アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

声がけをどうすれば?

こんにちは、鍵野です。
ゴールデンウィークに入りましたね。サラリーマン時代は有給を使って大型連休にしていたのを思い出します。休んで何をしていたのかはよく覚えてないんですが、たぶん子どもたちとどこかに出かけていたんだと思います。有給消化率はかなり高かったですね(笑)。今は、休みといえばいつも休みみたいなものなので、わざわざ大勢の人がお休みのときに何かしようというのはないんですが、今年は珍しくお出かけします。5月4~6日に滋賀県は大津、琵琶湖のそばで開催される、野田俊作顕彰財団(AIJ)のサイコドラマ(心理劇)ワークショップかささぎ座に参加するんです。楽しみです。


これで野田先生の流れを組むアドラー心理学のほとんどの講座に参加したことになるんじゃないかなぁ(一部の特殊講義は除いて)。スタンプラリーをやっているわけではないけれど、でも、ひと区切りというか、7年間学んできて、アドラー心理学について納得できた感のある自分へのご褒美的な気分で、卒業というわけではないけれど、「もっと賢くなってやる~」といういつもの欲まみれではなく(笑)、純粋に楽しんで来よう経験して来ようという気分でいます。


前回書いた脱カフェインは継続中で、4日前にどうしようもなくてドリップパックのコーヒーを飲んで以来、普通のコーヒーは飲まずに済んでいます。頭が痛くなってきたなぁというときにほうじ茶を飲んだり、朝と夕方に水では味気ないというか、楽しみとしてディカフェ(97%除去)のコーヒーを飲んだり、ルイボスティーも試したりしながら、そんなに激しい離脱症状なく過ごせています。微妙に頭が痛いというか膨張している感じがあるのと、身体が重い感じはありますが、代わりに焦りがないというか、一日中とても落ち着いていられる感じがします。


やっぱりカフェインに急き立てられていたんでしょうね。危険はないのに危険に備えている感じの身体がギュッとなった感じだったんだなぁと、今は緩んでいるので、それとの比較でよくわかりました。たしかに、やることが決まっていて、直線的にこなせる仕事のスピードを上げるには効果があったんだろうなと思います。「早く、早く!」と何か追い立てられている感じがあって、締め切りはまだずいずん先の仕事でも、詰めて詰めてたいてい早く終わらせていました。それで、終わらせてホッとはするんですが、でも、事態は変わるので(無常ですから)、早く終わらせても、かえって二度手間というか、お客さんの状況変化があってもう一度やり直しなんてことがずいぶんありました。まぁ、一度やっているので、ロジックは組みあがっているから、次はもっと早くできるんですが、もっとゆったりやってもよかったかもなぁなんてことは、よくあることでした。


ちなみに写真はカフェインの力も借りながら一気に書き上げた鍵野の処女作にして最終作(笑)です。このころはまだカウンセラーになっていなかったので、おおっぴらにはしていませんが、経営分野の本ではありますが、アドラー心理学で考えて書いた本です。大出版社じゃないのが幸いしたのか、まだ絶版にならず、細々と売り続けてくださっています。アマゾンhttps://amzn.asia/d/0Vv03pq楽天ブックスにも在庫あると思います。会話形式で読みやすく仕上げたつもりです。よろしければお手に取ってくださると嬉しいです。宣伝でした(笑)。


それ(二度手間覚悟で早く仕上げる)も含めて、個人全体が主体的に判断して、カフェインも使って、ライフタスクに対処してきた結果として今の自分があるわけで、その経験があって、今、意識的に脱カフェインの実験ができていて、どうもこのままいい結果になりそうな感じがします。


たぶんライフタスクが変わってきたんでしょうね。そんなカフェインの力を借りなくても済む暮らし方になってきたのに(「炊くほどは風が持て来る落ち葉かな」という感じ(笑))、それに適応できていなかったんだけれど、ようやく気づいて、今適応努力中というところかなぁと思っています。


さて、例によって長い前置き、しかも関係ない前置きだったのですが(笑)、今日は、「声がけ」について考えてみたいと思います。


「どんな声がけをしたらいいんでしょうか?」とよく聞かれます。たいていはお子さんのことですが、たまに部下への声がけのことだったりもします。


これ、ちょっとどう答えていいものか、ちょっと困るんですよね。時間と状況が許せば具体的な出来事、やり取り、エピソードをお聞きして、いくつか質問に答えていただいた上で、その方ではなく、相手の、お子さんだったり部下さんはどうして欲しい状況だったのかを一緒に考えてから、その方の声がけを含めた行動を、できればご自分でみつけられたら一番いいかなと思うんですが、これはほとんどカウンセリングになってしまうので、なかなか普通の質疑応答とかの場面では難しいことが多いのでですね。


たぶんこういう質問をされる方というのは、何かアドラー心理学の本を読んでいらして、でも、きっと野田先生の本ではなくて(笑)、たぶん野田先生のお弟子さんの本でもなくて(笑)、なので、「アドラー心理学」というものを学んだら、(少しは)世の中が自分の思い通りになると信じている方のような気がします。


うまい「声がけ」さえできたら、相手が思い通りになるんだけれど、自分はまだそのうまい「声がけ」を知らないから、そうなっていない、だから、イライラしたり、カチンと来たり、怒鳴ってしまったりするんだ、だから、そのうまい「声がけ」を教えてちょうだい、という意味の質問かなぁと。


だから、ハードに、ストレートに答えてしまうと(途中で怒って帰ってしまうかもしれませんから、実際にはこんな風には言わないと思いますが(笑))

