アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

毒親って

こんにちは、鍵野です。
昨日、前回の献血から3か月経って、また献血可能という知らせがあり、時間もあるし(たいていあるんですが(笑))、大分にある献血ルームに行ってきました。


今回も400mlと思って行っては来たんですが…残念ながら比重が少し足りず、貧血気味ということで今回は献血できませんでした。もともとギリギリの数値なことも多く、以前にも1回だけこういうことがあったんですが、最近あまり玄米を食べなくなって、麺類が多かったせいかなぁと少し反省。鉄分を少し意識して取っていこうと思っています。食生活を改善して、しばらくしてからまた行ってみます。


そして、今日は開業記念日でして(特に何をするとかはないのですが)、経営コンサルタントとして大分で開業してから13年目に入りました。サラリーマン時代には何度か転職していて、一番長い会社でも9年しかいませんでしたから、なんとかかんとかここまで続けてやれているところをみると、やっぱり自営で一人でやっていくのが鍵野の性に合っているんでしょうね。儲からないし人を雇う甲斐性もないんですが(経営コンサルタントがそんなことを言っていてはねぇ(笑))、一人が気楽なんですよね(笑)。他人の評価はともかく、他者に貢献できるという意味では、今、過去最高の力があると感じています。お金という物差しで言えば、新人サラリーマンの頃よりも稼いでないかもですが(笑)。そういえば、大学を卒業して最初に勤めたソフトウェア開発の会社が買収されるらしいとニュースになってました。まだそこにいるかもしれないかつての上司や同僚たちの顔が浮かびました。彼らにとっていい方向に進みますように。


さて、今日はちまたでよく見かけるワード「毒親」についてアドラー心理学の視点で考えてみたいと思います。


ちなみにWikipediaでは
毒親(どくおや、英: toxic parents)は、毒と比喩されるような悪影響を子供に及ぼす親に対して、1989年にスーザン・フォワード(Susan Forward)が作った言葉である。学術用語ではなく、スーザン・フォワードは「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」を指す言葉として用いた。」
とありました。


みなさんは「毒親」というとどんなイメージを思い浮かべますか? 具体的にはいろいろあると思いますが、ネガティブなイメージなのは間違いないですよね。育てている子どもに対して「毒」になる親という意味だと思うので。


アドラー心理学を学んでいると、概念の意味を捉えるときに、対で考える癖があるんですが、「毒」の反対は何になりますかね?


調べると対義語として「薬」というのが出てきますが、ちょっと違う気がします。「薬」も「毒」の一種のような気もしますし、悪い状態から戻すという作用はあるけれど、さらによくするという意味はないですもんね。


「毒」を、子どもの生命力が衰えていく方向に作用するという意味と捉えると、子どもの生命力が増していく方向に作用するという意味で「滋養」とか「栄養」とか「涵養」ですかね? 「滋養親」「栄養親」「涵養親」どれもゴロが悪いので、「慈親」がいいかなという気がしてきました。我が子を慈しみながら養い育む親というような意味で(ちょっと仏教的ニュアンスが入ってしまったかな?)。


まぁその辺はとりあえずどうでもいいんですが(笑)、アドラー心理学の用語として「毒親」というのはないので、あえてアドラー心理学用語で表現するとしたら、「(強烈に)子どもの勇気をくじく親」ですかね。その反対は「子どもを勇気づける親」ですね。ということで、「毒親」というのも、よくある子どもの勇気をくじく親の強烈バージョンに過ぎないよね、で、話を終わろうと思えば終われるんですが、せっかくなのでもう少し考えてみたいと思います。


アドラー心理学で「勇気」というときは、一般的な意味ではなく特別な意味があって、「自分だけのためでなく自分も含めたみんなのためになるような行動を選ぶ」というような意味です。なので「勇気をくじく」というのは、「自分のためだけになるような行動を選ぶ」ように仕向けるという意味になりますね。別の言葉でいえば「共同体感覚」を発揮するのが「勇気」の方向で、「自己執着」するのが「勇気をくじかれた」方向です。


ここでちょっと注意が必要なのが、「自分のためだけ」と言っても、勇気をくじかれて、それで例えば自殺をする人がいたときのことです。それって自分のためにもなってないのでは?と思われるかもしれませんが、アドラー心理学では、それは自分のためにしていると捉えます。どういうことかというと、それは、生き続けるよりは自殺した方がいいと自分のために自分で決めていると見るのがアドラー心理学だからです。無視されて社会に所属できないまま暮らすよりは死ぬことを選ぶ(自殺した人として社会に所属することを選ぶ)のが人間だと。


