アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

「エピソード分析」で人を裁かない

こんにちは、鍵野です。
今週末2月4日に、アドラー心理学入門講座「はじめの一歩」を福岡県の直方で開催します。これから直方でアドラー心理学のコミュニティ作りをしていこうという意欲的で勉強熱心なパセージリーダーでもあるUさんが主催してくださいます。打ち上げ花火ではなく、地道な自助グループ活動につながる「はじめの一歩」として、野田先生から教えていただいたアドラー心理学のエッセンスをお伝えできればと思っています。ほんの一週間前に決まったことだし、定員15人のところ何人の方が来てくださるのかわかりませんが、お客さんが2人でも(これは確保済み(笑))、3人でも精一杯務めてまいります。


それで、野田先生の教えの中核は先生が晩年に開発された「エピソード分析」にすべて入っていると思っているのですが、その「エピソード分析」では、仮想的目標を抽出した後、その目標が協力的か競合的かを決めるプロセスがあります。協力的というのは、その目標が実現すると、自分だけでなく相手も満足するかどうか、相手も賛成してくれそうかどうか、相手を裁いていないかどうか、どちらが上でどちらが下かを決めようとしていないかどうか、といった観点でYESであるような目標のことで、逆に、それらの観点でNOであるような目標であれば、競合的と判定して、以後の分析を進めるんですね。


ここが学べば学ぶほどなかなかやっかいなプロセスだなぁとわかってくるところでして、何か客観的なモノサシがあってそれで測ったら、誰が判定してもどちらかに一意に決まるというものではないんですね。今、「決まる」と書きましたが、これも実際には、決まるのではなく「決める」のであって、合意は取るけれど、分析をリードする人が、カウンセリングであればカウンセラーが決める必要があります。


そこで決めたことが正しかったかどうかというのは、実践的にしか決まらなくて、現場を離れて、ペーパーテストで問題を出して判定できるようなものではないんです。どういう意味かというと、「エピソード分析」というのはアドラー心理学の理論と思想に沿ってエピソードを分析するんですが、アドラー心理学というからには、分析それ自体が目標なのではなくて、その分析を通して共同体感覚が育成されることを目指しています。だから、協力的か競合的かの判定も、その判定の結果として、その分析で何が学ばれたかというところから遡ってしか、それが正しかったかどうか、いや、正しいというよりはそれがよかったかどうかを議論できません。協力的として進めたことが、共同体感覚の育成につながったのであれば、それはよい判定だったんでしょうし、その反対で共同体感覚の育成につながらなかったのであれば、よくない判定だったということになります。


カウンセリングの場面でよくあるのは、たとえば「自分は悪い母親だ」と自分を裁き続けてきた相談者さんの仮想的目標に対して、「協力的だと思われますか? それとも競合的だと思われますか?」と尋ねると、きっと「競合的です」と答えられます。悪い母親である自分を裁いていると、その裁いている瞬間の自分は(裁いている対象が自分であるにもかかわらず)、人を裁く立場になれて偉くなった気がするしいい人になった気がするから。それに対してカウンセラーが「そうですね、競合的ですね」と同意したら、その相談者さんの劣等感がますます深まって、反省して自分を裁くことでいい人になった気がすることに慰めを求める一方、お子さんとか周りの人のために行動することはしていないという、その人の不幸に向かう癖を強化することになってしまいます。なので、そういう場合「そうですか? 私は十分協力的だと思うんだけどなぁ…」のように言うことがあります。これは相談者さんの予想を裏切るので、ドライカース先生が「スープに唾を吐く」とおっしゃっていたと思うのですが、自分を裁いていい気持ちになっている相談者さんのそのせっかくのいい気持ち加減を減らす効果があるかもしれません(この辺がアドラー心理学の知的で意地悪で面白いところですが(笑))。


