アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

自己犠牲って

こんばんは、鍵野です。
台風が少しずつ近づいてきていて、時折、強い雨が降っています。まだ風は強くないですが、暴風に備えて久しぶりに雨戸を閉めました。


何年か前に床下浸水したときには、畳を上げて、溜まった泥水をポンプを借りて吸い出したりなど、結構大変だったのを思い出します。我が家はまだ大丈夫でしたが、近所には床上浸水されたところもあったので、各地からボランティアの方がたくさん来て手伝ってくださいました。各家庭のダメになった家財が山のように積み重ねられていたのを思い出します。


災害列島に暮らす人同士、助け合って暮らしているんだなぁと実感できる貴重な機会ではありましたが、でも、災害はない方がいいですよね、やっぱり。


台風か来ると、よく、ドラえもんの「台風のフー子」を思い出します。大きな台風にぶつかって消えて救ってくれたという、たまにあるある感動系のお話です。「あー、あの話ね」という方もたくさんいらしゃるのではないでしょうか。いわゆる「自己犠牲」の話なんですが、子どもながらに感動したのを覚えています。


でも、ですね、「自己犠牲」ってアドラー心理学でもお釈迦様の仏教(変な言い方ですが、お釈迦様でない超越的な存在の教えを語る「仏教」もあるので、念のために)でも、「自己犠牲」は推奨されていないんですよね。仏教では自分の命を犠牲にするのは、はっきり悪行為とされています。例外的に、リーダーが、メンバーの命を救うために、リーダーの責務として自らの命を差し出すという物語がありますが、それはそのリーダーとしての責務を果たすことが善行為だからであって、そうでない立場で自分の命を他の生命の命を救うために差し出すというのはよくないんですね。自分にも相手にもみんなにも善いことをしなさいというのがお釈迦様の教えなので。


アドラー心理学の思想、「共同体感覚」もそうで、自分も含めたみんなが幸せになる方向を目指しましょうということであって、自分が犠牲になって他者を救うというのは、なしです。


命を失うかどうか、というところに大きな判断の分れ目があって、自分が怪我をするリスクは負いながらも他者を助けるというのは善行為ですよね。必ず死ぬとわかっていて突っ込んでいくこととは違いますから。結果的に、自分が多少傷ついても、そのおかげで一人の人を助けることができれば、それはよかったということになると思います。


身近な例で言えば、鍵野は近頃よく献血をするんですが、これは、針を刺されて痛いし、大事な血液がある程度減ってしまうわけで、献血後は前と比べて健康度が下がると言えるかもしれないし、犠牲がないとは言えませんが、でも、慎重に血液の比重などの事前検査があった上で問題ないと判断された場合のみ実行されるし、毎回、ちゃんと回復はしているし、何よりも、どこのどなたに提供されるかはわかりませんが、鍵野の血液のおかげで、助かっている人がいるはずなので、貢献感、満足感があるし、善行為だと思うんですね、これは。実際、病気だった娘が、同じ九州の方の善意の献血でどれだけ助けられたかわかりません。本当に感謝してもしきれないくらいで、せめてもの恩返しと思って、献血できる限りは続けていこうと思っています。


それで、難しいなぁと思うのが、オリンピックがらみでちょと炎上?したと聞きましたが、大東亜戦争の特攻隊の話ですね。鍵野も、2回、知覧の特攻平和会館に行ったことがあります。最初は、一人でじっくりと、二回目は子どもたちを連れて、日本にこういう方々が、命を捨てて日本を守ろうとした人たちがいたんだと子どもたちに知ってもらうために。


死ぬとわかって飛び立っていくんですよね。遺書もたくさん読まさせていただきました。天皇陛下のため、日本の国体護持という思いもあったとは思いますが、それでもやっぱり本音のところは、大事な家族のために、大切な人の命を守るために、自分の命を犠牲にして、飛んで行ったんだなぁ、敵艦に突っ込んでいったんだなぁと、鍵野は受け止めました。


複雑な因果関係を検証することはかないませんが、特攻があったことと、今の日本のひとまずは平和な状態との間に関係がないはずはなくて、日本人であり、彼らの子孫である我々は、何か肯定的な意味を見出す責任があるとは思っています。


アドラー心理学ですから、すべては仮想なので、「犬死にだった」という仮想よりも、彼らのおかげで戦後の日本もなんとかやってこれたという仮想を選ぶのが子孫たるべきものの務めだとは思います。


ただ、特攻に散った若者たちと同じような思いをしたくはないし、子どもたちにもさせたくないという意味で、自己犠牲ではない共同体感覚を発揮していくことが大事だと思います。二度とそんな自己犠牲を強いるような社会にしないようにしなければと強く思っています。


どうしたらいいのか? アドラー心理学を学んで実践する人を増やしていくしかないというのが、お決まりで、相変わらずの、平凡で退屈かもしれない、鍵野の答えです。


「増やしていくしかない」と言いながら、とにかく退屈よりは戦争をというくらいに刺激を求め続ける人類の興奮を抑える方向に作用するアドラー心理学を、現代競争社会が求めるはずもなし、あったとしてもたまのガス抜き程度で、このままずっとマイナーで、まず増えることはないだろうなぁと、冷静に判断している自分がいるのも、たしかではあって…


それでも、ゼロにしてはいけないと。アドラー先生以来、100年以上も受け継がれてきたこの人類の希望の灯を、誰かに渡していく責任はあると思ってはいます。求める人がいたら辿り着けるようにしておく責任はあるなぁと。


ぜひ、本気で悩んでいる人、本気で社会をよくしたいと考えている人は、本気でアドラー心理学に取り組んでみたください。これ以上も以下もない、これをやるだけでいいというのが、鍵野の学んで実践してみた実感です。


本物の知恵は、ものごとをシンプルにしてくれます。知識がさらなる知識を要求してしまうような、そういった知識の無間地獄のような学問の世界とは真逆の世界です。アドラー心理学を学んで実践して見える世界のシンプルさをぜひあなたにも体験して欲しいなぁと思っています。本当に単純なんですから、人のやっていることは。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。