アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

アドラー心理学から見た仏教(お釈迦様の)と宗教

こんばんは、鍵野です。
次の車検で20万キロ越えを目指して乗り続けてきたミラなんですが、いくつかのケミカルを試してみても、オイル粘度を15w-50に上げてみてもオイル喰いが止まらず、大きな出費は痛いけど減価償却費で利益が減れば税金も下がるし、これは欲しい!じゃなくて必要なことだし、と、カーセンサー等の検索に力を入れていたんですが…


待てよ…、オイルは減ってはいるけれど、粘度を上げてからエンジンの調子はいいし、長年乗ってきて手足のように動いてくれるし…、オイルが減ってもその都度継ぎ足せばいいんではないかと。新しく車(中古車ですがもちろん(笑))を買った場合とオイル継ぎ足しで乗り続けた場合のコストを考えたら、そりゃぁ現状の方が圧倒的に安い。他もガタガタ壊れてくるのではという心配も杞憂に終わった感じもあるので(いろんなところにテストドライブと称して出かけてきて納得済)、やっぱりこのまま行けるところまで行こうと思っています。オイルを燃やして走っているわけで(目立つほどの煙は出なくなってます)、環境負荷を考えればよくない点もありますが、古い車を処分する環境負荷もあるわけで、どっちもどっちだろうと。


もう一点、買い替えを推す声もあって(自分ですが(笑))、軽はリアバンパーに左右のフレームをつなぐ部品が入っていないので、後ろからの車対車事故で後部座席が普通車に比べてかなり心配なんで(オフセットでぶつかると左か右どちらかだけのフレームで受け止めることになる)、次は普通車にしようと決めているんですが、今は週一回程度、助手席に母が乗るくらいなので、後ろに人を乗せないことにすればいいかなと。


買い替えるなら、スイフトデミオの1.2Lのマニュアル車に絞りつつあったんですが(楽しいですよね、どれにしようかって)、まだまだ中古車相場も高いようだし、来年か再来年あたりにもう一声安くなっているといいなぁと思いながら、少なくとも今年度は買い替えなしで行くことにしました。


それで、今日は前回と逆で、アドラー心理学から見た仏教(お釈迦様の)と宗教というテーマで考えてみたいと思います。


あえて仏教(お釈迦様の)と宗教と書いているのはもちろん意味があって、お釈迦様の教えという意味での仏教は世間の言う普通の意味の宗教ではないからです。どういうことかというと、お釈迦様は「信じなさい」とはおっしゃらないんです。逆におかしいと思ったら「反論してみなさい」と、で、納得できたら、自分で「試してみなさい」とおっしゃって、その試してみる方法、実験方法を教えてくださっているだけなんですよね。


もちろん、まったく信じられない人の話を納得てみようとも思えないし試してみようとは思えないので、そういう意味の「信」はあるわけですが、これは仏教に限らずなんでも学ぶときに当然必要なことですよね。アドラー心理学にしたって、野田先生を信じることができたので、学ぶことができたわけです。でも、それは野田先生がおっしゃることすべてが正しいと初めから盲信することとは全然違います。話に矛盾がないし、どうやら本当らしい、じゃぁ試してみようかということで、試しているうちにカウンセラーになれたのでした(笑)。


そういう意味で、お釈迦様もいろいろ超人的なエピソードはたくさんあるようですが、そういうことがあるからではなくて、師匠として信頼できるから、納得して、本当かどうか自分で試してみる気になれたということであって、いわゆる宗教の信者さんとは全然違うなぁと思っています。


だいたい宗教には「信じないとひどい目に遭う(遭わす)」という脅しが入っているんじゃないでしょうか。疑うこと自体を禁止させるような仕掛けを入れてあるような気がします。その点、仏教は(とくに大乗仏教ではなくお釈迦様の仏教では)、盲信しないで自分で検証して納得していく教えなので、そういう脅し文句は全然ありません。去る者は追わずで、教えに納得できなくて去っていく人を追いかけるような話は聞いたことがありません。生き物の自由を奪うことはしないのがお釈迦様の教えですから。


それでもあえて「宗教」も入れたのは、そうしないとマイナーもマイナー、超マイナーな話になってしまうし、そもそも欧州で生まれたアドラー心理学の話ですから、キリスト教ユダヤ教など、宗教の話を抜きには語れないですし。