また、その逆に(こちらの方が大多数ですが(笑))、相談者さんはいつも相手を裁くのが得意で、自分は被害者のポジションからしか出来事を見ていなくて、悪いあの人、かわいそうな私という視点から、相手に謝らせて、相手を自分の望みを叶える方向に動かす目標が出てきた後、「協力的だと思われますか? それとも競合的だと思われますか?」と尋ねると、「うーん、協力的じゃないですか」なぁんて答えられることがあります(アドラー心理学を学んでいる人だと、笑いながら「競合的ですね」と言ってくださる方も多いのですが)。そこで、カウンセラーは「えっ、そうですか? 競合的でしょ、これは」とは(思っていても)言わないと思います。相談者さんとケンカしながらカウンセリングはできないので、ここはいったん乗っておくカウンセラーが多いんじゃないかなぁと。もちろん相談者さんとの関係次第なのですが、相手がかなりカウンセラーを信頼していて、受け入れてくれそうなときなら、表情で(???)という感じでいながら、「そうなんですね。ふーん… そっかぁ、うん。じゃぁ、それで行きましょうか」となんか賛成じゃない感じで賛成するかもしれないし、「あー、そう思われるんですね。うん…。あのー、まぁ、どっちでもよさそうなんですけど、今回は競合的ということにして進めてみませんか?」とかってとぼけた感じで、「競合的」といったん受け止めてもらってから、進めることもありそうな気がします。


それで、厳密に考えるとどうなるかというと。そもそも人は利己的に自己執着で暮らしています。自己の生存を第一に暮らしています。我が子の命を助けるために親が犠牲になるという話は、人間界だけでなく動物の世界にもあることですが、これも全然美談ではなくて、我が子が自己の一部になっているだけで、やっぱり自己の生存を目指していることに、自己執着から来ていることに変わりありません。鍵野は種族保存という考えは怪しいと思っています。自分の子どもが生き残ることで結果として種族保存につながることはあるかもしれませんが、他の子が生きているから自分の子はいいやという、種族保存を目指して足し算引き算する世界は違うと思います。


なので、厳密にみれば、仮想的目標はすべて競合的だと言えそうです。聖人と呼ばれるような人以外は、いつも自分が一番で、他の人のことはついでに余力があれば考えますという感じで暮らしていると思います。でも、まぁ、「それを言っちゃぁおしまいよ」ということになりそうなので、自分だけしか考えていない目標と、相手のことも考慮している目標、相手が幸せになってくれると自分も幸せになるからという算段のある目標との違いはありそうなので、そこを認めて、これはいくらなんでも競合的という目標はあるかもしれません。


具体例で考えてみます。わが子が不登校気味で、義母から責められているお母さんがいて、いつも学校に行って欲しいなぁと思っている。今週はまだ一日も登校していない。今日は金曜日、今日も行かなかったら一週間丸々休んでしまうことになる。このままずっと行かなくなるかも…。今日も子どもは登校時刻になっても、学校へ行くそぶりはなく、ゲームをしながらゴロゴロしている。

母:今日は行くんでしょ。
子:え? いや…
母:今週、一日も行ってないのよ。どうすんのよ、お母さん、またおばあちゃんに怒られちゃうじゃない。
子:……
母:ねぇ、お願いだから、行ってよ。おばあちゃんにネチネチネチネチ言われるのは、お母さんなんだから。
子:だって…


対処行動としてどこを取っても良さそうですが、たとえば、最初の「今日は行くんでしょ。」を取ったとして、そのときのこのお母さんの仮想的目標が、子どもが

「もちろん! 一週間続けて休むわけにはいかないよね。お母さん困らせたくないし。おばあちゃんにネチネチ言われたらかわいそうだもん。ごめんなさい、余計な苦労をかけてしまって。わたし、今日からいい子になります。急いで支度します。いつも心配してくれてありがとう!」
と言ってくれることだったとして、さすがにこれを「協力的」と思う人はいないかな(笑)。

では、こうだったらどうでしょうか?
「うん…そうだよね。やっぱり友だちにも会いたいしなぁ。勉強も心配になってきたし…、今日はがんばって行ってみようかな」
これはね、「協力的」に一票を入れる人が増えそうな気がします。でもですね、これももう少し情報収集をしないとですが「競合的」と判定した方がいいことも大いにありそうな気がします。


お母さんは学校に行って欲しいとして、ポイントは子どもが本当は学校に行きたがっているのかどうかというところですね。学校に行かないのは学校に行かないと子どもが決めているからであって、そこにはその子どもなりの論理があります。学校に行くよりも家にいる方がその子にとっていいと判断しているから行ってないわけです。そこを曲げて学校に「行かせる」のは、事態を悪化させる可能性が高い気がします。


