アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

自由への道

こんにちは、鍵野です。
四月に入って暇に過ごす予定だったのですが、終わったと思っていた仕事の続きがあって…、たしかに伏線はあったなぁという感じで、おかげさまで楽しく?忙しく(あくまで当社比ですが(笑))していました。ひと段落してボールは投げたので、戻ってくるまではのんびりできそうです。


ゴールデンウイークは、前回紹介した野田俊作顕彰財団(AIJ)の「かささぎ座」に参加することにしたので、それまでには仕掛りの仕事は大団円で終わりたいなぁと思っています。


昔はこういう季節労働者的な働き方に不安を感じていたこともあった気がするんですが、今はとても自由を感じています。神奈川東京で何十年も通勤電車に乗って仕事に通っていたサラリーマン生活から、大分で自分の好きな車に乗って仕事があれば出かける生活に変えて、そろそろ丸十二年になりますが、最初のころは、仕事がなくても半ば強迫的に銀座に勤めていた時の習慣からか、大分にもあった(笑)スタバに通ってました。


そういうことなしに、自宅で自分でコーヒーを入れて、本を読んだり、同年代の男性はほとんどみかけない平日昼間のスーパーに食材を買いに行ったりが、変な自意識なくできるようになるのにずいぶん時間がかかった気がします(笑)。アドラー心理学と仏教のおかげですね。共通感覚と私的感覚と価値相対論を実感できました。所属の危機を勝手に感じてたんですよね。ネクタイにスーツで電車に乗って会社に通う男性という役割が板についていたものですから。なんとかは三日やったらやめられないと聞いたことがありますが、もういくらお金を積まれてもそんな暮らしに戻りたくはありません(笑)。


それで、今日は「自由」について考えてみたいと思います。いきなりですが、みなさん自分が自由だと思われますか?


鍵野はですね、二つ答えを持っています。一つはアドラー心理学からの答え。もう一つは仏教からの答え。


アドラー心理学では人は自ら主体的に決断して行動する存在であるとしています。「個人の主体性」ですね。だから、「ママを怒らせないで!」という人がいても、その人を怒らせる子どもがいるとは考えなくて、その人は自分の目的を果たすために怒りという感情を使うことを主体的に決断して実行していて、それを子どものせいにすると決めている人だと考えます。その「個人の主体性」を認めているので、その点について人は自由だと考えています。ただし、何でもかんでも自由に決められるとは思っていなくて、遺伝や環境といった与えられた条件の中で、決められることは決められるけど既に決まっていることはあるという「柔らかい決定論」という立場に立っています。どこまで決められているかについては、アドレリアンの中でも幅があって、ほとんどのところは決められているという立場の人も、ほとんどのところは自由だという立場の人もいるように思いますが、常に選択肢は複数あって、そこから個人が選んで最終的に決めているというところについては、アドレリアンであるからには認めているはずです。座っている人が銃を頭に突き付けられて、「立て!」と言われて立った人にも、立たないという選択肢もあったし、いきなり寝そべるという選択肢もあったでしょうし、歌を歌い出すというような選択肢もあるし、他にもいくらでもあったはずです。まぁこういう場合共通感覚的には立つのが無難でしょうけれども(笑)。


仏教では、人は自由じゃないという立場です。人間といったって、いつでも渇愛に突き動かされて生きている生き物の一種で、そういう意味ではカビやバクテリアなんかとも一緒で、ただ生きていたいというだけで生きている不自由な存在だと。眼耳鼻舌身意という感覚器官への刺激を求め続けるという渇愛、存在し続けたいという渇愛、嫌なものを破壊したいという渇愛の奴隷のような存在で、そこからみたら自由はありません。アドラー心理学が言う複数の選択肢のどれを選ぼうとも所詮渇愛のなせる業というわけです。


じゃぁ、お釈迦さまって、仏教って何なの? 奴隷である我々に、あんた奴隷だよって教えてくれてるだけなのって思うんですが、これはそうではなくて、奴隷だし、不自由なんだけど、でも、お釈迦さまはそうじゃない、自由だよと、お釈迦さまだけじゃなくて、五百阿羅漢とか言われますが、それよりもっと多くのお弟子さんたちも、在家で学んだもっともっと多くの人たちも、自由になったよと。その人間が、生き物が、渇愛の奴隷である存在から解放されて自由になるための教えが仏教だよ、ということなんですね。まぁ、それがいわゆる「解脱」ということで言われています。お釈迦さまはそこに至るための方法を八正道として説かれていて、私を信じなさい、信仰しなさいということではなくて、やってみなはれ(そんな言い方ではないけれど(笑))とやり方を親切に教えてくださっただけ、やってみればわかるしできるよというのが、お釈迦さまの教えそのままである、初期仏教、テーラワーダ仏教の教えです。超越した存在がいて、お願いしたらとか言う通りにしたら救ってくれるという話ではないんですね。


それで、仏教に出会えるチャンスというか縁があったとして(これは本当にありえないくらいの奇跡的なチャンスだと教えられています。牛?のくびきが2つに分かれて、それが壊れず腐らず別々に雨に流されて川に流され海に流れ着いて、波に揉まれながらどこかで再びその2つが合わさって、その瞬間百年(百万年?)に一度しか海面に出て呼吸しない海亀が顔を出したのが、そのくびきが再び合わさった瞬間のくびきの中だったというくらいの奇跡的なことだと)、あとはやるかやらないか、そこはその人にかかっているという意味での自由はあるんだとは思います。その八正道を実践できるのは人間だけだ(虫とか鳥とかは生きていくのに忙しくて修行する暇がないし、神々は楽を感じ続けるのに忙しくて暇がないし修行しようと思えない)という意味で、人は自由じゃないけど、人だけが人間だけが自由になる可能性があるというのが仏教の教えですね。


ということで、アドレリアンであり仏教徒である鍵野は、「個人の主体性」という自由を引き受けながら、しかし、本当は渇愛の奴隷であることを認めつつ、お釈迦さまの教えを実践しなければならないと知っていて、ヴィパッサナー実践すればいいのに、こうして刺激のためにブログを書いているという…。


真の自由を目指して、アドラー心理学で俗世間的自由を実感しながらの、仏道実践を、慈悲の瞑想からのヴィパッサナー実践をしていきます。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞ今日もよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。