アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

仏教から見たアドラー心理学

こんばんは、鍵野です。
広島にも行ったのでお土産に広島菜を買ってきたんですが、母と伯母には不評でした。固いんですね、野沢菜なんかに比べると。それで引き取って、自分でいただこうと、ラーメンと一緒に食べたり、豆腐に乗っけたりしていただいてるんですが、この商品が特にそうなのかもですが固くてイマイチな感じです。小さく刻んだ方がいいのかな。炒めると美味しくなるだろうか? などどいろいろ考えてます。


結局、ライフスタイルということになるんですが、こういうチャレンジは嫌いじゃないです。アドラー心理学界隈でも、人間関係重視と課題解決重視とそれぞれを軸にして、人をタイプ分けというわけじゃないけれどマッピングするようなことが流行った時期があったようですが、鍵野の場合はやっぱり断然課題解決型ですね。タイプ分けは、アドラー心理学のひとり一人はユニークな存在であるという考え方に反するんですが、まぁ分けられるっちゃぁ分けられるし面白いからやっちゃいますよね、ときどき(笑)。


なんか障害物が降ってきたけれど、まぁ気にせずその場が丸く収まればよしという方向には行けないんですよね。なんとかしてやろう!と勝手に燃えてしまうタイプ。そのせいでこれまでいろんな人に迷惑をかけてきました。どうかすると人の障害物までなんとかしようとして、お節介も甚だしいですよね。なので人間関係をごくごく狭い範囲に絞っておかないと危ない(笑)。お節介な分、自分で言うのもなんですが、その狭い範囲に入っている人には、頼りにはなる存在になれているのではないかなぁと自惚れています(笑)。それに、アドラー心理学のおかげで、お節介はかなり収まったと思うし(被害者にインタビューしないとわからんけど(笑))。


母から降ってきた課題ですが、広島菜くらいはいいかなと、まだたっぷりあるので、楽しんで食べ方を工夫してみたいと思います。これだ!というのがみつかったら、あとはワンパターンでもそこはむしろそれをよしとするタイプなので(またタイプ(笑))、それで押し通します。とりあえず豚肉と炒めてみるというのに期待しています。


今日は仏教(お釈迦様の)から見たアドラー心理学について考えてみたいと思います。前にもそんな記事を書いていますが、いろいろお金をいただくカウンセリングもやってきて、全部とは言いませんが、それなりにお役に立てたようでもあり、そんな経験を踏まえての、仏道修行もより真剣に精進しようと思っている今、もう少し考えてみようかなと。


仏教では、ヴィパッサナー実践を続けて、認識能力を高めていって、ようやくありのままの現実を経験できるようになる(それはもう完成ということかもですが)のであって、それまでは、それぞれの貪瞋痴のフィルターを通した経験しかできなくて、妄想の世界を暮らしている(こうやって書いている今もそうですね)んだという理解だと思っています。


アドラー心理学では、人は一人ひとり違った意味づけの世界を暮らしていると考えます。そういう意味では、それを妄想と言ってもいいかもしれないんですが、仏教と違って、修行の結果、妄想でないありのままの現実を経験できるとは考えていなくて、どこまで行ってもそれぞれの人のそれぞれの意味づけの世界を暮らすしかないんだと考えます。


これ、さらっと教わってなんとなくわかった気になって通り抜けるところな気がしますが、よーく考えるととっても恐ろしい、ニヒリズムの世界にぱっくり口を開けて飲み込まれてしまうような、何を信じたらいいのやら途方に暮れるような、地面が崩れ落ちるような、怖いことを言っています。


人と人とは理解し合えっこない(だからこそ努力しましょうということなんですが)し、正しいことなんてどこにもない、ってことを言ってます。


で、このままだったら、発狂してしまってもおかしくない教えかもですが、共同体感覚という、わかったようなわからないような思想があるおかげで、アドラー心理学は、踏みとどまっているんですね、こっち(どっち?)の世界に。


共同体感覚については、くわしくは別の記事を読んでいただくとして、もともと人は価値として平等なんだという感覚ってことにしておきます、今回は。


仏教では、妄想じゃない世界がある、涅槃という、お釈迦さまやお釈迦さまに続く多くのお弟子さんたちの経験された境地がある、という立場ですから、我々の暮らしている妄想世界にはそこがどんなに素晴らしいと言い張ろうが、価値は入れませんよね、本来。


アドラー心理学は、一人ひとりの意味づけの世界に、共同体感覚という思想でもって、優劣をつけます。仏教からみれば、妄想に過ぎない世界なんですが、いい妄想とよくない妄想があると言っているようなものです。


なので、鍵野がカウンセリングでやっていることも、相談に来られた方の共同体感覚からみてあまりよろしくないかもなぁという妄想を、少しはましな、周りの人と協力してやっていける妄想に変えるお手伝いをしているだけのことになりますね。


仏教徒なので嘘はいけないんですが、嘘をついているわけじゃないよというか、もともと妄想なんだからいいじゃないのと開き直って、真剣真面目に妄想を入れ替えるお手伝いやっています(笑)。


でも、仏教にもよい妄想はあるんじゃないかなぁとも思っています。みんながみんな解脱するまで苦しみ続ける(まぁそうなんですが)んじゃかなわんというか、あんまりだということで、お釈迦さまも「慈悲の瞑想」ということを教えてくださっています。修行はまだままならなくても、生きとし生けるものの幸せを、慈悲の気持ちで願うとき、苦しみは和らぐし心も少しは清らかになっているという。


この慈悲と共同体感覚は、なんかかなり近い気がしています。仏教もアドラー心理学もどちらも真剣真面目に実践しているつもりの鍵野の感覚では、ほとんど一緒です。人間だけじゃなくて生きとし生けるもの含めた共同体感覚と慈悲とは。


なので、アドラー心理学が共同体感覚で暮らしましょうと提案する(「共同体感覚」を言葉で言ってしまうのに抵抗がある人たちとそうでない人たちとあるようですが…鍵野は抵抗がある人たちの方です。こんなに書いてるのに(笑))のと、仏教で「慈悲の瞑想」をしましょうというのは、この生きづらい世の中を少しでも明るく暮らしていく方法として、同じだなぁと思っています。その先があるのが仏教で、アドラー心理学はあくまでもそこにとどまる(来世のないユダヤ教の影響かも)という違いはあるんですが…


ということで(どういうことで?)、仏教を修行されているみなさんにもアドラー心理学はおすすめします。もちろん「慈悲の瞑想」は素晴らしいのですが、修行完成までの苦しい人間関係をハッピーなものに具体的にする方法を持っているアドラー心理学を学べば、ヴィパッサナー実践も今よりスムーズに進めることができるのではないかなと。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。