さらに注意が必要なのは、自殺は、安楽死尊厳死の議論とは違うところです。日本では安楽死尊厳死は認められていませんが、例えば、病に苦しんでいて、回復の見込みもなく、このまま苦痛が続いて、さらに家族にも苦労をかけ続けるのも忍びないと思っている人が、選べるのであれば自ら死を選びたいというとき、それが自分のためにもみんなのためにもなると本気でその方が考えているのであれば、それは勇気をくじかれた結果としての自殺とは全然違うことだと思います。


また、「いやいやいや、「毒親」に支配されてる子どもは、自分のためではなくて親のためになるような行動を選んでいるんじゃないですか? それは「勇気をくじかれている」のとは違うのでは?」という声も聞こえてきそうですが、それを考えるときに3点大事なポイントがあります。


まず1点目、「親のため」というのも、「親の言う通りにすること=親のため」とは限らないというところです。それが本当に相手の幸福につながるのかと考える責任はあります。もちろん生殺与奪の権利を握られているに等しい状態の小さな子どもにそれを求めるのは無理な話なのですが、親も子も別人格の対等な人間であるという意味で原理的には押さえておく必要があるポイントです。極端な例で言えば、親の犯罪の手伝いを子どもがするとかですね。他にはアルコール依存で苦しむ親に求められてアルコールを提供するとかですね。

2点目は、「親のため」にすることが、親を越えた「みんなのために」もなるのか、不利益にはならないのかと考える責任はあります。例えば、母親から「あんな子と遊んじゃいけません」と言われて、言う通りにした結果、仲が良かった友だちを遠ざけて、その子がとてもショックを受けて悲しんだとか。

3点目は、「親のため」とは言っているけれども、それはやはり自分のため、自分が生きていくために自ら選んだ行動であるということです。これも繰り返しになりますが、生殺与奪の権利を握られているに等しい状態の小さな子どもが、自分が生き残るためサバイバルするために、親の機嫌を損ねないようにそれ以外に選択肢がないような状況があるのは承知していますが、やはり原理的には押さえておく必要があるポイントです。


それで、アドラー心理学の視点で「毒親」を「(強烈に)子どもの勇気をくじく親」と言い換えてみて気づいたんですが、「毒」と「勇気をくじく」に表れている人間観に違いがありますね。


「毒」という言い方に、何かあきらめというか、毒なんだから化学的な作用で、人がそうなってしまうのも仕方がない、必ず悪い結果になるという原因論的な見方を強く感じます。


一方、「勇気をくじく」といった場合、くじかれている「勇気」はあったんだ、まだあるかもしれない、回復するかもしれない、勇気を持っている人と勇気をくじく人との相互作用的な感じ、結果に一枚かむことができる、何かしら作用できる感じがします。


もう少し具体的に考えたいので、人が「毒親」という言葉を使う場面、実際に鍵野が聞いたことのある場面の話をします。カウンセリングでの話です。相談に来られる方から「私の親が「毒親」で…」という話を聞くことがあります。


でも、「毒親」との関係自体を相談されたことはまだありません。相談自体はその親とのことではなくて、他の人との人間関係についてで、「毒親」というフレーズは、自分の育ち方を説明するときに出てきますね。「毒親」というレッテルを貼った瞬間、あきらめというのか、もうその人との人間関係をどうこうしたいとは思っていないのかなという気がしています。


そういう場合、こちらからその「毒親」に触るつもりはないのですが、とても原因論的に捉えられていて(まだアドラー心理学を知らないのでしょうがないのですが)、「毒親」に育てられたから、今の私がこんなに困っているという強固なロジックを持たれていることがあって、それをそのまま認めてしまうと、タイムマシンにでも乗って「毒親」による子育てのやり直しをしない限り、その方は変わらないことになってしまうので、アドラー派のカウンセラーとしては、「毒親」に育てられたその方であっても、人間関係の改善のためにその方にできること(これまでしていたことをやめる、あるいはこれまでしてこなかったことをする)を一緒にみつけていきます。


そして、「毒親」に育てられても、(変わりたければ)変われることを体験してもらいます。毒親に「勇気をくじかれた」人であっても、「勇気づけ」られて、「勇気」づいて、自分のためだけでなく相手のためにもなるように行動できたとき、もう「毒親」は必要なくなっています。自分が変わらないために、「悪いあなたかわいそうな私」で塗りこめられた、この上なく辛いけれどその辛いという期待だけは裏切られることがなかった(そういう意味では安心できていた)世界を守り続けるための「毒親」ロジックを使う必要がなくなってるんですね。本当に「勇気」のある行動ができたときには。


