アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

「自己受容」って?

こんばんは、鍵野です。
今日も寒い一日でした。花冷えというんでしょうか、お花見された方も多かったと思いますが、きっと温かい飲み物で楽しまれたのかな。


ある方と話していて、そういえばちゃんと考えたことなかったなぁという気がする話題があったので、考えて書いてみたいと思います。


それは「自己受容」についてです。たぶん野田俊作懸賞財団(AIJ)と日本アドラー心理学会以外で、アドラー心理学を学ばれている方々がよく使われる言葉な気がしています。「自己受容」と並べて「他者信頼」と「他者貢献」を合わせてアドラー心理学の特徴?原則?とも言われることがあるらしい…


「自己受容」って…、まぁ「自分は大丈夫!」って感じですかね。「自分はダメだ!」って劣等感に苛まされている状態ではないという意味ではたしかにアドラー心理学が目指すところと言えるかもしれません。


ですが、あんまり大丈夫過ぎて、「わたしイケてる!」って優越感に浸ってしまうような状態は、劣等感の裏返しでやり過ぎ(過補償)になって、周囲の人に劣等感を与えているかもしれないし、迷惑な人になってしまっている可能性も大いにあるので、そういう状態もアドラー心理学はおススメはしないんですよね。


そしてですね…、そもそも、それを言っちゃぁおしまいよ!的な話なのですが、「自己受容」の「自己」というやつ…、これ、アドラー心理学の理論では要請されていないやつ…それについて語ること自体がアドラー心理学を壊してしまうような代物ではないかなと。


アドラー心理学の理論、基本前提の一つに「全体論」というのがあります。これは、意識と無意識、理性と感情、心と身体…などなど、人間を部分と部分、構成要素に分けて、その別けた部分のどれかが他の部分を支配しているというような考え方、要素論的、機械論的な考え方を否定しているんですね。


あなたも私もあの人もそれぞれが「個人」という全体です、以上! というのが全体論ですね。全体で決めて全体で動いている生命体であって、それを「個人」と名付けておいたと(英語では分割できないものという意味での"Individual")。


なので、もし「自己」=「個人」だとしたら、「個人」が「個人」を受容する? 全体が全体を受容する?? 受容しようがしまいがそれが「個人」だよねという話でしまいになるし、「自己」=「自意識」≒「自我」だとしたら、これも受容しようが受容しまいが「個人」がその方が生きるのにより便利だろうと主体的に決断しているんだよねということになって、ケースバイケースで「自己受容」した方がいいよねとはならないです(そもそもフロイトじゃないので「自我」なんて話はしないんですが…)。


実際、「わたしってダメなのよね…いつもいつも失敗ばかりで…」という戦略で、誰かに守られるポジションをキープしつつ家族とか職場とか仲間うちに所属している人もたくさんいらっしゃるはずです。「どうせ私はダメですよ~だ。フン!」て逆切れ気味に所属するプランを採用している人も割とみかけますけれども(笑)。


それで、日本のアドラー心理学では、恩師である野田俊作先生が、その誤解しやすい「自己受容」のような考えを「私は能力がある」というわかりやすい表現で、そうした勘違いをしないで済むように教えてくださいました。英語では"Self-esteem"という用語になるのかな。


それから「他者信頼」、これも野田先生が「人々は仲間だ」というわかりやすい表現で教えてくださっています。もともとは「共同で仕事に取り組む関係にある人々」というドイツ語の"Mitmenschen"から来ているそうです。英語だと"fellow human beings"かな?


「他者貢献」については…、「社会と調和する」という、戦後の日本教育を前提に受け入れやすいようにちょっと柔らかい表現で教えてくださいました。"Contribution to the community"ですかね。


それから貢献するには、その前にというか同時にというか、「自立する」必要があるよねということで「自立する」を「社会と調和する」とセットで教わりました。これはもともとアドラー心理学といえば「責任」というイメージがありますが、大きく取れば「責任」には貢献も含む気もしますので、狭い範囲の定義での「責任」を言い換えたものだと思います。社会からの協力の呼びかけに「ここにいるよ!」と応える意味での"Responsibility"ですね。


それで、最初「私は能力がある」と「人々は仲間だ」はそれぞれバラでも成立するように教わったんですが、どうもアドラー心理学に出会って8年目、今ではほかに取り得がないんじゃないのと思うくらいに打ち込んできたつもりの鍵野が考えるに…これらは本当は単体でバラでは成立しないんではないかなと、思うんですね(新学説(笑))。


どういうことかというとですね…、「人々は敵だ」と思っている人が、どんなにある能力、例えば論理的思考力が高くても、それで本当に「私は能力がある」と思えてるのかなぁ…と疑問が沸いてきたんです。


敵に囲まれてくつろいで暮らせていない人が、本当に自分の能力を信じれるんですかね?


例えばヒトラーはどの時点まで「私は能力がある」と思ったままでいられたのかなぁ? ひょっとしたら最初から最後まで全然自信はなかったんではなかろうか…


いやいや、そんな歴史的人物の話は置いておいて、大変卑近な例で恐縮なのですが、鍵野もですね、「私は能力がある」と小さい頃からずっと思って信じ込んでなんとかかんとかやってきたなぁと思うんですが、でも、ですね… 「敵」に囲まれているような状況(これも個人の主観に過ぎませんが)では、とてもじゃないけどそんな自信はなかったなぁ…と、敵と思う人が誰もいない状況で暮らせている今、お金を稼ぐ能力、世の中に受ける能力という意味では明らかに劣後してしまっている今(笑)の方が、「私は能力がある」と思えてるんですよね。


さらに、実労働時間では過去最小(笑)になっている気がしている今の方が「貢献」している気がするんですね。


銀座にあった大企業の経営企画室のなんちゃって(エリート)サラリーマンとして仕事をしていた頃の「貢献」感の百倍はあります(笑)。


国のある地方事業の責任者として家でもどこでも仕事をしていた頃の「貢献」感と比べても十倍はあるかな(笑)。


なので、これは、「私は能力がある」と「人々は仲間だ」と「社会と調和する」とその前提としての「自立する」は、じつはみんな同時にしか本当は成立しないものなのではないかなぁという気がしているんですね。


成立している気がするとしたら、じつは、他者と能力を比較して比較優位に立てたとき、いっとき、そのときだけまやかし的に自分の能力を信じた気になっているだけじゃないのかなぁと…


と、まぁ、ある方との「自己受容」をめぐる会話のおかげで、気になっていたことの考えを少し進めることができて、よかった! 〇〇さん、ありがとうございました!


またいろんなチャンスをみつけて考えてみたいと思います。


写真は「私は能力がある」&「人々は仲間だ」&「社会と調和する」&「自立する」を体現されているかのような職人さんが作ってくれた日田焼きそば(想夫恋)です。美味しゅうございました(笑)。


今日も読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。