アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

アドラー心理学の文脈で仏教を使えるか?

こんにちは、鍵野です。
ここのところ麺類が主食化していたのですが、涼しくなってきたし、玄米に戻そうかなぁと、久しぶりに玄米を炊きました。母がご近所さんからいただいたというもち麦を持ってきてくれたので初めて混ぜてみましたが、玄米だけよりも全体的にふっくらした感じになりますね。わざわざ買ってまでとは思いませんが、ストックがあるうちは使っていこうと思います。他に黒米ももらったので、これも試してみます。どんな感じになるのか楽しみです。


玄米は腹持ちがいいというかそもそも栄養価が高いせいか、あるいはしっかり噛んで噛んで食べる瞑想をしながらの食事だからか、夕方になってもあまりお腹が空きません。それで、一日一食でも大丈夫な感じでしばらく暮らしたことがありますが、体重が落ちて母を心配させるのと、そのときに献血を断られたりしたこともあって、どうしようかなと思っています。お釈迦様の教えによれば、修行のためには午前中までに食事は終えて後は食べないのがいいんですよね(在家の人に対してそんなことはおっしゃてはいないでしょうけども)。仏道は欲から離れる世界なのでですね。食欲の秋!ではなくて仏道の秋にしないとですね(笑)。


積読解消ということで、米国のアドラー心理学ジャーナル"JOURNAL OF INDIVIDUAL PSYCHOLOGY"を読んでるんですが、いよいよストックしていた最後の一冊に差し掛かって、大変興味深い記事に出会いました。"A Buddhist Context for Mindfulness"「マインドフルネスの仏教徒的文脈」という記事です。著者は心理学者でアドラー心理学のセラピストですが、仏教についてはトレーニングは受けていなくて独学で実践しているということが書いてありました。この号のトップで紹介されているので重要性が高い記事ではあったのだろうと思います。


この記事が書かれた背景として、米国でのアドラー心理学セラピーにマインドフルネスが取り入れられている状況があるようです。記事では、お釈迦様の悟りからの初転法輪の紹介があり、そこで四聖諦と八正道が説かれたこと、その八正道の中の正念と正定がマインドフルネスとして抜き出されてアドラー心理学セラピーに取り入れらているが、マインドフルネスは八正道の他の六つとも密接な繋がりがあるので、そこも考えていった方がいいよね、という主張と理解しました。


貴重な記事だと思いますし大変興味深く読んだのですが、著者と同じくアドラー心理学仏道の実践をしている鍵野ですが、仏道についても独学ではなくトレーニングもしっかり受けているということもあり、著者とは違う意見を持っています。


鍵野はカウンセリングでマインドフルネスの紹介をしたことはありません。そもそも「マインドフルネス」という言葉は使いたくはないんですね。アドラー心理学の目的論と社会統合論だけを抜き出して教えたらそれはもうアドラー心理学ではなくなってしまうように、仏教の文脈を離れて一部分を抜き出して教えたらそれはもう仏教ではなくなってしまいます。そういう意味では、八正道のうち二つだけではいかがなものかと主張されているように見える著者に賛成なのかもしれません。


一方、野田先生もおっしゃってましたが、理論の折衷はいけないけれど、方法の折衷は構わないと。実際、アドラー心理学の子育て教育プログラム「パセージ」で使わている様々な技法も決してアドラー心理学オリジナルというわけではなくて、いろんなところで使われていたものをアドラー心理学の文脈で使っているんですよね。具体的な方法としてのアドラー先生以来のアドラー心理学オリジナルと言えるのは、早期回想解釈によるライフスタイル分析ぐらいじゃないのかと思います。


そういう意味では、仏教の正念と正定をアドラー心理学で使ってもいいよねということになるのかもしれませんが、著者の主張通り、苦集滅道の四聖諦があって、その苦を脱する道としての八正道があり、その八正道のそれぞれは車輪のスポークのように関連し合っていて、そこから取り出せる形ではお釈迦さまは教えてはいないんですよね。


そこを「マインドフルネス」として取り出してしまうことは、仏道を冒涜している感じがあって、鍵野は賛成できません。あれは単なる方法ではないんです。お釈迦様の教えはすべて解脱を目指して語られています。なので解脱の方向に向かいたいという実践者の請願があって初めて始まるのが八正道なわけで、それなしに形だけ真似したところでお釈迦様の教えられた正念にも正定にもなるはずもありません。


アドラー心理学は、解脱を目指していません。この現生に、この世の中に平和で幸せな社会を築こうという世俗的なムーブメントです。仏教は、世俗から離れる道です。智慧を開発して真理を知り苦を乗り越えるための道です。


なので、アドラー心理学の文脈で仏教は使えません。解脱を目指さない瞑想というのは仏教徒の文脈ではあり得ないんですね。共同体感覚と仏教の慈悲とは通底しているところがあるとは感じますが、同じではありません。


逆に仏教の実践のためにはアドラー心理学は使えます。貪瞋痴に塗り込められた妄想の世界から距離を取って安穏に暮らすために、アドラー心理学は具体的かつ効果的な考え方であり実践方法だと思っています。実際それが鍵野がやっていることです。


ということで、この記事のおかげでアドラー心理学と仏教についてあらためて考えることができました。よかった!


そうだ! 一つだけアドラー心理学を伝える立場でありながら、仏教の瞑想をお勧めするかもしれない場面がありそうなのに気づきました。それは、アドラー心理学を学ぶ人が、それを自分で使うだけではなくて、人に伝えることを目指した時、具体的にはカウンセラーになろうと思って、トレーニングを始めて、十分にトレーニングを積んで、それでも、うまくいかなくて、壁にぶち当たったようなとき、自分の成功への関心に絡めとられて身動きが取れないような状況になっていたとしたら、もしその人に特定の宗教的なあるいはスピリチュアルなバックボーンがないのであれば、それを乗り越える道としての仏道を紹介することがあるかもしれません。かく言う鍵野もそこで悩んで、そのおかげでスマナサーラ先生に、お釈迦様の教えに出会えて、ヴィパッサナー(瞑想)実践をするようになり、なんとかかんとかカウンセラーになれたので。


仏教の方がずっと広く深いので(まだまだ修行の最中ではありますがそれは実感しています)、アドラー心理学なんてなくても仏道さえ実践すればみんな救われるはずですが、現代の競争社会の圧力でみなさんもの凄い劣等感に苦しめられて落ち着いて仏道修行に励むゆとりもないでしょうから、それならせめてでも、少しでもこの状況を緩和するためにでも、まだしも興味を持ってもらえそうなアドラー心理学をお勧めしてお伝えしていきたいと思っています。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい週末をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。