アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

責任

こんにちは、鍵野です。
今日の佐伯上浦は雨です。明日から3月ですね。3月は珍しく忙しい月になりそうです(あくまで自分比ですが(笑))。甥っ子の結婚式があって久しぶりに一週間ほど東京に行くこともあり、その他N先生のオープンカウンセリングで滋賀県に行く予定もあり、また経営コンサルの方の仕事も仕上げ作業が残っていて、年度末らしい大波に慌てず騒がす焦らず逆らわず乗っていきたいと思っています。


それで、今日は「責任」について考えてみたいと思います。野田先生が、アドラー心理学を(どうしても)一言で言うなら「責任」(かな)とおっしゃっていました。みなさんにとって「責任」ってどういう意味に響きますか? 反対概念を思い浮かべるとその人らしさが、その人の価値観がわかることがありますが、「責任」の反対ってなんですかね? 単純にひっくり返すと「無責任」となりそうですが、ぜひ、自分にしっくりくる表現を探して欲しいんですね。この辺り、カウンセリングでとっても大事にしているところです。似ているところはもちろんあるんですが、でも、本当に人それぞれなんですよ。「へぇ~、それが反対なんだぁ」と驚かされることも多いです。それで、鍵野にとっての「責任」の反対は「自分勝手」という感じです。どうですか、変な気がしますか? これ、正解があるわけじゃなくて(辞書の定義は置いておいて)、そこに、その人の世界、言語体系、その人そのものが出てくるんですね。


別のアプローチとして、類似してそうな言葉との違いを聞いてみると、またその人らしさがわかってきたりします。例えば、「「責任」と「義務」って○○さんの中で、どんな違いがありますか?」と聞いたりします。鍵野の中では、「責任」は自ら引き受けるもので、「義務」は他から押し付けられるものという違いがあります。いい悪いではなく、鍵野のライフスタイルということになるんですが、いつも誰かから「義務」を押し付けられる前に、自ら「責任」を引き受けて進んでいこうとしている気がします。度が過ぎると、頼まれもしないのに「責任」を引き受けて、かえって、狙っている価値の反対側の「自分勝手」な動きをしてしまっていることがあるなぁと反省することも(笑)。「責任」と思っていることを先に「義務」として提示されると一気にやる気を失うという特性もあります(笑)。昔、西田敏行さんの出演していたお風呂洗剤?のCMで「今、やろうと思ってるのに、言うんだものなぁ~」というのがあって、とても印象に残っています。


アドラー心理学に戻って「責任」について考えてみると、アドラー心理学は共同体感覚という思想に基づいて、人が共同体に貢献的に所属できるようになる(結果として幸せになる)ための学問なので、アドラー心理学で「責任」という場合、これは共同体への責任ということになると思います。アドラー心理学では共同体への責任を果たすことが個人の幸福への道であり、共同体への貢献と個人の幸せが矛盾しないんですね。どこかの心理学のように、快感を求める人が我慢して自分を抑えて、なんとか社会人として社会規範に合わせて暮らしているというような人間理解はしません。なので、共同体に対して無責任な行動をする人に対しても、本当はその人も共同体への「責任」を果たしたいんだけれど、今はその「責任」を果たそうとする勇気をくじかれているだけだと考えます。


それで「勇気づけ」というのをアドラー心理学では大事にしていますし、カウンセリングもやっていることは結局「勇気づけ」なんですが、これは快不快とは関係なくて、カウンセリングが成功して、相談者が勇気づけられると、共同体(夫婦、親子、職場、クラス、友人関係など)への責任を果たしたくなるので、それは決して快感が増える方向とは限らなくて、快不快で言えば、不快の方向、辛くて苦しい方向かもしれないけれど、それでも、共同体への責任を果たす方向ではあって、その方向に一歩でも踏み出せれば、一歩、幸せになっているという意味で、カウンセリングの「成功」と言うんですね。なので、カウンセリングのおかげで気持ちよくなることもあると思いますが、そこは本当はどうでもいいんですね(笑)。もちろん、できるだけ辛いことが少なくて、同じ結果が得られるならその方がいいんですし、あんまり辛いとカウンセリングやめちゃうでしょうし、できるだけ苦痛が少なくなるようカウンセラーは腕を磨くそれこそ「責任」があるわけですが、でも、やっぱり辛いことに直面していただく必要がある場合もありますね、どうしても。