質問者:子どもにどんな声がけをしたらいいんでしょうか?
私:どんな声がけをしてもダメです。声がけをどうこうしようと考えているうちはどうにもなりません
質問者:は? じゃぁ、どうしたらいいんですか?
私:アドラー心理学を学ぶことです
質問者:だから、聞いてるんじゃないですか!
私:声がけは問題じゃないんです
質問者:じゃぁ、何が問題なんですか?
私:あなたの構えです。「声がけ」を知ってどうしたいんですか?
質問者:ゲームをやめて少しは勉強して欲しいんですよ。
私:そのとき、ゲームをしているお子さんを見てどんなことを感じてましたか?
質問者:え? うーん… なんでいうこと聞かないのよ。こんなんじゃロクな大人にならないわよ、って思ってました。
私:怒ってました?
質問者:はい。イライラを通り越して、怒ってましたね。
私:それです、構えって。ところであなたは怒っている人の話を聞きたいですか?
質問者:いえ、いやです、それは。でも…誰だって怒りますよ、あんなにゲームばっかりしてて…
私:怒ったまま、どんな声がけを考えてもムダだと思われませんか? 怒った人が言葉だけ丁寧でも、かえってムカつきません?(笑)
質問者:それはそうですね。
私:でしょ? だから、「声がけ」だけ学んでもムダなんです(笑)。
質問者:どうしたらいいんですか?
私:だから、アドラー心理学を学ぶことです。人に対する構えをですね。子どもさんを怒らずに済むようになれば、あなたの話を聞いてくれるかもしれませんよ。


相手を裁く構え、自分が上で相手が下、自分が正しくて相手が間違っている、自分が美しくて相手は醜い、自分は賢くて相手はバカだ、(人によっては自分を下にするのが好きな人もいますが、それも人に優劣をつけるという意味で同じことです)といった競合的な構えで、コミュニケーションする限り、必ず互いにとって不幸な結果に終わります。そうではなくて、相手と一緒に幸せになろうという構え、相手と協力して目標を達成しようという構え、人と人の間に価値の優劣をつけない平等の位置で相手と関わろうとする構え、協力的な構えでコミュニケーションできれば、互いにとって幸福な結果が期待できます。


アドラー心理学が教えているのは、人と人とが協力的に暮らしていく考え方と具体的な方法です。協力的な構えでのコミュニケーションが成立しているとき、「声がけ」のレベルではどんな乱暴にみえる言葉でも当人同士にとっては仲良くできているわけです。逆に、「声がけ」のレベルでは丁寧で優しい言葉でも、競合的な構えで使われれば、慇懃無礼というか、なんとも気持ちの悪い、仲良くなりたくないなぁと相手に思わせるコミュニケーションになってしまいます。


気持ちのよいゴールデンウイークを過ごすためにも、みなさまもぜひ「声がけ」レベルではない本当のアドラー心理学を学ばれませんか?


野田俊作顕彰財団(AIJ)または日本アドラー心理学会の有資格者から学ばれるのであれば確実です!


なにかで鍵野と縁があれば、ぜひ一緒に学びましょう。お気軽にお声がけください(声がけ(笑))!


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよいゴールデンウイークをお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

薬物依存

こんばんは、鍵野です。
今日から始まった短期決戦の仕事にとりかかりつつ、秋から仕掛りで終わったと思ったらまだ最終コーナーが残っていた仕事を気にかけながら、ゴールデンウイークに大津で開催されるサイコドラマ(心理劇)ワークショップ「かささぎ座」に備えてサイコドラマの生みの親、モレノの本を読んでいます。


モレノアドラー派じゃないし、アドラー心理学アドラー心理学の理論と思想に沿う形で、サイコドラマを使っているわけで、別に読まなくてもいいわけなんですが、でも、買っちゃったし(笑)。これ五百ページ以上あるんですよ。ライフスタイルということでしょうけれど、いいとこだけつまみ食い的に読むことができない質なので、最初から読んでいたら、なんだか赤ちゃんにインタビューしたわけでもないのに、赤ちゃんの心理的発達のモデルがたっぷり語られていて、かなり辛抱して読んでいたんですが、これじゃぁ間に合わない!と、思い切って、サイコドラマ本体を語っている後半部分にワープして読み進めています。これは自分としてはかなり画期的なことで、本でも映画でもドラマでも必ず最初からじゃないとというところに反旗を翻して勇気を出してやってみました(おおげさですが(笑))。おかげで、こんな重い本を持って大津に向かわなくて済みそうです。今日読んだところで学んだのが、ロールプレイをすること、相手役の動きをクライエント(アクター)に教えてもらうことが、協力してもらうことになっているということなんだなぁと。


アドラー心理学を学んでパセージを受講すると普通にロールプレイを体験してしまうので、カウンセリングでもやるし、当たり前な感じで使っていた技法ですが、あらためてロールってなんだ?とか、モレノの視点から教わると新鮮で、精神分析の影響も大きいでしょうから「転移」って言葉にあふれている本ではありますが、アドラー心理学の理論と思想から見るとこうだよなとか、やっぱり他派の本も勉強になりますね。


そういえば、アドラー先生が、他派の心理学も勉強することを勧めていたんですよね。それで賢くなるからというわけではなくて…、どんな心理学でもアドラー心理学で理解することができるということがわかるという、アドラー先生のドヤ顔が浮かんできそうな意味ででしたけども(笑)。でも、アドラー心理学をマスター(一応、AIJか日本アドラー心理学会のカウンセラー試験合格を基準として)してから、心理学の大学・大学院に行くって、すごい苦行だろうなぁ…。公的な資格が必要な人は仕方ないですが。そんな生徒がいたら嫌だろうなぁ、大学の先生も。やっぱりアドラー心理学を最後にした方がいい気がします(笑)。


