こんにちは、鍵野です。
Amazonプライムセールで冷凍食品の詰め合わせのようなものを買いました。かなりお得だったみたいです。子どもの頃から料理は好きだったし、子どもたちがいたので、毎日料理をするのが当たり前だったんですが、息子が一人暮らしをするようになってからは、滅多にしなくなりました。玄米ご飯を炊いて冷凍してあるので、あとは納豆に卵とみそ汁(インスタント)で済ませたり、冷食のおかずをチンすればいいので。玄米はちょっと…という日は、乾麺の蕎麦をゆでたり、冷凍パスタでもいいですし、楽なものです。おかげで、冷蔵庫も冷凍庫はたくさん詰まっているけれど、メインの冷蔵部分はほとんど空(笑)。冷凍メインの冷蔵庫の方がいいかもですね、今の暮らし方だったら。
「男子厨房に入らず」という育ち方をされた人もいらっしゃるでしょうけれど、うちはそうではなかったです。実は今日は父の命日で、鍵野が中三のときに亡くなったのでもう41年も経つんですが、ときどき父が料理をしていたのを覚えています。ドーナッツ(そういう言い方をしてました)を作ってくれたシーンが印象的でした。他にもニンニクで鳥を焼いて、チキンステーキかな、香ばしい美味しそうな香りを覚えています。それから、卵焼きが母が作るのとは違って、醬油だけしか入っておらず砂糖の甘みがないんだけれど、これはこれでなんか男らしい(笑)というか、後に真似てそのレシピで作ったりしました。
まだ若い時に父が亡くなったので、母は大変だったと思うんですが、フルタイムの仕事をずっとしていて自分も含めて3人の子どもをしっかり育ててくれました。途中、介護職に転職して資格も取って責任も増えて大変そうでしたが、でも人を助けるのが天職というのか、活き活きしていて、稼ぎはそう多くなかったとは思うんですが、それでも特に不自由なく暮らせていました。手伝うというほどのことはできていなくて好きでやっただけですが、ときどき自分が料理をすることもありました。カレーとかビーフシチューとか、市販のルーを使うやつですね。バーモントカレーが我が家の味という感じでした(笑)。不思議なのが、今でも近所に住む母がおすそ分け的に料理を持ってきてくれるんですが(娘と「ばぁばぁイーツ」と言ってました(笑))、子どもの頃と違って、カレーに何か調味料をいろいろ足してるんですよね。ベースはバーモントカレーで変わらないんですが、なんかいろいろ複雑に入っていて…。私と息子は苦笑しながら、「バーモントカレーそのままの方が美味しいのにね」なんて言ってますが、まぁ自分で何か工夫したいというチャレンジ精神は凄いなと(笑)。
それで、今日は責任について考えてみたいと思います。思い出話の続きですが、高校二年のときか三年になってからだったか忘れましたが、珍しく?母が真面目な顔(少し緊張もあったかな)をして、相談というより、宣言される感じに近かったと思うんですが言われたことがあります。
母:高校まで出すのは親の責任だからお母さんがなんとかするけど、高校を出たら後は自分でやってな…
私:わかった
正確には覚えてないんですがこんな短い会話でした。
でもそれまでにない重い雰囲気の覚悟を感じる母の言葉に、そうか、そうだな、たしかに、しっかり自分でやっていこうと決心できた気がします。
それで、大学は行こうと思っていて、現役のときに国立と私立と受けましたが、たいした勉強もしてなかったし、全然ダメでした。それでも、大学は行きたいなぁ…、しかし、母と約束した通り、自分でなんとかしなきゃいけない、どうしよう?
どう考えてどう探したのか覚えてないんですが、当時(今でもあるのかな?)新聞奨学生というのがあって、新聞配達(集金もですが)しながら、寮に入って、学費も出してもらえて、予備校に通えるというのをみつけて、日経新聞の巣鴨専売所でしたが、そこに入っていきなり知らない土地で新聞配達しながらの予備校生活がスタートしました。池袋に当時あった駿優予備校というところに通ってました。高校の授業はあんなにつまらないと思ってたのに、予備校の授業がすごく面白くて、特に奥井先生の小論文特講だったかな、これが衝撃的で、なぜか安部公房が大好きになり、合格してから読めよ!と言われてたのにも関わらず、砂の女とか壁とか読んでしまって、もうずるずると、小説家に憧れてしまいました。
それで、朝3時とか4時とかに起きて働く新聞配達生活が辛すぎて(笑)、もう一年はできない!と思えたおかげだと思いますが、それでも早稲田の文学部、一文と二文しか受けなかったんですが、なんとか二文には入れてもらえることになり(どっちも落ちたらどうするつもりだったんだろう???)、後で考えたら働いて学費と生活費を稼がないとだから二文しか無理だったんですが、その頃、早稲田には学生職員という、学生でありながら早稲田大学や系列の高校で働いてかなりのお給料もいただける制度があったんで、そこに採用されて、なんとか母との約束を果たしながら大学生活をスタートできたのでした。
あんまり勉強が好きすぎて(笑)、除籍ギリギリの8年も通ったのは想定外でしたが、大学での友達は一年のときに話したS君だけで、それでも働きながらのモラトリアムを楽しむというか、好きなバイクに乗りながら、引きこもらない引きこもりのような大学生活をエンジョイしていました(笑)。
母はアドラー心理学のアの字も知らなかったのは確かですが、でも、自分の生き方暮らし方で、大事なことを教えてくれていました。いつも自分のためではなく人のために動いている人でした(今もそうでときどき困るんですが(笑))。そんな母からの「高校を出たら後は自分でやってな…」には、納得するしかないというか、当たり前だよねと素直に思えたんですね。自分の人生は自分で責任取らなくちゃって。
結局、アドラー心理学を学んでも、仏教を学んでも、人に教えられるのはその人が実際にやってきたことできたことだけなんですよね。アドラー心理学を一言でいえば「責任」だと野田先生もおっしゃっていましたが、人に、子どもに、「責任」を教えるには、そういう当人が自分で責任をもって生きてきた人じゃないとですね。
そういう意味で、うちの両親はどちらもアドラー心理学を知りませんでしたが、でも、大変なこと辛いことがあっても決して人のせいにせず、自分のできることをしてがんばって生きている人でした(まだ過去形にしちゃダメか(笑))。なので、鍵野も妹二人もそんな両親と暮らしてきて、大事なことを教わってこれたんだと思います。
父の命日に寄せて
お父さんありがとう、そして、お母さんありがとう。
これからも責任をもって暮らしていきます。
読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。