アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

シジフォスの岩

こんばんは、鍵野です。
一週間ほど東京に行っていました。人生の3分の2以上は、東京で暮らしてきたので、慣れてはいるつもりですが、普段暮らしているところとの人口密度の違いにあらためて驚きました。歩いていると視界の中にたくさんの人が入ってきます。それも全然知らない人ばかり。そんなの当たり前と思って何十年も暮らしていたんですが、これはやっぱりちょっと異常なことではないかと思いました。その知らない人同士が(ある程度)信頼して、助け合って暮らせているというのは凄いなぁと。


大分に出てくるときに、スイカとかパスモは処分したので、移動には現金を使いましたが、今や切符を買う人は少数派ですね(一緒に行った息子はiPhoneで払ってたし)。飲食店や買物での支払いもカードも使わずバーコード決済で済ませることも多くなったし、通帳レスの銀行も増えているし、ログインして表示される残高の数字で、かろうじて世の中とつながっているような気がします。人が動くたびに、どこかの残高が増えてどこかの残高が減る(国債発行で世の中に流れるお金が増える場合は増えるだけですが)、「チャリン、チャリン」と音こそしませんが、「お金」という共同幻想への信頼はみなさん篤いようです(笑)。


驚いたのが浅草寺周辺の飲食店の価格高騰、いや、驚いちゃいけないんでしょうね、インバウンド価格になっていて、ランチで2千円くらいは普通な感じ。浅草に行くと天ぷらが食べたくなる感があるんですが、チェーン店ならではの安心価格の天やで、天丼をいただきました(笑)。外国人観光客の懐事情を考えたら、別に更に倍のランチが4千円でも構わないんですよね、円安だし。日本人向けと外国人観光客向けとで使い分けられるのが当たり前になるのかなとも思いました。懐の寂しい日本人はチェーン店にしか行けない時代になったりして(笑)。外国人観光客と日本に住む人との二重価格というのは、日本文化的にやりにくいでしょうしね。


甥っ子の結婚式&披露宴、演劇、落語、そして中小企業診断士の資格更新のための研修も含めて、ライブを堪能してきました。やっぱり一観客に過ぎなくても、その場にいるだけで、一緒にその場を作っている感があって、オンライン参加や動画の視聴とは全然違うなぁとあらためて実感しました。主役、演者、講師との双方向での生のやり取り、コミュニケーションがあるんですよね、言葉は交わさずとも。この感じ、一緒に協力して作り上げていく感じを、鍵野もカウンセリングとかセミナーで大事にしていきたいと思います。


それで、今日は「執着」について考えてみたいと思います。野田先生は、アドラー心理学の思想であり、目指すところの「共同体感覚」の反対語を「自己執着」とおっしゃっていました。「この出来事はみんなにとってどういうことだろう。みんなのしあわせのために私は何をすればいいだろう」という考え方が共同体感覚で、「この出来事は私にとってどういうことだろう。私の幸せのために私は何をすればいいだろう」と考え方が自己執着だというように。


ここで、「自己執着」に「自己」という限定が付いているのがすごく大事なところだと思うんですね。もし、「自己」の限定がなく「執着」をなくそうとすれば、これはもうお釈迦さまの教え、仏教そのものになってしまって、出世間を目指すことになってしまうので、よっぽどの覚悟がないと実践することができません。幸いにも(笑)、ここに「自己」という限定が付いているのが、アドラー心理学が俗世間の知恵として気軽に(そうでもないが(笑))学べるところなのかなと思います。


関連して、印象に残っている話を紹介します。仏教のお師匠様であるスマナサーラ先生が最近の動画でおっしゃっていたのですが、すべての生命はシジフォスのようなものだと。決して頂上までには運ぶことのできない大きな重たい岩をずっと押し続けているのだと。もう少しで頂上と思っても、また下まで転がっていってしまう。それでも飽きずにあきらめずにそれを押し続けるのが生命だと。ゼウスの命に従って岩を押し続けるのですが、そのゼウスも次元は違うけど生命に過ぎないのだから、自分の岩を押し続けていて忙しくて人間にかまう暇なんかないのだとも。


執着とはシジフォスの岩のようなもので、私たちはそれぞれの岩をそれぞれの頂上に向かってずっと押し続けていると。東京だろうが大分だろうが、外国人だろうが日本人だろうが、すべての人は生まれてから死ぬまで重たい大きな岩を押し続けているんだなぁと、久しぶりに東京に行ってきて、帰ってきて、実感しています。


仏道修行はその岩を押すのをやめてみる道ですが、アドラー心理学は違います。できればライフスタイル分析によって、それぞれの人のそれぞれの岩のユニークさを知った上で、岩を押したくなるのはそれは人間だからしょうがないんだけれど、どうせ押すなら、自分も入れたみんなのためになるように押しましょうね、もし自分の岩は少しの間なら置いておけるのであれば、置いておいて、他の人の岩を押すのを助けてみたり、他の人が岩を置いておいて一緒にくつろげるのであればそうしてみたりとか、そんなことができるのであればそれはぜひやってみましょうよという世界だと思います、アドラー心理学は。


アドラー心理学カウンセラーとしては、とりあえずカウンセリングの間は自分の岩は置いておけるようになること、「自己執着」から離れられることが必須と思います。相談者さんを巻き込んで自分の岩を押すのを手伝わせているうちは、アドラー心理学カウンセリングは動きません。かく言う鍵野も、何度も何度もカウンセラーの試験に落ちたんですが、それはいつも自分の岩を押し続けていたからでした。


今もついその自己執着をやってしまわないように、自戒を込めて、書いてみました。相談者さんが本気でアドラー心理学を学びたいと思っていると感じたときが、援助のつもりで自分の岩を押しているかもしれない一番危ないときな気がします。カウンセラー志望の人に出会ったりしたら気をつけないと(笑)。


(お釈迦さまの)仏教は決して自ら宣伝しません。スマナサーラ先生も自ら説法されることはありません。請われて初めてお話されます。ご著書も請われたから書かれたものです。そこからしたら、こういうブログを書くなんてことは、道に反することなんでしょうけれど、アドラー心理学は、アドラー先生の時代からムーブメントとして伝えられてきたもので、野田先生もおっしゃっていましたが、アドラー心理学ムーブメントへの貢献はアドラー心理学を実践するもの、アドレリアンの責任でもあって、そういう意味で、微力&勘違いもおおいにあるかもですが、鍵野にできることとして、こうしてブログを書くこととか、小さなセミナーを開催するとか、細々とカウンセリングをしていたりとか、こちらから動くことをしています。面白いことに、経営コンサルティングの方は、完全に受け身で、これまでの縁からの依頼があったときのみ&余裕があるときのみ活動していて、それでなんとかご飯を食べれてはいるので、ほとんど執着はなくなりました(笑)。でも、アドラー心理学には(だけにはと言った方がいいくらい)執着があって、この大きな重たい岩をどうしたものかなぁと思っております(笑)。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。