それで、今日は依存症について考えてみたいと思います。というのも、今日実験をしたんです。人体実験です。自分を使って(笑)。何をしたかというとですね、鍵野は毎日コーヒーを飲んでます。何杯飲むかなぁ? 3杯は飲むかな。仕事に集中してるともっと飲むかも。で、昔、サラリーマン時代にカフェイン断ちをしたことがあって、なんか新しい大事な仕事(たいして大事じゃなかった気がするけど(笑))を任されて、すごいプレッシャーを感じてですね、その頃、一度、電車の中で倒れちゃうというか、ヘナヘナっと座り込んでしまったことがあったんですよ。で、コーヒー飲み過ぎなのでは?と、コーヒーのカフェインのせいにしてみたんですね。コーヒー飲まないようにしたら頭痛がひどかったのを覚えています。コーヒーは好きだったので、デカフェにしたり、いろいろやってたと思うんですが、何かのきっかけか忘れましたが、いつの間にか普通にコーヒーを飲む生活に戻ってました。それで、ふと、カフェイン依存というような動画を見てですね、影響されて、どうなるかと思って、興味半分で、今朝のコーヒーをパスしたんでした。


朝の瞑想終わって、いつもならコーヒーなんですが、水にしました。そこから、なんか、頭がはっきりしない感じはあって、うっすら頭痛の赤ちゃん的なものはあった気がします。でも、大丈夫、大丈夫と、今日から始まる仕事の準備を終えて、モレノの本を読んでいました。仕事がない日に実験すればとも思ったんですが、仕事があるからこそ違いがわかるかなぁと思って、お客さんのところでコーヒーが出たら、それはいただこうと(笑)。でも、予想通りですが、美味しい緑茶をいただいて、これもカフェインあるはずなのに…、ミーティング終わって家に戻って仕事を進めていたら、本格的な頭痛が、夕方になって、吐き気と寒気までしてきました。これはいかん!と、ポパイのほうれん草のような感じで(知らないだろうなぁ今の人は…)、豆を挽く時間も惜しむ感じでドリップパックを取り出して、27時間ぶりくらいのコーヒーを、カフェインを摂取しました。


なんということでしょう! 10分もしたら頭痛はほぼなくなり、30分、40分とどんどん気分爽快になっていくではありませんか。眼と耳にかかったモヤというのかベールがはがれる感じ。吐き気も寒気もなく、いつもの感じに戻りました。よかった、よかった(笑)。


おかげで、そこからは仕事が3倍速くらいで進んで(笑)、大きなヤマを越えて、ゴールまでの見通しをつけることができました。


それで、最近自重気味だったのに、ブログを書こうという残余エネルギーまである始末(笑)。ドーピングって怖い! 薬物って怖いですね~。ほんと、カフェインという薬物依存症だということがよくわかりました。


アドラー心理学ですから、個人の主体性ですから、それもあれもこれも私が決めているわけですが、でもねぇ、あの辛い状態から逃れようって、コーヒーを入れているときの状態は、なんか違法薬物を摂取しようとしている人と同じだよなぁと思いました。切実ですね。


まぁ、一気にやめると離脱症状もきついということなんでしょうけれども、やめたいという気持ちはあるんですよね。頭痛はあったけれど、心臓回りのプレッシャーはなくてリラックスしていた気がするんです。なんか、あおられている叩かれている感じがない。本当はあれがノーマルで、それで暮らしていけてたはずなんだけど、いつの間にか、カフェイン前提の身体で暮らしていたんだなぁ、世界とコミュニケーションしていたんだなぁと気づけました。


もし、世の中からカフェインがなくなったら、最初からそれを前提として世界が社会が動いていれば、もう少しみんなゆったり平和に暮らせる気がするんですけどね。


でも、抜け駆けしてカフェイン使って3倍速で自分だけは「勝つ」方に行きたい人がいますよねぇ~、きっと(笑)。


何かに依存して身体が言うことを聞かない感じ、ありありと実感できました。カウンセリングに活かせるかもなぁ…


スッキリしたところで、まだコーヒーは四分の一ほど残っていたんですが、そこは仏教徒、必要は満たしたので、渇愛よさようならといさぎよく(ちょっと未練が(笑))捨てました。もったいないは仏教と真逆ですから(笑)。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

アドラー心理学を実践するということ

こんばんは、鍵野です。
今日は大分市の稙田公民館で「大分でアドラー4月の会」を実施しました。
月一回開催中の勉強会で、アドラー心理学に関してのなんでもQ&Aと、参加者どなたかの最近気になっていることをみんなで「エピソード分析」してみようという会です。毎回参加者は多くはありませんが、それだけに熱心に参加いただけていて、お聞きした感想などからも、みなさん今よりも一歩さらに幸せな暮らしに向かって、何かしら今の自分に必要な何かを持って帰ってもらえているようです。


Q&Aでは、悲惨な第一次大戦を経験したアドラー先生の平和への願いが込められた心理学であることに重点を置きながら、アドラー心理学の歴史についてもたっぷり語らせてもらいました。いつの間にかホワイトボードいっぱいに何か書いてました(笑)。他のことは別ですが、アドラー心理学についてであれば、何を聞かれても大丈夫です(知らないことは知らないというだけのことですが(笑))。


あらためてアドラー心理学が好きなんだなぁと再認識しました。なんとしてでも伝えたい、広めなければというようなカウンセラーを目指していたころのような切迫感は、全然なくなって、鍵野と縁があった人にだけお伝えできれば十分だと思えてきたので、あまり執着のないさらっとした感じで会場に入れたのですが、いざ質問をいただいたら、スイッチが入ってしまったというか、一を聞かれて十というか百を答える感じで、そんなことまで聞いてないよというようなことまでお伝えしてしまった気がします。嬉しいんですよね、ライフスタイルですけども…自分が知っている大事なことで貢献できている感が(笑)。


