アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

ライフスタイルと情報収集の指向性

こんばんは、鍵野です。
台風10号熱帯低気圧に変わったそうですね。といっても、さなぎが蝶になるとかとは違って、いきなり性質が変わるわけでもないでしょうから、相変わらず大雨などへの警戒は必要ですね、影響のある地域の方は。ハマチ(ワラサ)がブリになるようなものでしょうか? 逆か? ブリがハマチに? でも、それはあり得ないですね(笑)。18歳で大人と認定されたり、65歳で高齢者と言われるようになったりとか、そういう方が近いんですかね。誕生日が来ていきなり変わるわけもないですもんね(笑)。


9月に入って、ブログはしばらくお休みしようかと思っていたんですが、ある方と話していてちょっと書いておきたいテーマが出てきたので、書いてみます。


ライフスタイルと情報収集の指向性について考えてみたいんです。「ライフスタイル」については、何度か書いてますが、アドラー心理学ならではの概念で、その人が5歳から10歳くらいまでの間に作り上げた、周りの人たちと仲間になるための(最低限無視されないための)サバイバル戦略、人生の方針のことです。いったん作り上げたら、あとはよっぽどのことがない限り、その方針通りに暮らしていきます。シンプルに言えば「私は〇〇であるべき」という文で示されるような人生目標の実現に向けて行動し続けます(と考えるのがアドラー心理学です)。ここで言う「べき」は、英語の"should be"の和訳で、なかなか日本人にはピンと来ない感覚の言葉です。「人間なら当然〇〇であるべき、そうでなければ人間じゃない」という強いニュアンスを持った「べき」です。なので、他の人も当然そう思うはずと疑いもなく信じていて、常に「自分は正しい」目標に向かっていると信じ込んで暮らしていきます。


アドラー心理学(あるいは自分を超えるようなスピリチュアルな何か)に出会わなければ、ライフスタイルに縛られて、死ぬまで「私は〇〇であるべき」という人生を送ることになります。例えば「私は強くあるべき」という人生目標を持った人がいたとして、ボクシングなどの格闘技で世界チャンピオンになったとしても、まだまだ強い人は出てくるし、自分も衰えるし、100%満足できることはあり得ません。また、同じような目標でも「強い=お金を持っている」という意味づけをしている人だったら、格闘技ではなく、事業を起こして、お金を儲けるとか、投資をするとかして、どんどんお金を稼ぐだろうと思います。その場合でも、いくら稼いでもまだ上には上がいるし、これからも出てくるし、死ぬときは1円も持っていけませんし(笑)。「強い=賢い」という意味づけをしている人も同じですね。世の中にはいくらでも賢い人はいるし、いつかは脳も衰えるし、どんなに勉強したところで最後はご苦労様!で終わってしまいます(笑)。


それで、ライフスタイルに縛られるというのは、その人生目標を追及し続けるという意味なんですが、今日書きたいのは、そもそもライフスタイルに「情報収集の指向性」がビルトインされいて、目標追及だけでなくて、眼から耳から鼻から舌から身体から入ってくる情報が、既にライフスタイルの目標追及に寄与すると(思われる)ものにフィルタリングされているということについてです。


身近な例で言えば、お腹が空いて「何食べようかな?」と思いながら、街を歩いているときには、どんどん食べ物屋さんの存在が目に入ってきます。スープの匂いとか、タレが焼けている匂いだとか、そういうのにも敏感に反応しますよね。


ライフスタイルもそんな感じです。ここからは、あえてその辺りの話をわかりやすくするために意地悪く極端な感じで書いていきますが、お許しください。


例えば、「私はみんなから可愛いがられるべき」という人生目標を持っている人は、自分が人から可愛がられるために役立つ情報をどんどんキャッチし続けます。たぶん、賢くなるための情報や、強くなるための情報は、自分の目標追及には有害なので無意識的にスルーして暮らしていくことになります。


自分より可愛いがられる人がいたら、避けるか、邪魔するかして、たぶん仲良しにはならないと思います。比較されたらイヤですからね。それでも、その人がずば抜けて可愛い、もう競争しようもないくらいとなったら、すり寄ることもあるかもしれません。その方が自分が可愛がられるのに有利になると判断すればですね。


自分が可愛がられるためなら、どんな努力も惜しみません(努力が見えると可愛がられないと判断したら決してその姿は見せないでしょうけれど)。


親もきょうだいも友人も学校の先生も、会社の上司も部下も同僚も、夫(妻)も、すべて自分が可愛がられるためのリソースにすぎません。


自分の目標追及に関係のない情報はどんどんスルーしていきます。関係があればすぐに食いつきます。料理が上手になることが可愛がられることにつながるのであれば、真剣に学びます。少しドジな方が可愛がられるのであれば、決してドジな失敗からは学びません(笑)。


この人に子どもが生まれたとすると、その子が勉強ができるかどうかよりも、人から可愛がられるかどうかがもの凄く気になります。いつも人から可愛がられるようにしなさいという意味のことを繰り返し繰り返し子どもに教えていきます。そこが気になって気になってしょうがないので、その子が例えば強くていじめられそうになった友だちを助けたとか、周りに流されずに一人で行動できるとか、そういうステキなところがあっても、そこはスルーします。自分の目標追及の役に立たないので、この人にとっては価値がないんですね、そういう子は。それよりは、可愛がられて助けてもらうキャラの方をよしとする。それで、「可愛げのない子ね、この子は。まったくうちの子とは思えないわ」なんてことを言ったりします。


