現代の子どもたちには想像しにくい世界かもしれませんね。商売をしている人もそのお客さんも同じ町の住人として一緒に暮らしていくのが当たり前だった世界。たいていのものは近所の○○屋さんで買うのが当たり前だった時代があったんですよね…。


今日は家族会議について考えてみたいと思います。「家族会議」というのは、家族でアドラー心理学を実践するためのベースキャンプのようなもので、基本でありながら、しかし、なかなか難しいところもあってうまく取り組めてないご家庭も多いアドラー心理学の一つのプラクティスです。


基本とは言いましたが、アドラー心理学の子育て学習プログラム「パセージ」の最後の方に出てくるプラクティスで、実際は、かなりアドラー心理学らしく動けるようになってからでないと難しいんですね。


前にも少し書いたんですが、鍵野はパセージを受ける前に、本で読んだだけで「家族会議」をやってみよう!と先走って、子どもたちにひどく迷惑をかけました。形だけ「家族会議」で、実際は、親父の命令伝達会議のようになってしまって、盛り上がらないというか…盛り下がるというか、嫌な感じで終わってました。


家族会議というのは、家族全員(未就学児はオブザーバー参加)が、仲良く協力して暮らしていくために、みんなで話し合っていろんなことを決めていくための会議体です。


そのためには、互いが互いのことを人として対等に尊敬し信頼できていることが前提になります。それができていなくて、鍵野が最初失敗したように、話し合う体をしてはいるけれども、「決めるのは自分!」なんていう気持ちで実施すると、すぐに見透かされますし、せっかくの大事な技法でもある「家族会議」を汚してしまって使えなくしてしまいます。


なので、いきなり重要な話題について話し合うのは、プレッシャーがかかって、力んでしまって、空回りしがちなので、やめた方がいいです。最初は、「今度どこに遊びに行こうか?」とか「クリスマスケーキ、どんなのにしようか?」とか、そういった深刻でなくかつ楽しいことをみんなで意見を出し合って決めていくのがおススメです。


全員にそれぞれ意見を出してもらって、できれば多数決ではなく、全員一致で決めたいですね。一回で決める必要もなくて、次回に持ち越しでもいいわけで、できるだけ相手を説得できる材料を用意しながら、話し合って、意見が割れてる場合でもいい意味での妥協点をみんなの協力で見出していきます。


我が家でも、旅行の行先とかも話し合って決めてましたし、面白かったのが、電子レンジが壊れたときだったと思うんですが、新しいのを買おうとなって、どんなのを買うか?という議題になったことがありました。まず目的を話し合って、こういうこととこういうことがしたいと。印象に残ってるのが娘がお菓子作りをしたいということで、オーブン機能が充実している必要があるねということになり、その目的に合った候補を調べる役割を鍵野がやることになりました。それで、次の会議で、3つくらいだったかな、候補機種を出して、最終的に娘の推しに、鍵野も息子も賛成して、シャープのあまり高くはないけどスチーム機能もあるオーブンレンジを買うことに決めたのでした。


今ではもっぱら冷食の温め専用な感じで活躍してくれていますが(笑)、当時は、娘だけでなく息子もお菓子を作ったり、親父も揚げないトンカツとか揚げないから揚げを作ったりして、みんなで、やっぱりこれ買ってよかったね、と喜んで、娘もその選択に貢献できたからだと思いますが、本当に嬉しそうだったのを思い出します。


そういった楽しい会議に慣れてきたら、やがて深刻な話もできるようになっていきます。家族が話し合って、知恵を出し合ってお互いの幸せのために貢献し合うためのベースキャンプとしての家族会議ができるようになれば、本当に心強いですよ。家事の分担の話から、病気の話や、お金の話、進学の話も、家族みんなの問題として話し合うことができるようになります。みんなで相談して作戦を立てて役割分担して実行するという、これぞまさに、アドラー心理学の目指す姿"Cooperation"(協力)の実践ですね。


「家族会議」やってみたいと思われた方もいらっしゃるんじゃないでしょうか? そうでしたらぜひ、生兵法で怪我をした昔の鍵野のようにならないためにも、野田俊作顕彰財団(AIJ)の「パセージ」を受講するのが一番です。子育ては卒業したから「パセージ」は…とか、近くで「パセージ」は開催されないなどのご事情がおありであれば、お近くの野田俊作顕彰財団(AIJ)の有資格者もしくは日本アドラー心理学会の有資格者をつかまえて相談してみてください。先ほども書いた通り、「家族会議」は、初心者がいきなりできることでもないのでおススメはしないのですが、でも、アドラー心理学を学んでいく中で、どこかではできるようになった方がグンと実践が楽になりますから、ぜひ取り組んみていただきたいなぁと思っています。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

