アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

共同体感覚の育成、絶望と希望

こんばんは、鍵野です。
今日は地区で二十三夜の地蔵盆踊りがあります。関西以西では結構行われているようですね。十五日の初盆供養盆踊りとはまた違う趣旨で行われるようで、調べたら子どもたちが主役という話もありました。それでですかね、子どものころの微かな記憶ですが、二十三夜の方がたくさんお小遣いをもらったし、お店もさらに賑やかだったような気がします。


体調が回復してきた人気者の母は、みんな待ってるから今夜は踊ってくると張り切ってました(笑)。浅海井地区の盆踊りには、男踊りと女踊りそれぞれ別の型があって、見ていてなかなか楽しいものです。それでも、見てるよりは踊らにゃ損損、ということで踊った方がいいかもしれませんね。鍵野も子どもの頃は見よう見まねで輪に加わって踊ったものですが、今はほとんど見てるだけです。暗くなったら散歩がてら雰囲気だけでも味わいに行ってみようかと思っています。美味しそうな屋台が出てたら何か買うかもしれませんが(笑)。


今日は共同体感覚についてまた考えてみたいと思っています。「共同体感覚」というのは、ドイツ語の"Gemeinschaftsgefühl"、それを英訳した"Social Interest"あるいは"Community Feeling"の日本語訳です。ひとことでは説明できないというか、そもそも説明すべきものでもない気もしているのですが、アドラー心理学の思想であり、グループワークであっても、カウンセリングであっても、アドラー心理学を学ぶ目的は「共同体感覚の育成」なので、さしあたって何か言っておいた方がいいかなとも思うんですね。例えば、「ひとごとでない感じ」というのもそうだし、「自分だけ!はない感じ」とか、「仲間だという感じ」もそうでしょうし、「相手も自分もみんなも平等な感じ」もそうですね。


アドラー先生は、米国議会図書館に埋もれていた原稿を元に、(なんと!)2006年になって出版された"The General System of Individual Psychology"という、すっきりまとまった講義録の中で、この「共同体感覚」について、何度も何度も、進化の賜物であって、今も進化の途上にある我々人類が育成して発展させていかなければならないものだと書いています。そしてゆくゆくは呼吸をするように自然に人類が共同体感覚を発揮する時代が来るんだ、そこへ向けて共同体感覚を育てていかねばと書いています。


そして、私たちが見るのも聞くのも話すのも、すべて他者と繋がろうとする共同体感覚があるからできることであるとも述べています。


アドラー先生は、人類の進化にかなりの信頼を置かれていたようですね。個人の相対的マイナスから相対的プラスへの目標追及も、個体発生が系統発生を再現するかのように、人類としての完全性を目指す進化の流れの中にあるんだという捉え方をされていたようです。完全な存在に向けて進化の過程のただ中にある私たちという捉え方ですね。"sub specie aeternitatis"、「永遠の相の下に」という有名なスピノザの言葉と共に、「共同体感覚」がイメージされていたようです。


アドラー先生が亡くなったのは1937年です。ボルシェビキが裏でやっていたことは奥様を通して十分知っておられたようだし、ナチスの迫害の魔の手から逃れて米国に移られた先生ですから、それらの酷いことも身近にリアルに知っておられたはずです。それでも、まだ、そのアドラー先生が、自らの心理学を熱心に伝えた、戦争のない世界を目指すための希望の国であったはずの米国の人たちが、人類史上初めて同じ人類に対して核爆弾を使用した人たちであったという、絶対に聞きたくなかったであろう事実は知らないままこの世を去られました。


それらを知っている私たち、とくに広島長崎の同胞が、そのアドラー先生の教えを最も熱心に聞いたであろう米国の人たちの決断により、殺され傷ついて苦しみを味わってきたことを知っている私たち日本人には、人類が「共同体感覚」を発展させて戦争のない世界を築いていくだろうと(軽やかに)信じていくのはかなり難しいのではないでしょうか。


ウクライナとロシアの戦争もしかり、パレスチナ問題あるいはイスラエル問題もしかり、アドラー先生がお亡くなりになって87年になりますが、進化の兆しはまったく見えてこないように思います。


それでも「共同体感覚」はあります。みなさんも常日頃体験して感じていらっしゃいます。親子の間だったり、夫婦の間だったり、友達同士だったり、会社の同僚とだったり、いろんなところで、持続時間はたとえ短くとも、「私たち仲間だなぁ」と感じるときがあるはずです。どちらが上でも下でもなく、横の関係で、互いのために何かをしたいと思い合えているなぁというあの感じ。


そして、それは、ウクライナの兵士の人たち同士にも、ロシアの兵士の人たち同士にも、イスラエルの兵士同士にも、あるんですよね。あるからこそ、戦争を継続できているんですね。昔の日本の兵隊さんたちもそうだったし、米国の兵士同士もそうだったんですよね。仲間を、家族を守りたいという「共同体感覚」が、相手を殺し、相手の仲間と家族を殺す行動として実現していたわけです。


「そんなの「共同体感覚」じゃない!」と言いたいんですが、でも、そうじゃない共同体感覚はまだ私たちは実現できていないんですよね。


アドラー先生もドライカース先生も、共同体感覚というのは宇宙のレベルに拡大していかなければならないと、最低でも人類全体だと、おっしゃいました。


戦争を題材にした文学作品の名作には、必ずと言っていいほど「敵」も同じ人間として思いやる心情が描かれています。それこそ共同体感覚だと思いますが、当たり前じゃないからこそ文学作品になっているんだとも言えると思います。


「人を殺すなかれ」は諸宗教に共通の教えのように思いますが、問題は「人」の定義がまちまちというか場当たりというか、敵は「人」でなくせるんですよね。だから殺してもいいし、むしろ神の名の下に殺人を正当化しています。だってその人たちにとって相手は人じゃないんですから。


と、絶望的なことを書いているようですが、いったんは人類について絶望しなければ希望も生まれてこない気がします。


まずは最低限、自分の家族と仲良くしませんか、嫌いでもいいけれど、協力して暮らせるようになりませんかというのがアドラー心理学の具体的な提案であり、戦争をなくすための具体的な解決法だと真面目に信じています。


自分のパートナーや子ども、親と喧嘩をしている人が、「敵」のことを思いやって行動することができるようになるとは思えません。共同体感覚はいきなり宇宙全体、人類全体には広がらなくて、少しずつ広げていくしかないものです。


なので、アドレリアンは大真面目に、アドラー先生の時代から、政治活動ではなく、共同体感覚を育成していくこと、アドラー心理学を伝えていくこと、特に子どもたちに伝えていくことが、人類を救うんだと信じて活動しています。


そして、家族の最小単位は夫婦だと、その夫婦が育てる子どもたちが明日の社会を作っていくので、共同体感覚をもって互いに助け合いながら協力的に暮らしていく夫婦を増やしていくことにも、真面目に取り組んでいます。


「パセージ」も「パセージ・プラス」も「エオレクト」も、野田俊作顕彰財団(AIJ)や日本アドラー心理学会の各種講座も、カウンセリングも、自助グループ活動も、少しでも共同体感覚を育成し合いながら、アドラー先生を始めとする多くの先生方先輩方の希望の灯を受け継いで、いつの日にか、人類が呼吸をするように自然に共同体感覚を発揮し合って、人が人を道具にしない世界、戦争のない世界の実現を目指しているんです。


千里の道も一歩から、明日は大分市は稙田公民館でアドラー心理学の勉強会を開催します。ぜひ、アドラー心理学を一緒に学んで、その希望の灯を一緒に携えていく仲間になってもらえませんか? 


ご参加お待ちしています。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。