カウンセリングの場面で言えば、そもそもそこで相談されるのは、相談者さんの人生であり相談者さんの課題なので、カウンセラーの人生ではないし、カウンセラーの課題ではないわけです。それが、相談に乗ります(乗れるものならば)というカウンセラーに対して、相談に乗ってくださいという、相談者さんからの働きかけがあって、それで、カウンセラーにできることを(ある程度)理解してもらった上で(同意していただいてから)、どんなお話かお聞きして、カウンセラー側がなんとかお手伝いできそうだなぁと思えば、こんなところを目標に相談することでどうでしょうか?と提案して、相談者さんが、じゃぁそれでお願いしますということになったら、相談が始まります。ということで、もともと、全然関係ない他人の課題なんですが、カウンセラーは、同意して契約してもらって、職業的にお節介を始めるんですね(笑)。お節介をしてお金までもらえるという、お節介好きにはやめられない商売ですね(笑)。ここに「責任」が生じます。もともと相談者さんの課題なんですが、一緒に考えさせてもらいますとなったところで、カウンセラーの課題にもなったわけです。これを「共同の課題」と言います。いったん「共同の課題」として一緒に解決を目指すことに合意できたら、相談者さんと作戦会議を繰り広げながら、あの手この手で解決に向かって互いに協力しながら進めていくのが、アドラー心理学カウンセリングです。


「課題の分離」という日本で有名になったアドラー心理学用語がありますが、よく考えると、すべての課題は一人ひとりの個別的なその人だけの課題だとも言えるし、逆に、個人は共同体のメンバーとして社会に所属しなければ生きられない存在である(例えば、人里離れた洞窟で暮らす仙人でも、そのポジションで社会に所属している)という意味で、ある個人の課題は、すべてみんなの課題、共同体の課題でもあるとも言えます。ですから「私の人生だから放っておいて」という人がいたとして、それは、アドラー心理学で考えれば「私の人生なんだから他の人には関係ないでしょ!」という意味ではなくて、「私が私の意志で(自分も含めた)みんなのために私をどう使うかを決めるから私に任せておいて」という意味ですね。


なので、「課題の分離」は、あくまでも個人が個人の責任で(自分も含めた)みんなのために自分に降ってきた課題に対処していくための下ごしらえに過ぎないので、分離して、あとはご勝手にではないんですね。親切なお節介さんに課題を横取りされないように(笑)、いったん分離して自分の課題として引き受けてから、よく考えて、助けを求めて(あるいは援助の提案を受け入れて)、他の個人との「共同の課題」にしてもらって、一緒に協力して解決した方がいいか、そのまま自分だけで解決した方がいいかを選ぶために、分離するんですね。子どもが勉強しなくても親がバカになるわけではないからといって、学校の勉強で困っている(とは言わないかもですが)子どもをよそに、課題を分離して、我関せずと、楽しく暮らすのは親の責任を果たしているとは言えないですよね。


カウンセリングに話を戻しますが、カウンセリングで共同の課題にしたものを、戻すタイミングが結構難しいなぁと思うことがあります。要は終わるときですね。最初に相談されたことが完全に解決したというわけではないけれど、あとは相談者さんだけで大丈夫そうだなぁというタイミングで、こちらからこれでいったん終わりということにしましょうかと提案することもあるし、次の回のことを話題にしないことで、何かあれば言ってくるだろうから、そのまま次回の予約が入らなければ、やっぱり終わりでよかったんだなぁという流れになることもあります。こちらは終わったつもりでも、まだ相談にいらっしゃる方もあって、たしかにアドラー心理学の相談は自分を知る旅でもあって、楽しいと感じる方も多いし、実際、何らかの気づきを持って帰ってもらえるし、売上にはなるし(笑)、いいのですが、でも、アンチクライマックスというか、蛇足というか、せっかく含みもある映画のエンディングがしまらない感じになる気もして、後はご自分たちで楽しんで欲しいなぁと思ったりすることもあります(笑)。


また、あえて、小休止というか、全然、終わったわけではないんだけれど、インターバルというか醸す時間が必要というか、(他の人も含めて)変化を待つ必要があるというか、があって、相談者さんにとっては中途半端な感じかもしれないけれど、いったん終わることがあります。


ただ、「終わる」といっても、友人のまま終わる感じなのが、アドラー心理学カウンセリングの特徴かなという気がします。いつでも、必要な時は声をかけてね、という感じ。契約の上のお節介モードは終わるけど、あなたとはずっと友人ですよ、何かあったら言ってねという感じ。


アドラー先生も、鍵野が理想と思っているブルック先生も、カウンセラーは、遅れてきた母親の役割を果たさなければならないとおっしゃっています。ひょっとしたら相談者さんのお母さんお父さんが残してしまった仕事、子どもが全面的に信頼できて、そこから他者への共同体感覚を育んでいけるベースとしての親の役割を(必要なら)果たさなければならないと。そして、親と同じように、相談者さんが、独り立ちしていくのを応援しなければならないと。できるだけ早く、相談者さんにとって余計な存在にならなくてはと。理想ですね。できるだけ短時間短期間で偉大な母親(父親)の本来すべき仕事を果たして去っていくカウンセラー(笑)。


理想を高くもって、カウンセラーとしていい仕事をして責任を果たせるようにこれからも精進していきます。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。