わざわざお金を払って相談する人がいるのか

こんばんは、鍵野です。
いやぁ~、台風10号、凄い雨でした(過去形にしていいのかな?)。鍵野の家の裏の川もお昼過ぎくらいには溢れる寸前という感じで、そろそろ2階に非難しないとかなぁと思っていたんですが、午後3時過ぎくらいから雨が弱まってきて、川の水位も下がってくれました。ひとまずよかったです。


雨が弱くなって、ツクツクボウシも鳴き始めて、あれなんか嬉しいですね。他の生き物が元気に活動しだしたのがわかると、こちらも安心するというか、彼らの生きるためのセンスを信頼できる感じもあって、大きな危機は去ったんだなと思えました。それでも、明日もまだ台風は九州にいるようで、佐伯市はもうそんなに雨は強く降りそうにないですが、土砂崩れの心配もあるし、警戒していようとは思っています。


これから強い雨風にさらされる地域のみなさま、どうぞご安全にお過ごしください。そういえば、今日から野田俊作顕彰財団(AIJ)のカウンセラー養成講座の後半が始まってるんでした。滋賀県はどうなんだろう? 琵琶湖で高波とかはないんだろうけども(あるのかな?)… 受講生のみなさん最後まで力を発揮できますように。そして、アドラー心理学カウンセラーが誕生されますように! 応援には行けませんが、みなさまがアドレリアンとして納得いくまで成長されることを願っております。


今日はお金を払って人に何かを相談するということについて考えてみたいと思います。これまでまったく人に相談なんてしたことがないという方もいらっしゃるかもしれませんが、小さいころからのことも含めて、何かしら誰かに相談したことがあるという人の方が多いのではないかなと勝手に思っています。それでも、お金を払ってまで相談したという経験がある方はあまりいらっしゃらないと思います。何かのサービスを受けるための前処理としての相談という意味では、それこそ病院や美容院とか薬局とか、普通に経験があると思いますが、相談だけのためにお金を払ったというのはあまりないのではないでしょうか。


鍵野はといえば、じつはアドラー心理学を学ぶまで、人に何かを相談したことはありませんでした(覚えている限り)。それこそライフスタイルだと思いますが、親にも妹にも学校の先生にも上司にも同僚にも何かを相談した記憶がありません。自分で考えて自分で決めて自分で実行して(よくも悪くも)自分で結果を味わうという生き方をしてきました。


そんな人に相談をしたこもない人間が、人から相談を受けてお金をいただく商売をしようと脱サラして始めたのが経営コンサルタントという仕事でした。実際は、セミナーをしたり、計画立案をしたり、調査報告書を作成したり、何らかの作業だったり納品物があったりすることも多くて、相談だけでお金をいただくというのは、売上全体から見ればそんなに多くはありません。


他に、相談を受けてそれでお金をいただく仕事としては、(心療内科、精神科)医師、(心理)カウンセラー、経営コンサルタント、弁護士、占い師ですかね? あっ、コーチングもそうかな。 医師は診断して薬も処方するわけで相談がメインのサービスではないでしょうし、弁護士は具体的な事件を受任してそこでの弁護の仕事で稼ぐための入り口としての相談で、相談が本務ではないでしょうし、その場で相談を受けること自体が即価値提供になっている商売というと、カウンセラーと占い師とコーチングなんですかね、そうすると。


それで、公的サービスが普及している日本の場合には、「お金をいただく」サービス提供者と、相談者であるサービス利用者と、「お金を払う」公的機関という三者関係の中で、「お金を払って人に何かを相談する」ことが成立している場面が多々あって、相談というサービスをわかりにくくしている面があるように思います。


経営コンサルタントの仕事でもしばしば発生するのが、相談する事業者さんからはお金をいただかないけれど、公的機関からお金をいただくケースです。これだと、事業者さんの財布は痛まないし、気軽に利用してもらえますよね。こういった経営相談の公的サービスは大変普及していて(その一端を担っているわけですが)、相談にお金を払う必要があるとは思っていない方が多いような気もしています。


本当は、公的機関を間に挟まず、民民契約での経営コンサルティングの方が、素直でやりやすくて効果的だとは思っているんですが、まず先にコンサルティング料を払うわけでその分儲けが減るのだけは確実ですから(笑)、飛ぶように売れるというわけにはいきません(笑)。ありがたいことに鍵野も開業以来、ずっと使ってくださっている会社さんもありますが、それは普通ではなくて例外ですね、あくまで。こちらから、「そろそろ大丈夫そうですから、今月でやめましょうか」とか言うくらいなので(笑)。


カウンセリングにしても、公的サービスとして無料で相談を受けられるところがたくさんありますよね。電話はもちろんLINEでの相談も受けているところがあるとか。こうした経営以外の分野でも相談にお金を払う必要があるなんて考えもしない方が多いのではないでしょうか。