目指すべきは、子どもへの情報提供をすることです。正しい情報から正しい論理で出した結果が「不登校」なのであれば、そのような立派な結論を出せる我が子を祝福すればいいのかもしれませんし。としたら、まずするべきことは、子どもが必要としている情報が何なのかをリサーチすることです。「あなたは間違っている」と頭ごなしに言われて嬉しい人なんていませんし、そう言われたらますます頑なになるのが人間です。そうではなくて、まずは、お子さんの論理とその論理にお子さんがインプットした情報が何なのかを知ることが先決です。アウトプットは不登校だとわかっているわけで、お母さんのアウトプットが「登校する」なのであれば、お子さんの持っている情報とお母さんの持っている情報が違っているか、論理が違っているか、あるいはその両方とも違っているということですよね。


だから、親にできるのは、自分の論理に従えと強制することではなく、子どもの論理は尊重して、不足している情報を提供すること、不正確だったり誤った情報を正しい情報に入れ替えることができるように手助けすること、よりよい論理があると思われるのであれば、その論理をお勧めはしてみて、でも、強制せず採用するかどうかはお任せすることです。そして、親の方の情報や論理が間違っていることもあると認めて、もし間違っているのがわかったらすぐに是正することですね。そうやって、親子で協力しながらよりよいアウトプットが得られればいいわけです。そのアウトプットが結果として、登校か不登校かは、まぁ、その親子でそうした協力ができたことに比べればどうでもいいことだと思います(笑)。


で、じつはカウンセリングでやっていることも同じことです。相談者さんの論理は尊重して、そこに違う情報を入れてもらえれば違うアウトプットが出てきます。少し論理を緩めてもらったり、少し論理を変えてもらったりですね。


でも、これはちょっと機械論的なモデルに過ぎるので、実際は、カウンセラーと一緒に語りながらその語りの中でリアルタイムに論理が作られていくという方が現場に合っている気がします。何か論理マシーンのようなものを想定するとわかりやすいんですが、実際は、そうでもなくて、その人の物語が編まれていく現場に一緒に立ち会っていて、いや立ち会っているというよりも、あやとりの右手と左手のように、一緒になってお互いに編んでいき編まれていくような関係、ただ、カウンセラーはアドラー心理学を知っているので、俯瞰的なメタな視点からその編まれていくものを感じながら編み編まれる行為に共同体感覚の方向にテンションをかけていく感じ。


対話がないところでは、相談者さん、事例提供者さんが、自分の手だけで同じ論理で編み続けているので、あたかも内部に固定した論理マシーンがあるかのように見えますが、実際はそうではなくて、他の人と対話を始めれば、編まれているものが変わっていく、だから対話する相手次第で、編み編まれるものも当然変わってきます。


という意味で、仮想的目標を協力的と取るのか競合的と取るのかは、その共同体感覚育成に向けたカウンセリングの編み方を大きく左右する分岐点になるところなんですね。


だから、カウンセリングでは編まれつつある物語次第ということになりますね、協力的か競合的かの判断は、やっぱり。


それで、カウンセリングは、まぁ、じゃぁいいとして、問題は自助グループ等で実施されるグループでのエピソード分析の場面ですね。ここはカウンセラーさんがいることは前提としていないし、たとえいたとしても、グループみんなで進めているので、編まれていく物語の方向性、デザインが、一人の頭の中にあるわけではないから、ほんとは競合的だけど協力的としておいて、後でひっくり返して…というような操作はできないんですね。


だとすると、できるのは、みんなで話し合って、協力的か競合的かある基準でもって判定するしかないと、で、その基準は何かと言えば、元に戻って、先に書いたように「協力的というのは、その目標が実現すると、自分だけでなく相手も満足するかどうか、相手も賛成してくれそうかどうか、相手を裁いていないかどうか、どちらが上でどちらが下かを決めようとしていないかどうか、といった観点でYESであるような目標のことで、逆に、それらの観点でNOであるような目標であれば、競合的と判定…」ということになります。