「エピソード分析」も、まぁ野田先生が日本語話者に遺してくださった宝であり優れものであって、ちゃんとやれば当たり前の結果なんですが、しっかり参加者のお役に立っていました。気になっていた出来事を自分だけでなく相手役の視点からも味わってもらえましたし、冷静ながらも温かく分析することができました。暮らしに戻って試してみる具体的な代替案を持ち帰っていただけました。これが、アドラー心理学の実践なんですよね。エピソード分析しながら暮らすことが。


それで、参加者の方から「自分でも分析できるんですか?」という質問があって、これは自分の色眼鏡で自分の色眼鏡を分析するようなものなので、おすすめしませんと答えました。自助グループで、仲間同士で「エピソード分析」し合うのがいいですね、と。そのために、そこへの足掛かりとして、今回の勉強会もやってるんですよね。


AIJ認定カウンセラーのカウンセリングに来ていただければ、そりゃぁ「エピソード分析」によるカウンセリングを受けることでアドラー心理学を実践いただけるんですが、みなさんの周りにAIJ認定カウンセラーはそうそういないでしょうし、カウンセリング費用もかかりますしね。なので、みんなで「エピソード分析」ができるようになって、「エピソード分析」し合って、暮らしていくのが、いいなぁ、理想だなぁと思っているんです。


落語に出てくる、長屋のご隠居さんのような感じで、いつでも困ったことがあれば相談できる人がいるって心強いと思うんですよね。お互い同士が身近な相談役になって欲しいなぁ、そうやって暮らしていけたらもっとみんな幸せに暮らせるよなぁというのが鍵野の願っていることです。


しかも、「エピソード分析」を身に付ければ、その相談が、ご隠居さんの人生経験とかではなく、アドラー心理学という科学理論に沿って行えるようになるわけですから、校区に一つや二つは「エピソード分析」のできる自助グループがあったらなぁと願ったりします。お金を支給するより、よっぽど子育て支援になる気がするんですが、どこかの政党がやってくれないかなぁ(笑)。


アドラー心理学カウンセラーを増やすというのは現実的ではないけれど(年に数人ずつしか合格しないし)、グループで「エピソード分析」をし合えるというレベルであれば、しっかり学べば誰でも到達できるはずです。


ただ、今のところはパセージを受けた人限定で、その上級編としてのパセージ・プラスという子育て学習プログラムの中でしか、公式には「エピソード分析」を教わるところはないので、カウンセラーを目指すというような人(こういう人はいくらでも学ぶ道をみつけて学んでいるはず)を除いては、子育て学習プログラムを通らなければ「エピソード分析」を学べないのが現実です。


ということで、ちょっと非公式プログラムではありますが、鍵野の責任で、この人なら大丈夫と思える人には、希望があればグループでできるレベルの「エピソード分析」を教えています。育児を卒業した人で、パセージとパセージ・プラスは受けないけれど、でも、真剣にアドラー心理学を実践したいという人のニーズに応える責任はあると思うのでですね。アドラー心理学を教えるのであれば「どうやってアドラー心理学を実践したらいいのか?」に応えないと寝た子を起こしただけになってしまうようで嫌なので。


誰にでも教えるわけではないのは、「エピソード分析」は、やっぱり切れ味の鋭い包丁のようなものという一面はあるので、やたらと振り回すと危ないからです。ご自分も傷つけるし、勘違いしてアドラー心理学を知らない人に「エピソード分析」を使ったらケガをさせてしまう危険性が大です。グループでの「エピソード分析」は、あくまでも互いに(生きた)アドラー心理学を学んだ人、体験した人同士でやるからなんとかなるのであって、カウンセラーでもない人がアドラー心理学を学んでいない人、体験していない人に使ったら危ないからです。そういうレベルで「エピソード分析」を使いたいという人は、素直にAIJのカウンセラー目指してイバラの道に飛び込んでください。決しておすすめはしないけど(すすめられてなれるようなものではないですし)、飛び込んでしまったならば応援します(笑)。


死ぬまであと何人の方に「エピソード分析」をお伝えできるかわかりませんが、縁があれば、鍵野が知っていること掴んでいることできることは惜しみなくお伝えします。


来月の「大分でアドラー5月の会」は5月25日(土)10:00~12:50 大分市稙田公民館研修室Bで開催します。興味のある方は、まずはお気軽に参加ください。ご予約なしでも大丈夫です。お会いできるのを楽しみにしております。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

自由への道

こんにちは、鍵野です。
四月に入って暇に過ごす予定だったのですが、終わったと思っていた仕事の続きがあって…、たしかに伏線はあったなぁという感じで、おかげさまで楽しく?忙しく(あくまで当社比ですが(笑))していました。ひと段落してボールは投げたので、戻ってくるまではのんびりできそうです。


ゴールデンウイークは、前回紹介した野田俊作顕彰財団(AIJ)の「かささぎ座」に参加することにしたので、それまでには仕掛りの仕事は大団円で終わりたいなぁと思っています。


昔はこういう季節労働者的な働き方に不安を感じていたこともあった気がするんですが、今はとても自由を感じています。神奈川東京で何十年も通勤電車に乗って仕事に通っていたサラリーマン生活から、大分で自分の好きな車に乗って仕事があれば出かける生活に変えて、そろそろ丸十二年になりますが、最初のころは、仕事がなくても半ば強迫的に銀座に勤めていた時の習慣からか、大分にもあった(笑)スタバに通ってました。


そういうことなしに、自宅で自分でコーヒーを入れて、本を読んだり、同年代の男性はほとんどみかけない平日昼間のスーパーに食材を買いに行ったりが、変な自意識なくできるようになるのにずいぶん時間がかかった気がします(笑)。アドラー心理学と仏教のおかげですね。共通感覚と私的感覚と価値相対論を実感できました。所属の危機を勝手に感じてたんですよね。ネクタイにスーツで電車に乗って会社に通う男性という役割が板についていたものですから。なんとかは三日やったらやめられないと聞いたことがありますが、もういくらお金を積まれてもそんな暮らしに戻りたくはありません(笑)。


それで、今日は「自由」について考えてみたいと思います。いきなりですが、みなさん自分が自由だと思われますか?