民業圧迫!とか言うつもりはないんですが(笑)、こういう状況では、カウンセラーとして独立して自分でお店を張ってやっていくという人はなかな出てこないですよね。専門の大学院まで行って勉強して、臨床心理士とか公認心理師とかの資格を取って、心理の仕事で食べていくとしたら、公的機関の職員に採用されるくらいしか道がないのかなぁと。あるいは非常勤で公的な仕事をしながら、カウンセリングルームでも仕事をするとかですかね。相談でお金をいただいて仕事をしている臨床心理士さんは全体の8%くらいというデータを見たことがあります。それだけの勉強をしてて…、なんか歯がゆいというか、もったいないというか…(しかも、大変残念なことに、臨床心理士とか公認心理師になるための勉強の中で、アドラー心理学はまったく教わらないはずで、アドラー派のカウンセリングがしたい人はそこからさらにたっぷり時間とお金をかけて学ぶ必要があるんですよね…)。


そんな中でも、わざわざお金を払ってこんな田舎に相談に来てくださる方がいるにはいるんです。ありがたいことですよね。経営相談ならまだしも、普通、カウンセリングとなると口コミというのはかなり難しいんですよね、悩んでいるということを知られたくないという人が多いでしょうから、日本では、まだ。それでも、中には紹介してくださる方がいらっしゃって、その方のおかげでたくさんの方の相談を受けることができました。少しはお役に立てたようでもあり、本当に感謝しています。ありがとうございます!


他に、ホームページやFacebookから鍵野の活動を知っていただいて、相談してくださった方もいらっしゃいます。これも本当に嬉しいです。ありがとうございます!


開業当初に、少しだけネット広告を打ったことがあるんですが、あれは見事に空振りでした(笑)、いい勉強にはなりましたが。


開業して1年経ってわかったことは、
1.お金を払ってでも相談したいという人はいた(思ったよりたくさんいそう)。
2.何らかの理由でディスカウントすると喜ばれた(やっぱり利用者にとっては安い方がよさそう)。
3.高いから相談できないという人はいなかった(短い間隔で相談できるようにある程度お金を用意してから始めたいという方はおられたが)。
4.全員とまでは言わないが、来た時よりも明るい見通しを持って帰られる人がほとんどで、やっぱりアドラー心理学は効果的だった。
5.何度も来てくださる方もいた。
6.県外から往復数時間かけてでも相談に来てくれる人も何人かいた。
7.紹介もなしで鍵野とまるっきりの初対面というのは、ないことはないがかなりのレアケースだった。

ということで…、公的機関の無料相談があるからどうこうというのは、そういう論旨で書いていくつもりだったのですが(笑)、鍵野についてはあまり関係なさそうだと、今、書いていてわかりました(カウンセリング一本でこれから家族を養っていくというような若い方であれば切実に関係があることだとは思いますが)。


もし、無料にしたところで相談者が来てくれるわけでもなさそうです(アドラー心理学に申し訳ないのでしませんが(笑))。


結局、鍵野の知り合いの知り合いくらいまでの範囲でしかお客さんはいらっしゃってないなと(笑)。


ということは、もしお客さんを増やしたいのであれば、知り合いを増やすしかないのかな… うーん、古典的ですね、経営の本で書いた気がする(笑)。


知り合いと言っても、かつて経営相談を大々的にしていたときに知り合った人たち(相談してくれた人たち)はアドラー心理学のお客さんとしては誰も来てくださっていないので(いいんですけどね(笑))、そういう知り合いではなくて、やっぱり「アドラー心理学」に興味のある知り合いを増やさないといけないんでしょうね。


そもそもお客さんを増やしたいのか? と聞かれたら… うーん、少し…ですね。少しは増やしたい気持ちがあります(笑)。そんなに忙しいのもイヤなので(笑)。


やっぱりいろんなところで勉強会をした方がいいのかなぁ?(大分の勉強会を終了したばかりだけど(笑))


口コミが強力なのはわかっているんですが、あまり人に言いたくはないでしょうから(この前提ひょっとして間違ってる? 間違ってたらぜひ教えてください)、匿名性のある口コミですかね、食べログみたいな? どうなのかなぁ…、直接信用している人に勧められるのとはわけが違いますもんね。でもないよりはいいですかね? 利用しての感想みたいなものを何人かの人にお願いしてみようかなぁ?


美容院がその腕を競うように、カウンセラーが腕を競って、お客さんを獲得していくという世界になったら、アドラー心理学が勝つもんねというようなことを野田先生がどこかでおっしゃっていましたが(こういう競争はいいんですよね(笑)、切磋琢磨)、そういう世界は…来そうにないですね、この日本では、まだまだ(笑)。


しばらくは無理せず、遠いかもしれないけど来てくださる方中心に、必要に応じてアドラーカウンセリングを提供できる環境を維持していこうとあらためて思いました。

 

そうそう、近くにアドラーカウンセリングができるところがあれば相談したいという方がもしいたら(メールででも)教えてくださると嬉しいです。すぐに対応できるわけではありませんが、せっかくアドラーカウンセリングに興味を持たれている方がいるとわかれば何か手立てはある気がしています。どうぞよろしくお願いします。


今日も読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。