「「毒親」のことは忘れましょう」と言われて忘れられるのならカウンセラーなんて職業はいりませんよね(笑)。「毒親」という言葉を聞いただけで、いつものロジックでグルグル考えてしまうのが人間です。忘れよう、忘れようとするほど、定着してしまうものです。寝よう、寝ようと思うほど目が冴えて寝れなくなってしまうのと同じですね。


相談に来られた方が、現在の人間関係が好転するような動きをするようになった結果として、不安であれ、落ち込みであれ、憂鬱であれ、疲れであれ、怒りであれ、毒親であれ、いつの間にか「言い訳として」使わなくなっていたねというところを目指すのが、内的葛藤なんて存在しないという前提で動くアドラー派のカウンセリングです。


すべては人間関係の問題だと(アドラー心理学に扱えるのはという意味ですが(笑))。なので、過去にどんなひどい目に遭っていたとしても、それをその記憶をいまここで使っているのはその人であって、それには必ず目的があると考えるのがアドラー心理学です。かといって、どこかの本のように「あなたは「毒親」に育てられたことを言い訳にして、今やるべきことから逃げている!」なぁんて、アドラー心理学のロジックそのままを相談者さんにぶつけるような対話は決してしません(笑)。それこそ勇気くじきになってしまいますから。野田俊作顕彰財団(AIJ)と日本アドラー心理学会の認定カウンセラーにはそんな人はいないはずです(たぶん(笑))。


この辺りの構造的に何重かになった対話の進め方がアドラーカウンセリングの醍醐味だなぁと最近よく思います。


アドラー心理学のカウンセリングは治療ではなくて教育だと野田先生がおっしゃっていました。相談に来られた方にアドラー心理学を学んでもらうことがカウンセリングの本質だと。どうやったら効果的に学んでもらえるかの工夫がカウンセラーに必要で、これは日々鍛錬していくしかないですよね。先生方、先輩方のカウンセリングの見取り稽古をさせてもらいながら、自分なりに工夫していくところかなぁと思っています。


カウンセリング中に、アドラー心理学に対する質問をしてくださる相談者さんもいらっしゃって、鍵野はとても嬉しいのですが、そこではギアというかモードを切り替える感じで、その方のエピソードからいったん離れて、先ほどのようなアドラー心理学のロジック丸出しの対話をします。それは全然OKなんですよね。たっぷり理論とか思想についての対話をすることもよくあります(それで時間を使うことに合意が取れている前提があるからですが)。


エピソードに戻ったら、直接アドラー心理学のロジック自体が言葉として露出するのは避けます。せっかく講義ではなくて、カウンセリングに来てもらっているんですから、頭だけではなくて、心も身体も感情も全体でアドラー心理学を体験してもらいたいですもんね。なので楽屋や舞台裏はできるだけ見せません(笑)。


その辺りのカウンセリングでのモード切替の実際やアドラー心理学ならではの対話を体験されたい方は、ぜひ一度「鍵野の家」までお越しください。今ならキャンペーン中で大変お安くなっていますので(笑)。

 

最後に、参考までにですが、仏教では「毒親」はあり得ません。他にいくらでもある生命の中から、人間として生まれることができるというのは本当に奇跡に近いくらい恵まれたこと、過去の善行為の結果だと仏教では教わります。なので、その人間としての身体を用意してくれて、オギャーと生まれ出てくるまで、長い間お腹の中で栄養を与えてくれて守って育ててくれただけで、その後にどんなひどいことがあったとしても、それだけで、最大の恩人であるとされています。仏教では親孝行は絶対です。それは親を喜ばせていい気持ちになるためではなくて、自分の身体もしょせんは親から借りたものに過ぎないことをいつも思い出すためだと、仏教のお師匠様に教わりました。心を清らかにするための修行なんですね、親孝行は。


「産んでくれなんて頼んだ覚えはない」なんて言葉を聞いたことがありますが、お釈迦さまの教えからしたら、生まれたいからこそあえてその親をその環境を選んで生まれてきたんであって、しっかり頼んだはずなんです。むしろ親の方が「(あなたが)生まれてきてくれなんて頼んだ覚えはない」というのは、そりゃあそうかもしれないなぁと思います。


互いの業の結果として、今生では親子になることを選んだんだなぁと責任を引き受ける(虐待などを甘受するという意味ではありません。責任を持って離れる抗うこともあると思います)のが仏教的な構えだし、アドラー心理学的な構えにも整合するのではないかなと鍵野は思っています。


今日も読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。