アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

お盆ですね

こんにちは、鍵野です。
お盆ですね。昨日、妹と甥っ子を大分空港まで、大部分、息子に運転してもらって車で送っていったのですが、帰りに普段はめったに経験しない渋滞に遭いました。たくさんの方が大分に帰省されているんでしょうね。


地方から都会への人の流れは、戦後日本の一貫した方向性だったと思いますが、少子化でそもそも地方の子どもたちも減っているし、インターネットで取れる情報は都会も地方も同じですし、買い物も外食も、東京でも大分でも、どこにでもあるお店が主流ですし、地方は地方、都会は都会でそれぞれでぐるぐる回っていく時代になっていくような気もします。


とはいえ、地方の中でも、都会と田舎はあるわけで、鍵野の暮らす、コンビニもない本物の田舎(笑)では、空き家が目立ってきているし、現役世代の多くは、地方の中の都会で暮らす人が主流になっているようです。


まぁ、当たり前と言えば当たり前ですよね。そもそも職がなければ暮らせないですし、職は人の多いところに多く発生するわけで、公務員を除けば、田舎の中の田舎で暮らしていくのは一人でも難しいでしょうし、子育てしていくのは(公的支援なしでは)それは困難なことだと思います。


コンパクトシティということで、一定程度以上の人の集積を前提にインフラの維持コストをシェアして一人当たりの負担を下げていきながら、どうにか暮らしていくようになるのかなとも思います。


田舎の中の田舎の、橋や道路や水道に電気を未来永劫メンテし続けるというのは、ちょっと無理そうですもんね。ロボタクシーというのが中国では実際走っていて実績もあるそうですが、道路工事などのインフラ整備も全部ロボットがやってくれる時代になれば別かもしれませんが、人手でやって、日本全国津々浦々を維持管理し続けるのには、もう限界が来ている気がします。もちろん、それこそビジネスチャンス!と、AIやロボット、ドローンに国を挙げて投資すれば、世界に貢献できる一つの先進モデルは示せるかもしれませんが、今だに緊縮財政で、大胆な財政出動を悪であるとみなしているような国には、そんなことは期待できそうにありません。なにせ、南海トラフで防災、減災が必要だという今、このときに、財政余力が大事だなんて、とんちんかんなことを言ってるんですから。災害に備えてお金を使って防災グッズなり備蓄食料なりを買わなきゃいけないときに、貯金しておく方が大事と言っているわけですから。笑うしかありません(そういう人たちを国の代表に選んだのも私たちだし、そういう財政政策を立案する人が卒業するような東京大学がいい大学だと信じて、崇め祀ってきたのも私たちであって、自分で自分を笑うしかないという意味でですが)。


そもそもお金は、将来のある時点における、この国の人が生産したものことの供給を受けるための予約券でしかないわけで、日本国の生産力、供給力がその予約券の発行残高をこなせる限り、いくらでも発行してしまえばいいわけのもので、それを「国の借金」というミスリードで減らしていこうとするのは、馬鹿げています。国の政策で、民間の需要を絞ってしまう(お金がないから買いたいけど買えない)ことで、いろんな会社やお店が潰れてしまってて、民間の供給力を維持することができなくなって、その結果、自分で自分の予言を達成するかのように、本当に日本の供給力が細っていって、買いたくても買えない未来、ハイパーインフレの時代が来てしまうとしたら、やりきれませんよね。


と言いつつ、本当に貧しくなったら、本当に大事なもの大事なことがわかるんだろうから、それはそれでいい面もあるよなぁと、互いに助け合いながらなんとか暮らしていっている、経済的には貧しい国の人たちの動画を見ながら思ったりするのでした。それでも、食べるものがなくてひもじいという事態はなんとか避けたいですね。お米も輸入した石油で動かすコンバインのおかげで生産していることを考えると、日本の実質的な食料自給率は0%なんではないかと思っています。ということは、外国の人に何かを売ってその対価で石油なり食料なりを買い続ける暮らしが必要で、何を売り続けるんでしょうかね? 日本の江戸時代の人口のピークが3千万人で、それくらいなら輸入に頼らなくても自給自足をしてきた実績はあるということは、いつかそのレベルまで人口が減ったら何とかなるかも…。少子高齢化にも希望がありますね(笑)。