鍵野はですね、二つ答えを持っています。一つはアドラー心理学からの答え。もう一つは仏教からの答え。


アドラー心理学では人は自ら主体的に決断して行動する存在であるとしています。「個人の主体性」ですね。だから、「ママを怒らせないで!」という人がいても、その人を怒らせる子どもがいるとは考えなくて、その人は自分の目的を果たすために怒りという感情を使うことを主体的に決断して実行していて、それを子どものせいにすると決めている人だと考えます。その「個人の主体性」を認めているので、その点について人は自由だと考えています。ただし、何でもかんでも自由に決められるとは思っていなくて、遺伝や環境といった与えられた条件の中で、決められることは決められるけど既に決まっていることはあるという「柔らかい決定論」という立場に立っています。どこまで決められているかについては、アドレリアンの中でも幅があって、ほとんどのところは決められているという立場の人も、ほとんどのところは自由だという立場の人もいるように思いますが、常に選択肢は複数あって、そこから個人が選んで最終的に決めているというところについては、アドレリアンであるからには認めているはずです。座っている人が銃を頭に突き付けられて、「立て!」と言われて立った人にも、立たないという選択肢もあったし、いきなり寝そべるという選択肢もあったでしょうし、歌を歌い出すというような選択肢もあるし、他にもいくらでもあったはずです。まぁこういう場合共通感覚的には立つのが無難でしょうけれども(笑)。


仏教では、人は自由じゃないという立場です。人間といったって、いつでも渇愛に突き動かされて生きている生き物の一種で、そういう意味ではカビやバクテリアなんかとも一緒で、ただ生きていたいというだけで生きている不自由な存在だと。眼耳鼻舌身意という感覚器官への刺激を求め続けるという渇愛、存在し続けたいという渇愛、嫌なものを破壊したいという渇愛の奴隷のような存在で、そこからみたら自由はありません。アドラー心理学が言う複数の選択肢のどれを選ぼうとも所詮渇愛のなせる業というわけです。


じゃぁ、お釈迦さまって、仏教って何なの? 奴隷である我々に、あんた奴隷だよって教えてくれてるだけなのって思うんですが、これはそうではなくて、奴隷だし、不自由なんだけど、でも、お釈迦さまはそうじゃない、自由だよと、お釈迦さまだけじゃなくて、五百阿羅漢とか言われますが、それよりもっと多くのお弟子さんたちも、在家で学んだもっともっと多くの人たちも、自由になったよと。その人間が、生き物が、渇愛の奴隷である存在から解放されて自由になるための教えが仏教だよ、ということなんですね。まぁ、それがいわゆる「解脱」ということで言われています。お釈迦さまはそこに至るための方法を八正道として説かれていて、私を信じなさい、信仰しなさいということではなくて、やってみなはれ(そんな言い方ではないけれど(笑))とやり方を親切に教えてくださっただけ、やってみればわかるしできるよというのが、お釈迦さまの教えそのままである、初期仏教、テーラワーダ仏教の教えです。超越した存在がいて、お願いしたらとか言う通りにしたら救ってくれるという話ではないんですね。


それで、仏教に出会えるチャンスというか縁があったとして(これは本当にありえないくらいの奇跡的なチャンスだと教えられています。牛?のくびきが2つに分かれて、それが壊れず腐らず別々に雨に流されて川に流され海に流れ着いて、波に揉まれながらどこかで再びその2つが合わさって、その瞬間百年(百万年?)に一度しか海面に出て呼吸しない海亀が顔を出したのが、そのくびきが再び合わさった瞬間のくびきの中だったというくらいの奇跡的なことだと)、あとはやるかやらないか、そこはその人にかかっているという意味での自由はあるんだとは思います。その八正道を実践できるのは人間だけだ(虫とか鳥とかは生きていくのに忙しくて修行する暇がないし、神々は楽を感じ続けるのに忙しくて暇がないし修行しようと思えない)という意味で、人は自由じゃないけど、人だけが人間だけが自由になる可能性があるというのが仏教の教えですね。


ということで、アドレリアンであり仏教徒である鍵野は、「個人の主体性」という自由を引き受けながら、しかし、本当は渇愛の奴隷であることを認めつつ、お釈迦さまの教えを実践しなければならないと知っていて、ヴィパッサナー実践すればいいのに、こうして刺激のためにブログを書いているという…。


真の自由を目指して、アドラー心理学で俗世間的自由を実感しながらの、仏道実践を、慈悲の瞑想からのヴィパッサナー実践をしていきます。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞ今日もよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

かささぎ座どうしよう?

