アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

心のきれいな人に

こんばんは、鍵野です。
昨日は某所でアドラー心理学の仕事ができて嬉しかったです。今日はアドラー心理学から離れて、どっぷり数字とお話しする仕事をして、意味のあるところまで仕上げることができて、相手にボールを投げる準備ができて、これもよかったです。それでも、やっぱりアドラー心理学の仕事の方が、より充実感がありますね。その充実感は収入とは全く関係ないとわかってます。

 

だって、ときどき無料でカウンセリングをすることがあるけれど、お役に立てたときの喜びにまったく違いはないから。あえて言えば、しっかりお金を払っていただいた方が、相談される方にとってご自分が本気になる度合いが高まるとお見受けするので、結局お得なのではないかと思ったりはしますが。それから、無料の場合は継続を前提にしていないので、こちらとしては、出口を想定して、今日はここまでといったゴール設定はしません。とりあえず今回限りだったとしても、一歩進めるようにというカウンセリングをするので、こちらがある程度見えていたとしても、ライフスタイルを触るより、何かこれまでとは違う行動をする気になってもらうことに重点を置くので、ちょっと応急処置的になってしまうんですね(もっと腕を磨けという事かも)。

 

まぁ、でもどちらにしても、直接ライブで必要とする方にアドラー心理学を伝えられたことに、深い静かな喜びを感じられる仕事です。最近耳にして、そんな言葉があるのねと知った「タイパ」でいったら、数字とお話しする仕事の方が、「レベチ」(笑)でいいんだけど、そういった指標と仕事の喜びとは別のものですね。

 

それで、仏教のお師匠さま、スマナサーラ先生がおっしゃるには、楽にできることを仕事にしなさいと。これ、誰にでもできることをしなさいと言っているのではなくて、その人にとって楽にできてしまうことを仕事にすればいいという意味です。だから、ある人にとっては難しそうでも、自分にはスイスイできてしまう仕事があったなら、それを選べばいいと。楽しいとかどうとかは関係ないんだと。というか、集中して取り組むことができればその集中自体が楽しみをもたらすので、問題ないと。わかる気がします。

 

数字とお話して事業計画を策定する(お手伝い)といった仕事は、それ自体楽しくもないんだけれど、集中していると楽しくなっていて、ちゃんと終わるし、これまでたくさんお役に立ってきている。人によって、その楽にできる仕事は当然違うんですが、いろいろやってみればきっとみつかりますね、そんなに苦労しなくてもスイスイできてしまう仕事が。小さい頃得意だったことにヒントがあると思います。

 

鍵野は、数学はもう苦手になってたけど、算数までは大好きだったんですよ。算数で十分できますからね、事業計画は。それと、プログラミングも全然経験なかったけど、仕事をしてみたらスイスイできたんですよ。小さい頃から屁理屈が得意だったし、作文は好きだったから、その辺りのストレンクスを活かしたのかなぁと思います。事業計画も言っちゃ悪いけど、屁理屈なんですよ(笑)。その屁理屈をプログラミングするように計画を立てて、そんなものかもなぁと、社長さんとか金融機関のみなさんに思ってさえもらえればね、いいわけです。決して、その数字の通りになる試しはないんですが、でも、計画ってそういうものなんですよね。一応、そっちへ向かっていこうっていう計画の数字があるから、現実の数字との差異がわかって、行動を修正できるわけです。結局、その会社がどこへ行きたいのかっていう目的論なんですよね、経営も。劣等の位置にある会社が優越目標に向かうために行動をするわけで、経営コンサルティングするときも、結局エピソード分析してる気がしてきました。社長さんの早期回想とか聞くとよくわかりますしね、社長さんが納得しそうな今後の方向性とか、なぜ今、その会社が窮境にあるのかも。

 

例によって前置きが長いんですが、しかもあまり関係なかったんですけれども(笑)、今日はまたまたまたアドラー心理学と仏教について考えてみたいと思います。野田先生が、ある日のご自身の日記補正項でこう書いておられます「「アドラー心理学を補完するために仏教を学ばれたんですか?」という質問があって、「いいえ、仏教を補完するためにアドラー心理学を学びました」と答えた。(中略)「心のきれいな人」になるためにアドラー心理学を学んでいる。私の生徒もそうであってくれると嬉しいと思う。なかなか心はきれいにならないのだけれど、一歩一歩、目標に向かって成長していきたいと思っている」と。

