こんにちは、鍵野です。
10月に入りましたね。ずいぶん涼しくなって秋の訪れを感じます。読書の秋ということでもないのですが、ずっと積読のままだった本を読んでいます。初期仏教の聖典がどう定まっていったのかを研究した本(仏教学業界内のパワハラ問題でも話題になった本)『上座部仏教における聖典論の研究』清水俊史著と、かつて定期購読してあまり読まずにいた米国のアドラー心理学ジャーナルです。
『上座部仏教における聖典論の研究』は読み終わったのですが、仏教を考える上でとてもためになる本でした。初期仏教(上座部)とそれ以外の仏教の「聖典」に対する認識の違いがよくわかりました。大乗仏教や説一切有部では、お釈迦様の教えは既に一部しか残っておらず失われているという前提からスタートしていて、なので、後に聖者が現れて新たな仏説(失われた教え)を追加することができる構造になっていると。聖典の外縁が閉じられていないので、これこそ仏説だという形で、後から後から宗祖が登場することができるわけですね(なんだか作者が亡くなったのにプロダクションからどんどん新作とかスピンオフとかが出てくるアニメのような…)。
ところが、初期仏教(上座部)だけは、お釈迦様の教えはそっくりそのまま残っているという前提なんです。最初は口伝のみでしたが、仏教弾圧の経験から、文字(パーリー)としても残されるようになり、ブッダゴーサの時代に聖典としての三蔵十五書が確定して、そこから一言一句加えることも削ることも許されないものとして伝承されてきているということです(厳密にはスリランカとミャンマーやタイのものとに若干の差異があるそうですが)。二千五百年前のお釈迦様の言葉がそのまま残っている、残してきたお坊様方の文字通り命懸けの努力に感動します。そのおかげで、今日現代に暮らす我々もお釈迦様の教えを学ぶことができるんですものね。本当に有難いことです。鍵野は、スマナサーラ先生を通して初期仏教を知ったのですが、これまで学んできてその教えに一つも矛盾が見つからないし、実践すればするほど確実に苦を離れていく実感があるので、これが本物だと確信しています。
それで、アドラー心理学の方、米国のジャーナル"THE JOURNAL OF INDIVIDUAL PSYCHOLOGY"の方ですが、これも読んでいて面白いです。ジャーナルには編集方針があるので、当然偏りはあるはずですが、それでも、仏教とは違って、アドラー先生の言った通りやった通りやればそれでいいという世界ではなく(笑)、現役で研究開発している人が世界中にいるわけなので、いろんな考え方が登場してきて面白いんですね。特に興味深かったのが、以前にも少し紹介したと思いますが、2019年の秋号(Vol.75 N.3)のErik Mansager & Jane Griffithの論文で、人の一番のモチベーションは「所属」であるというのは、ドライカース派の論であって、アドラーは最初から最後まで、マイナスを感じる状況からプラスの状況へと向かうことが人の一番のモチベーションだという立場を崩さなかったんだ、文献を調べればそれは明らかなんだから、その違いを否定するのではなく、ドライカース派とアドラーオリジナルとの違いを認めた方が建設的ではないかというものです。
日本のアドラー心理学は、ドライカース先生の弟子のシャルマン先生の弟子である野田先生から始まっているわけで、ということはドライカース派のアドラー心理学ではあるわけですから、この論争(Erik Mansagerは決着済みの立場ですが)は他人事ではなくて、たしかに野田先生からも他の先生方からも「人は所属を求めている」と教わってきました。でも、ですね、たしかにErik Mansagerの主張するように、文献を当たってみると、アドラー先生自身は人は所属を求めて行動しているんだとは言ってません。繰り返し繰り返し、マイナスからプラスへという、劣等感とその補償の話をされています。ただし、"he must get to feel at home on this earth"「人はこの地球上で自分の家にいるようにくつろいでいられる必要がある」と1928年にウィーンでのインタビューに答えた発言が残っていて、これなんかは人は所属を求めてると言えるような気がします。
ドライカースの娘、エヴァ・ドライカースは「デモクラティックな家庭で育てば人は劣等感を感じないで済む」というようなことを言っていて、劣等感からではなく、所属を求めることが一番のモチベーションの元だという主張を支える発言のようですが、アドラー先生は「劣等感があるということは人間だということだ」ということを言っていて、まずは劣等感とその克服こそが一番のモチベーションだという主張は揺らがない気がします。
学者さん同士の論争は、それが楽しみでもあるでしょうから(笑)、それはそれで放っておけばいいんですが、困るのは、アドラー心理学を人に伝える、教えるときですね。
野田先生に基礎講座理論編を教わったとき、目的論の解説が終わって、そこで質問したんですね、「人の行動の究極の目的は所属にあるというのも目的論に含まれるということでいいんでしょうか?」というような質問をしました。野田先生は「そうです」と答えられました。ただ、ちょっと微妙な間があって、何か表情も冴えないというか…、勝手なゲッシングですが、何か引っかかりのようなものがあったのではないかなと。聞いていて何か理論的にスッキリしなかったんですよね。たぶん思想の方だったのではないかなと。共同体感覚の芽として、人は所属に向かっているという話だったら納得したかもなのですが。偉大な師の言葉に対してなんですが(笑)。それで、ひょっとしたらですが、野田先生も当然Erik Mansagerとエヴァ・ドライカースとの論争についてはご存じだったはずで、アドラーの理論として「人は所属を求めてる」と明言するのに少し躊躇されたのではないかと思ったりもしています。ドライカースがそう言ったのは間違いないのですが、基礎講座理論編は学会の論争の話をする場所でもないし、定説を伝える場であるので、いろんな思いがあったのではないかなと想像しています。
カレン・ホーナイという新フロイト派とされている人が、人は所属を求めていると主張したらしいのですが、シャルマン先生の話として、講義中のドライカース先生が、黒板の左端にアドラーと書いて、右端にホーナイと書いて、真ん中に大きなマークを書いて、ここが自分の(ドライカース)のポジションだと示したという逸話もあるので、ドライカース先生ご自身はアドラー先生との違いを十分意識されていたのではないかなとも。
いろんな力関係の中で、アドラー先生の説と全く同じという立場で動いた方がいいんだという考えもあるような気もしますし、初めてアドラー心理学を学ぶ人に、ドライカース派について解説するのも骨が折れるというか、あまり意味がないかもしれないんですが、でも、嘘は言わない仏教徒でもある鍵野としては、「人は所属を求めている」をどう伝えるかはいつも気になるところではあります。
現時点での鍵野の考えは、ライフスタイル論(人格理論)のところで、人は所属を求めている話をするのがいいと思っています。そして、それはドライカース先生がはっきり言ったことで、アドラー先生ははっきりそうは言っていなかったけど、くつろげる状態が理想状態で、それができないから劣等感を感じるという意味に取れることはアドラー先生も言っているので、やっぱり所属を求めている、所属のために、優越目標を設定するという意味では同じことではないかなという説明をしたいと思っています。
自分にとって困った人がいる場面の当事者としては、その人も「所属を求めている」と見れた方が解決に向かいやすいですしね。その人自身は優越目標達成をめがけてがんばっているんですが、その真の目的は「所属」であると。
この辺り、アドラーおたくの方たちといろいろディスカッションしてみたいネタです(笑)。
読んでいただきありがとうございます。
みなさま今日もどうぞよい一日をお過ごしください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。