こんにちは、鍵野です。
今日の佐伯上浦は雨模様でちょっと肌寒い感じです。明日は遠方からの来客予定もあり、ルンバと一緒に掃除をしました。水回りがまだですが、いっぺんに終わらせてもなぁと(笑)、夕方までの楽しみ?に残しています。


それで、珍しく今ちょっと悩んでいることがありまして…。


それは、来月、ゴールデンウイークに滋賀で開催される「かささぎ座」という野田俊作顕彰財団(AIJ)の一番ゴージャスな?学びであろう、アドラー心理学をベースにした心理劇(サイコドラマ)のワークショップに参加しようかどうしようかなということなんです。


かささぎ座は野田先生のブログ(補正項)で大変魅力的に紹介されていて、参加したいと思い続けていたのですが、鍵野が学び始めたころには野田先生の体調のこともあって開催されなくなっていました。それで、果たせないままだったんですが、昨年、野田俊作顕彰財団のワークショップとして復活したんですね。


昨年も参加を検討したのですが、時期尚早というか、まずは既に身に付けた力でできること、カウンセリングに集中しようということでパスしました。学ぶのは好きなので、そこに逃げるというか、○○を学んでからにしようというような言い訳にしないようにという意味もありました。


それで、カウンセリングに集中して1年近く経って、お金をいただくカウンセリングを、そんなに数多くとまでは言えませんが、それなりに経験できたことで、先生方、先輩方から学んだことを落ち着いて実行すれば、しっかりアドラー心理学カウンセリングができるということについて、おごりとか謙遜とかを離れて、事実として冷静に十分納得できました。おかげで「カウンセリングをしたい」というそれまでの執着は、かなり薄くなってきた気がしています。気が済んだというのかなぁ…、アドラー心理学カウンセリングを必要としている人と何かの縁で出会ったときに、求められて、こちらにもそれができる余裕があったときに提供できさえすれば、もうそれでいいのかなぁという感じになってきています。


なのでいろいろこだわらずに「かささぎ座」を学びに行く気持ちの余裕は十分あるなぁと。


じゃぁ、行けば?というところなのですが、これはカウンセリングへのこだわりとかではなく、仏教徒として、心がけなければと思っている大事なことがあって、それは「必要と欲しいを見極める」ということです。


人が、生き物が、生きていくうえでは、水や空気、食べ物が必要です。人に関しては、さらに着るもの、住むところ、薬も必要になります。衣食住薬については、出家比丘にも認められていたんですね。


鍵野はもちろん在家ですから、そこまで厳密に「必要」なものことだけに絞る暮らしはできないわけですが、それでも「欲しい」ものことを追いかけていてはキリがない、それにかまけていたらあっという間に人生が終わってしまうであろうことくらいは、師匠であるスマナサーラ先生の教えのおかげで理解できていると思っています。


その「必要と欲しいを見極める」からすると、この「かささぎ座」への参加は必要なことなのか?というところが引っかかるわけです。


参加しなかったら死ぬのか?というレベルで峻別すれば、そりゃあ必要ではありませんね(笑)。と、そんなレベルで判断しだすと、そもそもこんなブログなんて書くこと自体不要なことで、何やってるの?ということになってしまいます。あえて生命維持というレベルで考えると、生命は刺激がないと生きられない(心が回転しない)という意味で、ブログを書くことでなんとか生きているのかもしれないんですが(笑)、とりあえずレベルを少し引き上げて(下げて?)、他の人々への貢献をするという「仕事」は在家である以上必要ということにさせてもらって、その仕事をしていく上で、「かささぎ座」への参加は必要なのか、単に欲しい、学びたいという欲にかられているだけではないのか?という辺りで引っかかっているんです。


「仕事」にフォーカスして、もう少し考えてみたいんですが、経営コンサルタントとしての仕事については、もう持っているものだけで役に立てるレベルの仕事しかしていないので「かささぎ座」は必要ないですね、うん。


カウンセリングの仕事についても、先ほど書いたように、今の力でできることはできるので、必要かと言われると必要ないかなぁと…。もちろん、新たな学びによって、より質の高いカウンセリングができるようになる可能性は大いにあるわけですが、それはなんだか「欲」の方向な気がしています。もっと上手になりたい!という欲が掻き立てられる感じ。これ、気を付けないと相談者さんを道具にしてしまう方向に戻りかねないので、そのつもりで学ぶとかえって下手になる気もします。


もちろん放っておいたら力も衰えるでしょうから、それを維持する努力は常に必要で、継続的な学び、特にアドレリアンと交わり続けるというのは必須だとは思います。「かささぎ座」も精鋭が集まるはずなので、そういう機会ではありますが、これはもう少しライトな講座とか集まりでもいいかなぁと思わないでもなくて、積極的にゴールデンウイーク中という特にレートの高いときにお金と時間をたっぷりかけて「かささぎ座」参加を推す理由としては弱いかなぁと(笑)。


カウンセラーのさらに上の資格である「心理療法士」を目指すのであれば、もちろんまだまだ学ぶことはたっぷりあって、「かささぎ座」に毎年参加、そんなの当たり前でしょ!ということになるわけですが、それはないのでですね…。公認心理師さんとか、医師と連携して具体的な心理療法のニーズにアドラー派として応える必要がある人であれば別でしょうけれど、そういう人生ではなかったので。


開き直ってレジャーとして、遊びとして、欲として、テニスとかゴルフとか釣りとか(これは殺生なのでNG)ドライブとかと同レベルで「かささぎ座」を楽しみに行けばいいのかもしれない。レジャーと割り切ったら、鍵野にとってこれ以上面白そうなイベントはない気もします。


と、書いていて、わかってしまったことがあります。なんか、最後のお楽しみ的に取っておきたい気持ちがある気がします。ICCASI(ドライカースサマーセミナー)への参加もそうですけど、美味しいものを最後に残しておいているような感じですね。食べてしまったら、もうその後がつまらなくなるような予感というか…。


執着だなぁ…、これも。さっさと食べてしまった方が、経験してしまった方がいいのかもしれない。期待を大きく育ててしまうよりも、あっさりとですね。


今年は諸事情によりICCASIにはやっぱり行かないことにしたので(来年は行けるかも)、あっさり「かささぎ座」経験してしまおうかな。仕事とかという観点ではなくて、執着を減らす方向だという方便で(笑)。


でも、旅費高いだろうなぁ…、おっと執着ですね、これも。さっさと予約しようかな。今度こそ夜行バスはやめておこう。何度も懲りてるのに喉元過ぎればなんとやらで、ついつい乗ってしまっているので。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

