アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

魔法使い

こんにちは、鍵野です。
明日からかなり寒くなるらしいですね。「エピソード分析」の勉強会があって福岡に行く予定なんですが、山越えの道は久しぶりに凍結してるかな。スタッドレスにしてるとはいえ油断せず運転したいと思います。


「エピソード分析」の勉強会では、たいてい鍵野がお仲間の前でどなたかにクライエント役になってもらって「エピソード分析」によるカウンセリングをさせてもらいますす。これは学習者同士の練習なので、実際に気になっていること困っていることをお話してもらいますが、もちろん無料です(笑)。というか、勉強会ですから、参加費を支払ってカウンセリングの練習をさせてもらうんです。普段も仕事としてカウンセリングをしているわけですが、プロ野球選手だって練習しますよね、それと一緒です。大先輩も含めたお仲間からカウンセリングについてコメントをいただける貴重な機会なんです。


アドラー心理学のカウンセリングは、結局、共同体感覚の育成を目指しています。相談に来られた方がそれまでよりも少しでも共同体感覚を発揮できるように援助していきます。相談に来られた方が、次に似たような場面に遭遇した時に、カウンセリングで学んだことを活かして共同体感覚を発揮した対応ができれば、問題は解決して(そもそも問題だったことが問題ではなくなってしまうことも)、幸せになるという理屈です。それで、アドラー心理学カウンセリングは、アドラー心理学の理論に沿って行われる科学であるという面と、相談者さんとカウンセラーの個性が響き合ってその場でライブで創り上げられるアートであるという面とがあります。


なので、その場で起こっカウンセリングという現象は、無数の他の形にもなりうる可能性があった中の一つの具体化された現象であって、共同体感覚の育成を目指すといっても、山登りに例えれば、他にもいろんな登り口、取りつき方があったはずなんです。なので、私ならこう見る、私ならこうするとか、あそこはどうしてそうしたの?、とか、カウンセリングを見ていただいた方にコメントや質問をいただいて、なるほど~、とか、へぇ~、とか、訊かれてはじめて気づいたとか、本当に大きな学びになるんですね。言っている人も自分の個性を発揮できる方向としての見方であることが多いので、それをそのまま真似はできないとは思うのですが、それでもいろんな可能性があった中で、今回自分が選んだ道を意識化できるきっかけになりますし、しっかり意識化できれば、無意識的に進むよりも、その分岐点でよりよい選択ができる可能性が高まると思います。とはいえ、あんまり意識し過ぎて動きがギクシャクすると失敗することもあるから、難しいところでもありますね。

 

同じく、人のカウンセリングを見取り稽古するときも、私ならこうするの筋を持ちながら見ています。もちろん、違う人がカウンセリングをしているので、違う流れになるんですが、でも、その違いがあるから気づけて学べるんだと思います。なぜ、そう動くんだろう? ひょっとして、こういうことかな。やっぱり、そうだった。いや、違うなぁ…じゃあ、こっちかな? とかですね、ライブでミステリー劇場を観ているような(笑)、謎解きをしているような面白さがあります。でも、これ、前提としてカウンセラー役がしっかり筋を持って動けている人だよねという信頼がないと楽しめません(笑)。なので、まだカウンセラー目指して修行中の人のを見るときはまた違う眼差しで見ています。勉強するというよりは応援してる感じかな。まずは、カウンセリングが止まらず、最後まで行けること自体がとっても難しい事だと身をもって経験しているので。

 

