アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

『小学校』からの『箱男』

こんにちは、鍵野です。
ゴールデンウイークも終わって、世の中がまた通常運行に戻った感じですね。いろんな意味でお疲れの方も多いかもしれません。みなさまどうぞ無理されずご自愛くださいませ。


自営業‥というか自由業?の鍵野は、ゴールデンウイークに特にこれといったことはなかったのですが、福岡で開催されたエピソード分析によるカウンセリングの自主学習会に参加してきました。


福岡に行くときは、竹田から久住、南小国、日田方面へというバイク乗りの方が大好きな道を通っていくのでこの季節は多くのライダーとすれ違うのですが、その日は雨模様だったのでバイクはあまり走ってませんでした。


若い頃はバイク大好きでTVでWGPもよく見ていたので、レーシングレプリカなんかとすれ違うと、いいなぁ、乗りたいなぁと年甲斐もなく思うのですが、きっと調子に乗って事故ってしまうだろうなぁ、そうなったらいろんな人、とくに家族に迷惑をかけてしまうし…ということで自重しています。


それでカウンセリングの自主学習会では、カウンセリングを学び始めて以来、初めてのことだと思うんですが、自分の実習はしませんでした。エントリーはしていたのですが、最後の番だったので時間切れで終了となったのでした。


でも、よかった! 大先輩のゆったりとした構え、相談者さんに巻き込まれず、かといって突き放すでもなく、ヨコの関係で進められて、大事な気づきを持って帰ってもらえたカウンセリングに大いに学ぶことができました。


また、まだカウンセラーの資格はお持ちではないけれども、積極的に実習にチャレンジされた先輩アドレリアンのカウンセリングからは、わからないことはわからないと認める謙虚さ、そこを認めたうえで、諦めずに自分だけではなく周りの力も借りながらできるだけの援助はしていこうという姿勢に、凄いなぁ、こうありたいなぁと感動しました。相談者さんがご自分と相手の幸せのために勇気をもって一歩進めるカウンセリングになったように思えました。


自分がカウンセリングを上手になることはもちろん嬉しいのですが、でも、仲間たちのカウンセリングが一歩進むことに貢献できるのって、もっと嬉しいことだなぁとあらためて感じられた学習会でした。


それで、今日はその何日か前に観た映画、例の日田のリベルテで観た映画について書いてみたいと思います。


その日は1300円で映画が観れるサービスデーということで、しかも観たかった映画が続けてプログラムされていたので、2本観たのでした。


一本目は『小学校 ~それは小さな社会~』という映画で、世田谷区の公立小学校を舞台にしたドキュメンタリー映画です。


"THE MAKING OF A JAPANESE"という英語のタイトルが付けれらていて、そうかぁ、こうやって日本人が作られていくんだなぁ…と、自分も公立小学校出ですがとても納得しました。


下足箱にきちんと靴が揃えられているか、少しでもずれているとダメな感じのチェックとか、給食当番や、各種委委員会、掃除での役割分担とか、避難訓練に運動会、卒業式、入学式、合奏練習、徐々に広がる挨拶運動、また当時はコロナ禍真っ最中ということもあって、みんなマスクをしていて、校庭で遊んでいる子にマスクをしていない子がいると教室からチェックしている子がいたり‥


協調性と割り振られた役割をきちんと果たすことが求められるのが、小学校であり、日本人なんだなぁとあらためて思いました。令和も昭和もちっとも変わってないなぁとも。


アドラー心理学でも、社会と調和して暮らすこと、貢献することを目指すんですが、でも‥なんか違うんですよね。


何が違うのかな‥と考えたら、「先生」との関係が違うんだと思い当たりました。


アドラー心理学でも、知らない人は知っている人から教わるので、「先生」という役割の人がいることはいるのですが、でもそれは価値の上下はまったくなくて、ヨコの関係で仲間として、知っている人が知らない人に伝える関係の中で先生と生徒という役割に立つだけなんですね。


小学校では、「先生」はなんでも知っている人で、子どもたちが従うべき権威として動いているように見えました。


なので、求められる「協調性」も、アドラー心理学の言う共同体感覚、「これはみんなにとってどういうことだろう? みんなのために何ができるだろう?」と考えたことの結果として発揮されるようなものではなく、「これは「先生」たちにとってどういうことだろう? 「先生」たちのために何ができるだろう?」と考えることで発揮されるものという感じがしました(小学生だった自分もそんな気がしていました)。


それで、「先生」という変数の中身が「会社」になったり「社会」になったりしながら、何か上から降ってきたものに従順な日本人が作られていくというのがよくわかって本当にいい映画だなぁと思いました。まさに"THE MAKING OF A JAPANESE"だと。


で、そんな小学校に全然従順ではなかった昭和の小学生の鍵野は、卒業式の練習なんてバカらしい、なんで自分が卒業する式の練習をしなきゃならないんだ? 誰のための式なんだよ(オレのためだろ(勘違い(笑))! と、卒業式の練習の日にサボって家にいたら、たぶん途中で日和ってやっぱり学校に行った仲間から聞き出したらしいカンカンに怒った担任に文字通り首根っこつかまれて学校に連れていかれる中学生になったし、「なぜ修学旅行に行かなかったのか」という修学旅行についての作文を書く高校生になりました。


高校を卒業して、勉強もしてなかったし、大学は不合格で浪人したのですが、その浪人中に小論文で有名な予備校教師から合格してから読めよと、読んだら大学行きたいと思わなくなるかもというような、これ以上ないような宣伝文句に誘われて、初めて読んだのが安部公房でした。


それでその8年後、ようやく8年生、除籍ギリギリで文学部だったんですが、卒論は創作でもよかったのです当初小説を書こうと思いながら書けず(書かず)、しょうがない評論で行こうということで卒論のテーマにしたのも「安部公房」でした。


共同体からは逃げなければならない…というのが安部公房の諸作品から受け取ったメッセージでした。『小学校』が求めるものからは逃げなければ‥というのと繋がっていた気がします。


ということで、二本目の映画がその安部公房の「箱男」を原作にした『箱男』です。


原作を読んだのは三十数年前ですから、記憶ははっきりしませんが、まぁ映画と小説は別なので、いいんですが、こんな話だっけ?という印象でした。


それでも、箱の中で暮らす、そこから覗き窓を通してのみ社会と繋がっているというのが映像化されて観てみるのは面白かった。


若い頃、大学生当時、箱男へのシンパシーがかなりあった気がします。姿を隠してただただ見ている人。


『小学校』に代表される上から降ってくるものをありがたく受け入れない限りは、ただただ箱の中に隠れて覗いているしかない存在。


まぁ、これもアドラー心理学で考えれば、そうやって、覗き屋?として社会に所属しているんですけれども… どこまでいっても社会から逃げ切れるものではないんですよね、人間は。


そういえば、自分はどうやってあの箱の中のような暮らしから出ていったのかなぁ…上から降ってくるものをある程度受け入れていくしかないと諦められたのかなぁ…などと思いながら観てました。


どちらの映画もおススメです! 大きな映画館ではやってないと思いますが、探せば観れると思います。


アドラー心理学を身に付けた先生ばかりの小学校で学べたらどんな日本人が育つだろうなぁ… そうなったらいいなぁ… そうなれば箱はいらないよなぁ… 


とにかくできることをしていこう!

 

今日も読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。