相手役

こんばんは、鍵野です。
桜が咲きましたね。既に散って葉が目立つものもあれば、まだまだしっかり満開という感じで咲いているものもありました。あらためて眺めていて、桜って、あの枝がこう広がっている感じがいいのかなぁと思いました。高さと広がりのバランスというんですかね、富士山の裾野に似たような安定感があるような、幹がまっすくでなく、しなをつくっているように見える感じも、なんか色気があるというか、いいなぁと思います。


午前中は仕事の打ち合わせがあって、大分市の方に出ていたんですが、ついでと言ってはなんですが、前回の献血から時間が経って、ちょうど今朝に献血OKになりましたのお知らせメールが届いていたので、わさだタウンで400ml献血してきました。どこのどなたに提供されるかはわかりませんが、病に苦しむ方のお役に立てるのは本当に嬉しいですね。献血前にインドカレーをいただいたので(しかも辛口で)、ちょっとHOTな血液になったかもしれません(笑)。


それで、今日は相手役について考えてみたいと思います。「相手役」と言われてすぐにわかる方は、かなり心理学に詳しい方かもしれませんが、カウンセリングなどで相談するときの、具体的なできごと、エピソードに登場する、相談者のコミュニケーションのお相手のことです。


アドラー心理学カウンセリングでは、必ず具体的な、ある日ある所で一回だけ起こった陰性感情のあるできごと=エピソード、について話していただきます。それをお聞きしないことには、カウンセラーは相談に来られた方の援助に動くことができません。


架空の事例ですが、
カウンセラー:今日はどのようなお話ですか?
相談者:はい。主人のことなんですけど… なんかねぇ、一緒にいるとイライラするんですよ。前からそうだったんですけど、でも、最近特にひどくなったっていうか…。子どもが一緒にいるときはいいんですけど…、二人っきりになると…、いつもなんか余計なことを言うんですよ…。それでイライラしちゃって…。

まだ、この段階ではエピソードは話されてはいないんですね。でも、相談者さんが困っている話はされていて、こういうのをエピソードと区別してレポートと呼びます。いつもこうなんです、というような話ですね。

それで、次にカウンセラーは、
カウンセラー:そうなんですね。何か最近あったご主人との具体的なやり取りについてお話いただけませんか?
というように聞いていく展開が考えられます。

これはエピソードを取材したいからそうするんですが、それは、アドラー心理学ではカウンセリングをまずは科学技術として進めたいからで、それにはまず科学が扱うデータとしての事実を得る必要があって、レポートは相談者の意見に過ぎないんですが(それも大事な材料なんですが)、エピソードについては事実とみなしているからです。

相談者さんは、
相談者:いつものことですけどね… 昨日も、夕飯の後、テレビを見てたんですけどね…、なんか余計なことを言うんですよ。「こいつが犯人のように見えるだろ? でも違うんだよ、絶対。ほらあのさっき出てきた、あいつだよ。前に一緒に働いてたっていう…」せっかく、楽しみに見てるのに…。そんなこと誰も聞いてないのに、ほんと、余計なことを…

それでカウンセラーは、
カウンセラー:それから?
相談者:なんか言ってやりたかったんですけど、我慢してました。顔には出てたとは思いますけど… 黙ってそのまま見てました。無視するって感じではないですけど、言い返したらかえって面倒なことになるから…


という感じで、さらに具体的なやり取りを確認していきます。


今回はエピソード分析の手法を解説したいわけではないので、この辺でやめておきますが、このようなエピソードに登場する、相談者さんにとっての困ったちゃん、このケースではご主人、夫さんが「相手役」ということになります。


この「相手役」ですが、どういう関係の人が一番多いと思いますか?


これまでアドラー心理学による相談について、鍵野が実際にカウンセリングをしたもの、見学したものの数百ケースについて統計を取ってみたのですが…

一番多かったのは、お子さんで、全体の30.5%が自分の子どもを相手役にした相談でした。次に多かったのが、配偶者さん(パートナー)で、全体の22.9%を占めています。

その次、第3位は、職場の上司、部下、同僚で、全体の14.7%でした。

第4位は、実父母で、全体の10.6%、第5位は、知人・友人で全体の8.2%でした。この後第6位はぐっと割合が下がって全体の3.1%で義父母、次の第7位は生徒・児童で全体の2.1%でした。

ちなみに、鍵野がカウンセラー合格後にカウンセリングしたケースについては、配偶者が第1位で、第2位が上司、部下、同僚、3位に子ども、4位に知人・友人でした。


少し考察してみると、ここで対象としたデータは、カウンセラーになろうという人が練習する場面が大半で、その場合、クライエント役として相談される方は、子育てからアドラー心理学に入って、パセージリーダーになって自らもカウンセラーも目指しているという人が結構多くて、それで、相手役として子どもが多くなるのも自然かなと。配偶者との話よりも、みんなが見ている前で話題として出しやすいということもある気がします。


また、カウンセリングの試験では、相談された方の構えが共同体感覚を発揮する方向に、平等の位置を目指して、協力的に変わることも求められるので、その場合、夫さんとか妻さんとかに対するよりも、お子さんに対する方が構えが変わりやすい、お子さんには譲れるけど、パートナーとか親には譲れない(笑)という傾向があるので、どちらのエピソードもあるのであれば、お子さんとのエピソードの方が歓迎されるということもある気がします。そういえば鍵野もほぼほぼ子どもとのエピソードしか出していない気がします。