 

これを初めて読んだときはまったくピンと来ていませんでした。仏教と言えば、母の里が浄土真宗大谷派のお寺で、門前の小僧なんとかじゃないけれど、小さなころから夏休みには大勢のいとこたちと一緒に住職であった祖父の音頭で正信偈を唱えるのが日課になっていて、暗唱できるようになっていたけれど、仏教がなんだかは知らなかったし、アドラー心理学についても、初めて野田先生に会った時から身の程知らずに「カウンセラーになる!」って、心がきれいどころか、世界征服の野望に燃えて、心を汚しまくっていたのでですね。

 

それから、野田先生のご縁でチベット仏教のお坊様のお話を聞くことができ、修行の真似事もしてみたのですが、帰依するところまでは至らず月日が流れ、その後カウンセラー養成講座を受講出来て、試験に落ちまくって、それでもあきらめずに、なんとかカウンセリングができるようになりたくて、どういうわけかテーラワーダ仏教のヴィパッサナー実践(瞑想)に辿り着いて、まさに「アドラー心理学を補完するために仏教を学んだ」のでした。

 

それで、ミイラ取りがミイラになるの譬えが合っているかどうかわからないのですが、お釈迦さまの教えの理性的な迫力と「信仰はいらない。真理だからやればわかる」という実証性に頷いて、実際、やってみればわかることがたくさんあって、カウンセラーになるという欲のために始めたにもかかわらず、気づいたら「仏教を補完するためにアドラー心理学を学びました」という状態になっていました。

 

何もかも捨てて出家してしまえればいいのかもしれないけれど、そうもいかないなぁと。テーラワーダのサンガはあるけれど、スマナサーラ先生も在家のままでも修行は完成できるとおっしゃっているし、そうだ、アドラー心理学があるじゃないか(笑)という感じなのです。人間関係のあーだこーだはアドラー心理学を実践すればそのうち問題ではなくなりますから、そうして手に入れた安穏で落ち着いた暮らしの中で、仏道修行に励もう、精進しましょうよというのがアドラー心理学に関わっている本音のところです。

 

その理屈からすれば、仏道修行に励む環境を整えたら、そんな、人にアドラー心理学を教えている暇があったら、ヴィパッサナー実践した方が、人類や他の生き物のためになる(ここの理屈、テーラワーダ仏教を小乗とか自力門と揶揄する向きにはわからないと思いますが。喩えて言えば、自分が溺れていたら溺れている人を助けることはできないというようなことです。)んですが、そうだよなぁ…と思いつつも、やっぱりここに執着が残っているんでしょうね、いろんな執着は落っことしてきたつもりですが、アドラー心理学への執着はまだあるんですよね。大乗仏教の論理であれば、菩薩道としてアドラー心理学普及と仏道実践は矛盾なくいくんでしょうけれど、お釈迦さまの仏教からすると、気づきの実践ヴィパッサナー実践、あるいは慈悲の瞑想以外の時間は、アドラー心理学だろうとなんだろうと怠けになってしまう。

 

ここで、ようやく前置きに繋がります(笑)。在家として生きていくための仕事としてどうせ何か社会に貢献しなければならないなら、楽にできることをしなさいの教えを実現するために、鍵野はアドラー心理学カウンセラーという仕事をしています、というロジックは成立しそうかなぁと、屁理屈好きのおじさんは思うのでした。

 

でもねぇ、ここもしっかり考えるとかなり微妙になってくるんですよねぇ、それをしないと仏道修行のための身体を持たせることはできないというレベルで、今、あなた仕事を必要としているの? と問われるとですね… 解脱を目指さない言い訳をしてるんじゃないの? と聞かれたらねぇ…。うーん、誰かにカウンセリングしてもらおうかな(笑)。もしカウンセリングしてもらうとしたら、誰に…(と、ここで浮かんでくる人を一番信頼しているということなんだろうなぁ、カウンセラーとして)? あっ、あの人かぁ、そっかぁ、そうだなぁ、やっぱり。誰の顔が浮かんだかは内緒です(笑)。

 

読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。

生きとし生けるものが幸せでありますように。