というのは、極端な例ですが、それでも我々は多かれ少なかれ、自分の目標追及の役に立つであろう情報ばかりを集めたがります。ライフスタイルが気にしない情報はなかなか入ってきません。


それで、アドラー心理学は人が幸せに暮らすためには、人と協力して暮らすことだ、共同体感覚を発揮して暮らすことだと主張しています。


人と協力するには、その協力する相手の関心に関心を持つことが不可欠です。この人は何を求めているのかがわからなければ、協力しようがないからです。それで、その人を観察したり、話したり質問したりしながら、その人の関心事を理解していこうとするわけですが、そのとき、自分の目標追及に汲々としていると、相手を理解するための情報が入ってこなくなります。入ってくるのは自分の目標追及に利する情報ばかりで、相手を道具と見立てての情報は入ってくるんですが、相手も対等の人間で、自分とは別の目標を追及している人だということを忘れてしまうんですね。


なので、いったん自分の目標追及を棚上げするというか、距離を取って、相手と協力するための情報を入手する必要があるんですね。なんだか難しそうに感じられるかもしれませんが、これ、できてしまえば簡単なことで、相手の関心に関心が向いたとたん、協力するために必要な情報がどんどん入ってくるようになります。


具体的には、
1.自分のその場での仮想的目標を意識すること。これで少し自分を俯瞰できるというか、目標追及から少し距離が取れるようになって、即行動に移すのではなく、情報収集するための間を持つことができます。
2.相手の普段の善い意図、普段発揮されているストレンクス(強み)を思い出すこと。さらに、この場での善い意図、この場で発揮されているストレンクス(強み)をみつけること。これによって、相手が自分の邪魔をする嫌な人ではなくて、懸命に生きて暮らしている対等な人間なんだ、協力し合える(可能性のある)人なんだと思い直せます。


そうすると、今まで見えていなかったこと、聞こえていなかったこと、感じていなかったことなどが、見えて、聞こえて、感じられるようになります。


そうなったら、新たに収集した情報を利用して、自分だけでなく相手も満足するような目標を再設定してから、行動すれば、それまでの自分の目標追及に邁進していたときとは違う結果が得られるようになります。今までよりも幸せな方向に踏み出せているはずです。


行動に使うリソースは、自分の目標追及のみに邁進していたころのそれと変わりません。使えるのは自分のストレンクスだけです。それでも、ライフスタイルに目が眩んでいると、本当はいろんなストレンクスを持っているのに、それらは引き出しに入れっぱなしで、いつものアレ、こういうときにはアレだよねと、その場のニーズには合わないかもしれない愛用のストレンクスのゴリ押しになりがちなんですが、そこから距離を取れれば、かなり幅広くいろんなストレンクスを使えるようになります。なぜかといえば、ライフスタイルによるフィルタリングが緩んで、予定調和的な、自己予言達成的な情報ではなく、今ここでのリアルな情報が以前よりもしっかり入ってくるようになるので、その場で必要とされること、問題解決にどんなリソースが必要かがより明確にわかるようになって、その場で使えるストレンクスがあれば、「じゃ、これ使ってみて」という感じで素直にスッと差し出せるようになるからです。


本当にライフスタイルを緩めよう、目標追及に汲々とする人生を変えようと思ったら、しっかりライフスタイル分析をしてもらう必要があるでしょうけれど、スポットのカウンセリングでも、価値観の親分である私的意味づけから派生するところの私的感覚を扱う「エピソード分析」をすることで、少しずつライフスタイルのタガが緩んでくることはあり得ます。


陰性感情をバリバリ使って、死ぬまで目標追及していくんだ!と突っ走っていく方をあえて止めようとは思いませんが、どこかで縁があるのであれば、アドラー心理学をおススメしたいとは思います。


目標追及するのは人の勝手だろ!と言われれば、それはそうなんですが、でも、その勝手の結果としての代償があまりにも大き過ぎる場合があるのを我々人類はたっぷり経験してきています。戦争、ホロコースト原水爆などなどですね。なので勝手にはしたくないんですね。お互いにお互いの幸せの実現に関する責任がありますよねと、言いたい。


難しいのは、人に強制した瞬間にそれはアドラー心理学ではなくなってしまうということです。あくまでも個人個人が主体的に選んだ結果としてアドラー心理学の学びと実践があるというところが、魅力でもあり難しさでもあるといったところですね。アドレリアンは皆、アドラー心理学の普及を目指して活動しているはずですが、でも、それは布教とは違うわけで、息の長いムーブメントとして、どうやって活動していくのがよいのか、悩ましいところですね。


そうそう、今日は野田俊作顕彰財団(AIJ)のカウンセラー養成講座最終日なのでした。果たして何名の新しいアドラー心理学カウンセラーが誕生したのか? 楽しみですね! 受講された方、見学された方、そしていつも熱心にご指導くださる先生方、本当にお疲れ様でした。ここが日本のアドラー心理学普及の一丁目一番地だと思っています。


新しくカウンセラーになられた方、養成講座を修了された方が、また地元に戻って、野田先生から受け継がれてきたアドラー心理学を多くの方に伝えていくんですよね。


大げさではなく、日本人の未来への希望の灯がまた新たに灯った日をお祝いしたいと思います。おめでとうございます!
お互い、今を生きる人たちのためにはもちろん、未来の子どもたちのためにも、できることはしていきましょうね。一緒に学べる日を楽しみにしています。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。