それで、そういういろいろな時代の変化、環境変化はありながらも、人間の問題はすべてが社会的問題というのがアドラー心理学の捉え方で、社会的問題というのは、人間関係の問題という意味です。衣食住、最低限生きていくのに必要なことが満たされさえすれば、後は全部人間関係の問題だと。もっといい服が着たい!というのも、もっといいものが食べたい!というのも、もっといい家に住みたい!というのも、それは人間関係が満たされていないことの現れなんですね。


アドラー心理学の用語で言うと、いい服が着たいのも、いいものが食べたいのも、いい家に住みたいのも、全部その人に劣等感があるからだと言っちゃえます。


「こんな服じゃ恥ずかしくて表を歩けないわ」、「こんなブタの餌みたいな飯が食えるか!」、「こんな家じゃ恥ずかしくて人を呼べないよ」とか、全部その人の価値観がよくないと感じた(それを劣等感と言います)からこその業であって、価値観というのはその人のライフスタイルのコアで、それは小さいころのその人の社会、人間関係の中で作り上げられたフィクションに過ぎないものなんですが、でも、一旦できてしまえばそれはその人にとっての唯一の現実でリアルな感覚を伴った、生きるために何がよいかよくないかを仕分けていく指針としてその人の人生を縛っていきます。


それで、劣等感が強い人(=目標がとっても高い人)は、それを補償する、満たそうとするための衣食住へのこだわりがそれだけきついものになるので、暮らしていくのがしんどくなっていきます。


ライフスタイルは人生目標でもあるので、原理的に、どれだけがんばってどれだけ獲得しても満たされっこありません(満たされたら目標追及の人生が終わってしまう(笑))。だからですよね、どんなに成功して大金を得たとしても、これでもかこれでもかと稼ぎ続ける人がたくさんいますものね。


現代物質文明もこのライフスタイルに支えられていると言えますね。ライフスタイルから距離を取れれば、衣食住に関してもこだわりが弱くなって楽に暮らしていけるはずですが、それだと、ものもサービスも必要以上には売れなくなるので、いろんな会社が困るかもしれない。大企業があんな大金を広告に投じるのも、本当はいらないものを売らないとやっていけないからですよね。広告を使って、見ている人聞いている人の劣等感を刺激することができれば、ものもサービスも売れますから。


だからアドラー心理学が広まらないのは当たり前なんですね。だって、アドラー心理学が人類の一般教養、一般的なスキルになってしまったら、ライフスタイルへのこだわりが減って、ものもサービスも売れなくなりますから。だとすると「嫌われる勇気」があんなに売れ続けているのは凄いですね。バランサーとして必要だったのかな? たまにはガス抜きもないと現代物質文明もやってられないという(笑)。といいながらも、まぁ、本当に売れて欲しい、野田俊作先生の本はそんなに売れてなさそうなので、やっぱりそんなものかなとも(笑)。


アドラー心理学なんて忘れ去って、できるだけ多くの人が、欲望全開の世界、必要以上を求める世界で暮らしてくれないと、売るものがなくなって困っちゃうんだろうなぁ(笑)。


それでもそうは問屋が卸しません(やっぱり売るんかい!)。細々とではありますが、必要なものを求める人は必ずいます、だって必要だから(笑)。アドラー心理学は、原爆を始めとする危なっかしいものを次々に作り出してきた現代人にとって必要欠くべからざるものだと信じています。知ってしまったことを、開発してしまった技術を、もう元に戻せないのであれば、あとは破壊のためではなく建設のために使うしかありません。そのためには、競合的な暮らしから協力的な暮らしへの具体的な処方箋と養生法を持っているアドラー心理学の知恵が必要です。


お盆で久しぶりに家族や親戚と会えるこの機会を、互いのライフスタイルを作り合った大事な人たちと再会するこの機会を、劣等感に踊らされず、違いを認め合い、互いの力を持ち寄って協力的に暮らしていく契機にしたいですね。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。