とはいえ、お金をいただいてカウンセリングする場合は、やっぱり一番困っていること、夫さん妻さんとの話が多い気がします。お二人で来られることもあって、それはそれで話が早いのですが。次に職場かなぁ…、もちろんお子さんとの話もあるんですが、パセージで解決することも多いですしね。職場の話は好きなんですけどね、経営コンサルタントとしていろんな業界の経営者さんたちの相談を受けてきた経験と、自分自身も大企業にベンチャー企業、官公庁、自営業と、様々な職場で働いてきた経験も活かせますし。この辺り、ウリにしてもいいのかもなぁ(笑)、なぁんて。


でも、じつは最近一番面白いなぁと思っているのが、具体的な相手役がいない相談なんですね。こんなこと言うと先生方に怒られそうですが、一見、エピソード分析できなそうなのを「エピソード分析」するのがじつに楽しい(楽しんでちゃいけないかもですが)。


相手役がいないといっても、そこはアドラー心理学ですから、本当はいます。社会統合論、対人関係論ですから。悩んでいる困っているということは、対人関係の悩みに決まっている(自信をもって決めつける(笑))ので、少し手順を踏みますが、しっかり「エピソード分析」に持っていけます。絶対にエピソードはありますから。最近ではないにしても…


ということで、そういった一見相手役がいなさそうな相談を、一応別分類で「セルフ」という相手役にして統計を取っているんですが、じつは結構あって、鍵野への相談の6.1%がそういった相談になっています。これからも大歓迎です(笑)。


と、今回何か主張があるわけのテーマではないんですが、相手役の違いという視点で、相談事例を見てみるのも面白いかなぁと思って書いてみました。何かの参考になれば幸いです。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

関西での学び

こんにちは、鍵野です。
4月、新年度になりましたね。進学、進級、就職、異動、昇進などなど、環境も変わって、新しい人間関係を築いていかれる方も多いかと思います。どうぞ無理されず、小さな頃から普通にできていたことを足掛かりに、一歩一歩達成感を感じながら進んでいかれますように。


鍵野の方は、そういう変化はまったくなく(笑)、本業はアドラー心理学カウンセラー、副業として経営コンサルタント(収入的には逆ですが(笑))のつもりでなんとか暮らしながら、本当にすべき仕事は仏道実践ということを忘れないように、今朝も慈悲の瞑想からのヴィパッサナー実践でスタートしています。


先週末、3月末は関西に出かけていました。野田俊作顕彰財団(AIJ)の先生方のオープンカウンセリングを見取り稽古するのが第一の目的で、それに付随して、「ギア」というパントマイム&ブレイクダンス&マジック&ジャグリングを組み込んだ無言劇と笑福亭鉄瓶さんの上方落語から、ライブで人に何かを伝えることについて学ぶのが第二の目的でした。


それぞれの目的はしっかり達成できたと思います。先生方それぞれのオープンカウンセリングから、「そういう進め方、流れ、持っていき方があるんだ。今度チャンスがあればやってみよう!」という、「エピソード分析」によるカウンセリングの進め方について、具体的に引き出しを増やすことができました。特に優子先生からいただいたのはとっても大きい気がしています。ここから先は企業秘密になりますので(笑)、詳しくは書きませんが、クライエントさんと一緒に私的感覚を調べた先の動きについて、有力なオプションを手に入れることができた感じです。これは宝物クラスだなぁ…。しかし、今まで何回も優子先生のカウンセリングから学んでいるのに…。初めて見たのかなぁ…、いや、そんなはずはなくて、きっと見えてなかったんだろうなぁ…と思います。お金をいただくカウンセリングをするようになってからは、優子先生のについては初めての見取り稽古だったので、それだけ成長したんだろうなぁと思っておきます。とにかく、よかった! これだけでも時間とお金を使って出かけた甲斐がありました。


もちろん、あゆみ先生のカウンセリングからも大きな学びがあって、とくに、これはこちらの勝手な想像なんですが、きっと見学していた我々のために、「エピソード分析」ではあるけれどももう少し発展形というか応用編というか、チャンスがあればそういったことを見せていただけそうな雰囲気を感じていたんですが、そこはクライエントファーストというか、エピソードを聞かれた上で、カウンセラーのではなく、相談者さんの需要に合うように、オーソドックスな「エピソード分析」で進まれて、それがやっぱり確実な援助になっていたし、これからカウンセラーになろうという方もたくさんいらっしゃったであろう見学者にとっても、今必要な大切な学びがあったように思いました。


優子先生とあゆみ先生と、それぞれ一点一画がくっきりとした楷書での「エピソード分析」を見せていただいただけに、生徒がこんなことを言うのは大変生意気なことだとは思いますが、かえって先生方それぞれの個性がにじみ出る、AIJらしい、ステキなオープンカウンセリングだったのかなぁと思いました。時間とお金を使って参加した甲斐がありました。先生方、そして一緒に参加してくださったお仲間のみなさま、本当にありがとうございました。


無言劇と落語についても、カウンセリングとは違いますが、でも、共通点もあって、一方通行ではなく、演者とお客さんが協力することで初めて成立するパフォーマンスであって、一期一会、筋はあるんですが(アドラー心理学カウンセリングにも理論と思想に沿うという意味で絶対的な筋があります)、そのときその場だけで生まれるリアルな対面のコミュニケーションによる感動が、命と命、心と心が共鳴し合う体験がありました。でも、それは偶然起きたことではなく、演者の日々の努力、鍛錬があってこその賜物であって、そこに観客や相談者さんが協力したくなって、それで初めて生まれるコミュニケーションだということをあらためて学ぶことができました。演者の方々を始め、舞台や寄席を支える地道な仕事をしてくださっている方々、そして観客として一緒に参加してくださっていた名前も知らない方々のおかげです、ありがとうございました。


学んだことを活かせるように、まずは大分、九州でアドラー心理学を必要としている人たちに貢献できるように、自分にできることをしていきたいと思っています。


読んでいただきありがとうございます。

みなさま今日もどうぞよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。