それで、先生方(鍵野がこういう場合、ある3人の方を思い浮かべています)のカウンセリングを見取り稽古する場合は、特別気合が入ります。なにか一つでも盗んで…じゃなかった(仏教徒は盗みません(笑))、持って帰って使えるようになろうと思って、見て聞いて感じています。それは、もう椅子に座る前のところからクライエントさんに対してのコミュニケーションは始まっていますから、全部に意味があると思って観察させてもらいます。よく、凄いカウンセリングを魔法のようだということがありますが、本当、魔法使いですね、先生方は。ほんと凄い魔女、魔男(これ音だけだと違う意味だなぁ(笑))だなぁと。最初、お話の相手を裁いて責めていたはずのクライエントさんが、数十分後には相手を思いやって柔らかくなって、自らステキな考えと行動を選び取って席に戻られるんですが、それはまさに魔法のようであり、見ている人たちまで会場全体が魔法にかかったように感じます。


アドラー心理学は科学だから、魔法なんてと思われるかもしれませんが、魔法の定義しだいではありますが、本当に魔法と言えなくもない気がします。理論で言えば、仮想論のところですが、すべては仮想だと。人は主観の世界で、自らが主体的に選び取って意味づけた世界で生きているとアドラー心理学では考えます。それは、仮想なんですが、その人の現実です。本当の世界がその奥にあるということではなく、その仮想がその人の世界であってそこを生きるしかないんだと考えます。で、仮想は仮想なので、その人が決断すれば変えられます。だから、その決断をお手伝いするカウンセリングが成立するんです。で、そのカウンセリングの中でも上手な凄いカウンセリングを魔法と言ってもいいんじゃないかと。相談に来られた方を不幸せにする仮想を幸せにする仮想に変える魔法ですね。「操作」っていうより「魔法」の方がねぇ、いいじゃないですか、やっぱり。


それに、私たちは小さい頃から、現代競争社会という大魔法使いの手先となった親や教師、本や雑誌、テレビやゲーム、インターネットの様々なコンテンツを通して「他人を蹴落として生き残れ、さもなくば滅びよ」っていう邪悪な魔法にかけられっぱなしとも言えます。そんなディメンターたちを追っ払うべく、アドラー心理学のカウンセラーは対抗魔法(エクスペクトパトローナム!(笑))を使っているわけです。


そういえば、クルト・アドラーの娘、つまりアドラー先生の孫娘、もうお亡くなりになっていますがマーゴ・アドラーは本物の魔女だったそうです。ジャーナリストであり作家だったマーゴ・アドラーは、ネオ・ペイガンでありウィッカの司祭(魔女)であり、ユニテリアン普遍主義の信奉者であったということです。いわゆる異教徒ですね、キリスト教社会での。そのマーゴが自分の書いた記事で、紹介しているエピソードなんですが、5歳の時、父親(クルト・アドラー)に「私たちの宗教は何?」って聞いたんですって、そしたら、クルト・アドラーは「私たちは人間のきょうだい愛を信じているんだよ」って答えたんだそうです。それでピンと来なくて、親友は白いドレスを着て聖餐を受けていたし、その方がずっといいと思ったんだと。それで、父親に聖書を読んで欲しいとせがんだそうです。カトリックになりたかったんだと(余談ですが、その記事の中で彼女はフロイトの言葉を紹介しているんです、おじいちゃんのじゃなく(笑)。"Sometimes a cigar is only a cigar?" っていうやつです。聖的(性的でなく(笑))なことも大事だけど同時に地に足のついた感じも大事だと書いているところ引き合いに出していました。しかし、アドラー先生が読んでなくてよかった(笑))。

 

前にも書きましたが、クルト・アドラーは父親のアドラー先生も含めて無神論者だと言ってたんですが…娘は魔女になったんですね、すごい(笑)。ちなみに、彼女には息子がいまして、今、30代でコンピューターエンジニアをしているらしいです。アドラー先生の血統は絶えていなかった、よかった。


そういうわけで、鍵野も魔法使いの端くれとして、少しでも闇の魔術に対抗する技を磨くべく、福岡に修行に行ってまいります。今度のカウンセリングは杖も使おうかな、アマゾンで売ってそう(笑)。

 

読んでいただきありがとうございます。
みなさま今日もどうぞよい一日をお過ごしください。

生きとし生けるものが幸せでありますように。