こんばんは、鍵野です。
今日は珍しく?たっぷり仕事をしました(笑)。それで、久しぶりに頭が痺れて、ぼーっとしているのがわかります。こんなときはブログを書くよりも、座る瞑想でもした方が回復が早いんでしょうが、ちょっと気づいたことがあったので言葉にしておきたいなぁと思いまして。
「ライフスタイル」というアドラー心理学独特の考え方、捉え方があって、性格論の一種といってもいいんでしょうけれど、このブログでも何度か書いているように、百人いれば百通りのライフスタイルがあって、それぞれ個性的な、いわば人生のサバイバル戦略のようなものなんですね。大体5歳~10歳くらいの間で出来上がって、よっぽどのことがなければ(アドラーカウンセリングを受けるとか、言葉の通じない外国で暮らすとか)死ぬまで変わらず(変えず)、いつも同じようなことに怒ったり悲しんだり後悔したり、また、喜んだりしながら、暮らしていきます。
その人が出来事に対して<よい/よくない>を判断するときの拠り所となる価値観の総元締めのようなもので、その人のやることなすことのすべてがこの価値観を元にしています(とアドラー心理学では考えます)。
たとえば<人に好かれるのはよい/人に嫌われるのはよくない>という価値観で暮らしている人は、周りの人が自分を嫌っていないかどうか、好かれているかどうかをいつも気にしていて、少しでも自分を嫌ってそうなそぶりを見せる人がいると、「危険! 生存の危機!」と陰性感情が発動されて、例えばもの凄く不安になって、その人が自分を好きになってくれるための行動を起こします。
その行動は、小さいころ、親とかきょうだいといったその子の社会そのものであった人たちの仲間になるために、トライ&エラーでものにしてきた熟練の技なんですね。好かれるために、何かをプレゼントするのが得意な人もいるし、気遣いをみせて何かをしてあげるのが得意な人もいるし、甘えるのが得意な人もいるし、価値観も様々ですが、愛用の方法とも言うべきその技、行動も本当に様々です。
それで、その熟練の技をもってしても、うまくいかない、自分の望みを達成できない、さきほどの例で言えば、自分を好きになってくれないといった事態が起こると、その人は悩んでしまうわけです。
そんなときにアドラーカウンセリングを受けると、その悩みは解決に向かうんですが、そこには新旧と言っていいのかどうかわからないけれど、考え方の違う2つの流れがあるなぁ…というのが今日書きたかったことです。
というのも、ある人と話していて「ライフスタイルを否定しなくていいんですね?」ということを言われたことがあって、そうか!ライフスタイルから離れるとか、ライフスタイルの劣等の位置も優越の位置もどちらも仮想でウソに過ぎないというようなことを強調して説明してきたものだから、否定しなきゃいけないものという誤解をさせてしまったんだなぁと反省したんです。
たしかにライフスタイルに縛られていては、協力的に暮らすのが難しい場面が多くなるので、距離を取って暮らしていきたいものではあるんですが、人間が言葉を使って価値観でもって事態を判断し続ける生き物である以上、ライフスタイルからは逃れられないので、使っていかなきゃしょうがないんですね。なくせはしないんです(覚者になれば別でしょうけれども)。なので、「大人になる」というような表現を野田先生も使われていて、そのライフスタイルはあるんだけれど、もう5歳ではないからもう少し大人っぽく自分と相手とみんなのために、優越目標追及のためではなく、自分の技をストレンクスを使っていけるように相談していきましょうというのが、新旧で言えば新しい方のカウンセリングのやり方です。その新旧の分れ目がどこにあるのかというと、野田先生が「エピソード分析」を開発される前と後にあります。
鍵野は野田先生が「エピソード分析」を開発された後、実用化して、どんどん「エピソード分析」をマスターしたカウンセラーが誕生してきた頃にアドラー心理学を学び始めたので、それが新しいものだとは当時はわかりませんでしたが、今、いろいろ学んで振り返ってみると、全然考え方が違うんですね。
ここで旧の方を説明すると、これは伝統のアドラーカウンセリングというか、野田先生もN先生も留学された、ドライカース派の牙城である、シカゴ学派のやり方なんですね。ライフスタイルというものがある。それはまぁ信念みたいなものだ。で、その信念には、ちょっと暮らしにくいというか、周りの人とぶつかってしまいやすい信念というのがある。それで、困っているのであれば、カウンセリングでその辺りをちょっと手直ししてなんとかそれまでより暮らしやすいようにしましょうね、というものです、ざっくり言って。
