アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

自殺とアドラー心理学

こんばんは、鍵野です。
陽が落ちてきて佐伯上浦も暗くなってきました。暖房を入れてるんだから室温はあまり変わらないはずですが、いっそう寒く感じる気がします。

暗くなってきたことですし(笑)、今夜は自殺について考えてみたいと思います。令和4年の日本の自殺者数は21,881人で、前年に比べて874人(4.2%)増えたそうです。5月が最も多くて2月が最も少なかったそうです。でも、2月はそもそも月の日数が少ないですもんね。それで、例年11月より12月、年末に向けて自殺者数は大きく減ってます。これはなんなんですかね? 年明けの1月には増えるようだから、年の暮れには何かそういうことを遠慮しようという気になるのかなぁ、あるいはそもそもそういう気が起こらない状況になるということなんでしょうか。これ、きっと謎のままですね。推測はいろいろできるけども、12月に決行しようと思ったんだけど、1月に自殺した人がいるとして、その人にどうして12月にしなかったんですか?とは聞けませんから。あっ、でも未遂で終わった人に聞けば、かなり近い答えは出せるのかな。


まぁ、そんなことはいいとして、アドラー心理学では自殺についてどう考えるかというと、子どもを怒鳴るとか他のすべての行動と同じことで、個人が主体的に目的を達成するために取った行動だと考えます。その目的は死ぬためとは考えません。死ぬのは行動で、目的は別にあると考えます。で、お決まりの答えですが、例によって、それは社会に所属するためです。所属するために死ぬって、なんだか、変な気がしますか? 死んだら所属できないじゃないのって思う方もいるかもしれませんね。でも、アドラー心理学では、社会に組み込まれた存在としての人の行動の究極の目的は社会に所属するためであり、どういう状態が社会に所属していると感じられるかというのは、一人ひとりユニークで違っていますが、目的は所属であるというのは万人に共通としています。ということは、自殺した人は、アドラー心理学的に考えると、自殺することで所属を遂げられると信じて行動したということになります。


イメージしやすい例で言えば、仕返し、復讐として、その人にとって大事な人(好きという意味ではないです)の記憶に残るために、自殺するというケースがあるように思います。自殺する人が遺書を残すという場合、残された人たちへの自殺した人としての所属の仕方をアレンジする手段と言えるかもしれません。


アドラー心理学で考えれば、そのまま生きていても社会に所属してる感じがしない人がいて、その人が自殺した方が社会に所属できる気がしてしまうと、自殺するんだろうなぁと。アドラー心理学は個人の主体性の上に築かれた心理学なので、その個人が主体的に自殺を決断するのであれば、最終的にはそれもその人の決断として受け入れるクールさがある心理学だと思います。片っ端から思いとどまるように説得に走るような、そんなお節介な他人の主体性をないがしろにするようなことはしません。


もちろん、さまざまな可能性、選択肢を提示して、その人に見えていないかもしれないものごとの側面を一緒に考えて、その人も含めたみんなのためになる方向の決断をしてもらえるできるだけのお手伝いはしますが、その人の代わりにその人の人生を生きることはできないのだという、冷静さは常に持っている必要があると思います。


それで、せっかくですから(笑)仏教ではどう考えるかもご紹介すると、自殺は悪行為とされています。この世の執着を離れて解脱を目指す仏教だから、あきらめて死ぬのはいいことなんじゃないかと勘違いする方がいらっしゃるようですが、これは違うんですね。放っておいても絶対死んでしまうのにわざわざ自殺するというのはですね、自分への執着がものすごく強いということになるんです。私という妄想を信じ込んでいて、その私がこんな状態でいるのには耐えられないから、自殺する、自己破壊するというのは、要するに渇愛があるからだと。


渇愛には、束の間の楽を感じる感覚への渇愛と、生きることへの渇愛と、(嫌なものを)破壊することへの渇愛とがありますが、こんな私は嫌だと自己破壊、自殺するのは、ものすごい渇愛があるということなんですね。ですから、輪廻転生で心のエネルギーが回転し続けると考える仏教では、自殺してもどうせまた生きるんだし、ゲームオーバーにはならないんだと。ある意味今生のリセットはできるかもしれないけれど、そんな悪行為をした後の生は、因果応報、悪因悪果の因果法則からしたら、今より嬉しい状況になるとは思えないので、リセット後の再スタートにはあまり期待しない方がいい気がします。


すべては無常です。ずっとずっと変化して流れ続けるのが生命です。不幸でいたいと願ったところでずっと不幸でいられるとは限りません。ちょっとしたことで、幸せを感じてしまうのが人間です。こんな世の中滅びてしまえと思っていたような人が、見ず知らずの人のほんの何気ないその人にとってはなんてことない気づかいで、生きていいてよかったと感じてしまうこともよくあることだと思います。


この世はあなたにとっていい人ばかりではないと思いますが、この地球上の全人類があなたの敵であるなんてことはありえません。そもそも、あなたのことを知らない人の方が圧倒的多数だし(笑)。世の中を捨てる修行をしている仏教徒がこう言うのも変ですが、世の中捨てたもんじゃありませんよ(笑)。生きていればいいことにだって出会えてしまうのが人間です。あなたがちょっとその気になれば、全然違う世界が見えてきます。どうせ、あなたも私もいつかはわからないけど、死ぬんです。だったら、まぁ、この限られた空間と限られた時間を縁あって共有した仲間として、お互いに慈しみあって、助け合って暮らしてから、死んでみてもいいんではないかなぁと、アドレリアンであり仏教徒である鍵野は思うのでした。


読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい週末をお過ごしください。

生きとし生けるものが幸せでありますように。