アドラー先生は宗教の話は1920年代まで慎重に避けてこられたようでした。アドラー先生もお弟子さんたちもユダヤ人が大多数だったようですし、ユダヤ人と言えばユダヤ教という感じで重ね合わせて見られたら圧倒的マジョリティのキリスト教徒のみなさんに学んでもらえないという恐れも考えていたのかなと、実際、アドラー先生はキリスト教に改宗しています。息子のクルト・アドラーは、その改宗について、そこに何か宗教的な意味はなくて、便宜的な、その方が生きていくのに都合がいいからだというようなことを言っていたと思います。もちろん、キリスト教の話にしてしまっても、他の宗教を信仰される方がアドラー心理学を学べなくなってしまうので、その辺りは避けたのではないかなと。


ところが、1930年代になると、共同体感覚の話の延長でですが、宗教的な話を熱く語り始めます。この世に理想の王国を建設する使徒ででもあるかのような、口ぶりにとられかねない真剣さが読み取れます。息子のクルト・アドラーは、自分もアドラー無宗教だと言っていたと思いますが、1930年代に書かれたものを読むと、来世のないユダヤ教的な、この世に貢献して何かを残していくみたいな、そんな匂いを感じても不思議はないものがあります。詳しくは写真の1930年代の論文集である"Superiority and Social Interest"を読んでみてください。1910年代、1920年代とはうってかわった論調に驚かれるかもしれません。


「共同体感覚」の話が、思想がなければ、宗教は関係なくて済んだんだと思うのですが、この「共同体感覚」を真面目に実践しようとしたら、1920年代までの話で済まなくなったんだと思うんですね。


どういうことかと言うと、自分のことだけでなく、相手のことも考えて、両方の利益になる方向に動きましょうというレベルであれば、宗教なしで、そっちの方が長い目で見て結局自分の得になるよねというような損得勘定の延長で片が付けられなくもなくて、それを「共同体感覚」と呼んでよければ、無宗教でも拝金主義でもなんでも来い(笑)のアドラー心理学だったと思うんですが、第一次大戦を軍医として経験して、その後もナチスから逃れるように米国に移って、奥さん(トロツキーの友達だった)も息子や娘たちもギリギリで渡米できて、愛する長女はスターリンの粛清の犠牲になっているのではないかと心配していた(実際、アドラー先生の死後だったと思いますが、娘さんが夫と一緒にラーゲリで亡くなっていたとわかったそうです)アドラー先生にとって、「共同体感覚」はそんなレベルのものじゃなかったのではないかなと、それが、1930年代の論文集に表れているのではないかと。


あの地獄のような大戦が再び欧州を世界を覆おうとしているとき、やむにやまれぬ思いで、アドラー心理学の大衆受けとか気にしている場合ではないと書かれたのではないかなと。


単なる利害の一致を超えて、自分の幸せと相手の幸せ、周りの人の幸せが一致する方向を本気で探そうよ、その力はあるよ、人類にはと、人と人は違うけど価値は等しい、平等なんだと、こういうレベルで訴えかけてくる「共同体感覚」について、分析とかそういうのじゃなくて、それぞれの人の「宗教」のレベルで、「信仰」のレベルで「個人」を超えたレベルでがっちり受け止めて実践的に動いていくしかないのが、アドラー先生が伝えたかった残したかったアドラー心理学の「共同体感覚」なのではないかと思うんですよね。


そういう意味で、アドラー心理学から見た「宗教」は、共同体感覚の実践で欠かすことのできない個人が個人だけの視点を乗り越えるときに必要な前提としてあるのではないかなと理解しています。


それで、鍵野はさきほども書いたようにお釈迦様の教えを実践する仏弟子です。「宗教」ではない仏教の弟子である鍵野は、「共同体感覚」実践の前提として、「信仰」ではないとしたら何があるのかと言えば、「慈悲」の教えだと思います。どんな生き物も生きていきたいんだから、それを邪魔する権利は誰にもない、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と本気で願うところに「共同体感覚」実践の前提があるんだと思っています。そして、仏教は「無我」の教えですから(まだまだ自分に囚われていますが(笑))、究極的には自他の対立がない(成り立たない)世界があるんだと思って精進しています。でも、これは野田先生のおっしゃっていた絶対的全体論とは激しく違う考えです。自他が一緒(梵我一如とか不二不一とか)といっているわけでななくて、無我だから目標追及が成り立たない世界を言っています。無我を覚れても、お腹も空くし、病気になったら苦しむでしょうけれど、でも目標追及はないので精神的な悩みのない世界、そんな世界は実現できるはずです。一つ一つの心がそれぞれに実現していくしかない世界ではあると思いますが。


読んでいただきありがとうございます。

生きとし生けるものが幸せでありますように。


みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。