だから、大事なのは事例提供者さんを絶対に裁かないこと。本人が「協力的」と主張しているときに、みんなでよってたかって「競合的でしょ!」としないこと。多数決にしないことですね。納得いくまで話し合って、「みんなが言うなら、競合的なんでしょ!」とふてくされさせないこと(笑)。そんなことをしたら、悪くするとせっかく出会ったアドラー心理学から離れていかれるかもしれません。この辺りが、「エピソード分析」が強力なだけに、扱い方注意、危ないところと思っています。「パセージ」レベルで裁かれても、まぁあの人たちがアホなんだ、と深刻にならなくて済むかもしれませんが、「エピソード分析」で、アドラー心理学の理論と思想で裁かれてしまったら(本当は裁いた時点で思想に反しているのですが)、立ち直れないかも、立ち直るにはアドラー心理学を捨てる決断をするくらいの深刻さが生じてしまう可能性があります。ひょっとしたら、「エピソード分析」を捨てたように思える先輩方は、この辺りの危なさを体感されたのかなぁと思っています。


ここが、ものすごく重要なところだと書きながら、気づきました。なので、一つ具体的な方法があって、事例提供者さんが「協力的」と言ったら、協力的としておいて、それをお願い口調(パセージ学習者にはおなじみの用語)で言ってもらうんですね。さっきの例で言えば、
仮想的目標が
「もちろん! 一週間続けて休むわけにはいかないよね。お母さん困らせたくないし。おばあちゃんにネチネチ言われたらかわいそうだもん。ごめんなさい、余計な苦労をかけてしまって。わたし、今日からいい子になります。急いで支度します。いつも心配してくれてありがとう!」
だったとしたら、それをお願い口調で言ってもらうとしたら、たとえばこうなります。


「お願いだから「一週間続けて休むわけにはいなかい」って言ってくれない? それから「お母さん困らせたくないし。おばあちゃんにネチネチ言われたらかわいそうだもん」って言ってくれると嬉しいんだけど。それからね「ごめんなさい」って謝って欲しいんだけどなぁ。あとね「余計な苦労をかけてしまって」って言ってくれるとお母さんとっても嬉しいの、お願いできる?」


これを事例提供者さんに言ってもらえば、まぁ、たいていの人は笑い出すと思います。こんなの言ってくれるわけないですよね、ハハハ、私、こんなこと願ってたんですねって、笑ってくれると思います。そうしたら、やっぱり競合的ですねという方向で意見がまとまると思います。もし、万が一、真面目に、「なるほど、さっそく言ってみます! よかったぁ、一つ賢くなりました」なぁんて人だったら、ちょっとグループでの対応は無理だと思うので、カウンセリングをおすすめしてください(笑)。


競合的な目標を実現する方向にお手伝いをしてはいけないので、目標が競合的だった場合、どうしてもいったん自分の競合性に向き合って、協力的な目標に向けて大袈裟に言えば心を入れ替える工程が入ってきます。ここが「エピソード分析」の肝でもあるんですが、それが嫌だ、嫌いだという人も出てくるかもしれませんね。鍵野は、その痛気持ち良さが好きで(M気質というわけではないですよ(笑))ドはまりした口ですが(笑)。スマートに、その辺りを触らずに、気が付いたら共同体感覚の方に動いていたというのは、カウンセリングとしたら理想かもしれませんが、カウンセリングで対応できる数はたかが知れてますから、やっぱり、自助グループレベルでアドラー心理学の筋金入りの解決を目指せる「エピソード分析」は、その辺りの怖さを十分注意して乗り越えながら、使っていけるようにしていきたいと思っています。


しかし、こうして書いていて気づいたのは、カウンセリングではなく、自助グループでも、そこに来てくださった人を、少なくとも悪くして返さないという意味では、「エピソード分析」を扱うのに慎重なのは、たしかに、もっともだなぁということです。だから、パセージ受講して半年実践した人にだけパセージ・プラスで「エピソード分析」を教えるというのは、その辺りの保険なのかもしれないなぁと。


なんとかとハサミは使いようと言いますが、せっかくの救済力が高い「エピソード分析」を限られた人だけが使える秘儀として封印する方向ではなく、しっかり扱い方を学べば誰でも安全に有効に使える便利な道具としての普及に努めたいと思っています。


人が人を裁かない世界を実現するために野田先生が遺してくださった「エピソード分析」で人を裁くのはダメ絶対!ですね(笑)。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。