<人に好かれるのはよい/人に嫌われるのはよくない>という価値観を例にとれば、<すべての人に好かれるのがよい/一人にでも嫌われるのはよくない>という極端な価値観ではとんでもなく生きにくいので、カウンセリングで、少し条件を緩めてもらって、<10人中7人に好かれればよい/10人中4人に嫌われるのはよくない>くらいで暮らしてみる気になれればいいですよね、というようなイメージです。
野田先生もこういうカウンセリングをされていたことがあったと思うんですが、「エピソード分析」開発以降は、じつは手法・技法の問題というよりは、共同体感覚とライフスタイルに関して大きく考え方を進展されて、スイスのイヴォンヌ・シューラー先生から学ばれたということでしたが、そもそも「共同体感覚のある目標追及」というのは語義矛盾で、あり得ないことなんだと、わかったと。ライフスタイルを手直ししてなんとかするというのは、まさに「共同体感覚のある目標追及」のススメでもあるわけで、それで役に立つことももちろんあるんだけど、でも、本質的に、共同体感覚は、ライフスタイルの劣等から優越への運動の方向には存在しないんだと。もともとライフスタイルなんてものと関係なく、人は本来平等なんだと。育った環境も遺伝的な素質も持ってるものも全然違うけど、そういうことと関係なしに、赤ちゃんもお年寄りも、障がいのある人もない人も、人種が違っても、みんな平等なんだと、その平等の位置にいる感覚が共同体感覚なんですね、もともとのアドラー先生のアイデアはそうなんだ、それがナチスの支配を逃れたスイスに残っていたんだ、というのが野田先生の晩年の主張だったと理解しています。
そして、「信念」という目に見えないものを扱うのではなく、聞けるもの書けるものとしての「語り」を対象にカウンセリングを通じて、その「語り」が変わること、競合的な語りが協力的な語りに変わっていくことで、実際に、その語りを持ち込んだ暮らしも協力的になり、結果として相談した人もその相手役さんも周りの人も幸せに向かっていく、というのが「エピソード分析」の目指すところなんですね(と鍵野は理解しています)。
その「語り」を変えるために、いったんあのホワイトボードに矢印とか言葉を、相談者さんの今の語りから引き離すためにそこに書く必要があるのであって、どこかの事情をよく知らない人がシカゴ式に比べてホワイトボードを使って書くことを指してだと思うのですが「補助輪」と揶揄していたのを聞いて、修行の足らない当時の自分は非常に腹立たしく思ったものですが、仕方ないですよね、そういう深い事情あっての技法なんだとわかるには、それに真剣に取り組んだ人でないとわかりっこないですから。
そういう共同体感覚とライフスタイルの関係について、十分理解納得実践した上で、初めて、「ライフスタイルから離れる」という言葉が実感を伴って、ライフスタイルの否定でも肯定でもないものとして理解できてくるのであって、これからライフスタイルと取っ組み合いを始めようか(笑)という方に、伝えることの難しさを実感する経験でした、「ライフスタイルを否定しなくていいんですね?」と言われた経験は。もの凄く勉強になりました。もっともっと伝え方を工夫しなくてはと思いました。
いっそのこと自分でわかるまで伝えない方がいいのかも?と思わないでもないんですが、でも、野田先生がはっきりおっしゃっているんですよね、相談に来た人に「「ライフスタイルと共同体感覚」について講義してあげて」と。それなしでカウンセリングしても限定的な効果しか期待できないともおっしゃってました。逆にたとえライフスタイル分析が下手でも、その辺りのことをうまく伝えられたら、ちゃんと効果が期待できると。
ということで、明日は、カウンセリングではないですが、宮崎県小林市でアドラー心理学について話す時間をいただいているので、「いきなりそんな話するんかい!」と思わないでもないですが、どうせなら一番大事なところはお伝えしておきたいので、ちゃんと伝わるようにライブ感を大事にしながら工夫してみたいと思っています。
楽しみ!
読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。