こんにちは、鍵野です。
昨日の久しぶりの長時間(自分比)連続ヴィパッサナー実践のおかげか、朝昼食べずに夜だけ食べるという滅多にないことをしたせいか、今朝は珍しく空腹を感じました。それで、オートミール+ハチミツ+冷凍ベリーの朝ごはんをいただきました。一応、食べる瞑想という形で、気づきを入れながら食べましたが…。スマナサーラ先生は食事の瞑想では45分かけることとおっしゃってました。うーん、なんとなく中途半端だったのかもですが、15分くらいで食べ終わってしまった(笑)。これをきっかけに、朝と昼に食べて、夜は食べないパターンで行けたらいいなぁ(こういう言い方は怪しいですよね、「個人の主体性」だから、決めればいいだけなのに、なんか夜も食べちゃうかも…という含みを残してる(笑))。しかし、オートミールって便利ですね。水を入れてレンジでチンすれば食べれちゃう。納豆とも合わなくはないし、タイカレーとかとの相性もいいし、ご飯替わりに十分できます。やっぱり人間、楽な方に流れるので、いったん洗って一晩水に付けてから焚く手間がいる、玄米の消費ペースがガクンと落ちました。Amazonで定期購入しているんですが、前回配送分がまだまだたっぷりあるのに次のお米が届いてしまう感じなので、先日、間隔を倍に伸ばしたのでした。
昨日、アドラー心理学と仏教は似ているという話をしました。その続きで、これも似ているなぁ…というか、やっぱり同じじゃないの(笑)と思えるようなポイントについて書いてみたいと思います。アドラー心理学を学んで実践するというのはどういうことかというと、要は、常に自分だけではなく相手(他の人)も満足するように行動するということです。それには、自分の行動(言動)の目標を分析して、その目標を達成することが自分にも相手にも満足できるものかどうか検討する必要があります。それを日本語を母語とする人がやりやすくするために野田先生が開発してくださった方法が「エピソード分析」です。自分も相手も満足する(であろう)目標を「協力的目標」と言い、どちらか一方しか満足しない(であろう)目標を「競合的目標」と言います。これ、自分の当初の目標を取り下げて、相手が喜ぶ目標に賛成してそれを自分も喜べるのであれば、それは「協力的」なんですが、自分が我慢して相手だけが喜ぶことをするのは「競合的」なんですよね、ここ大事なところだと思います。被害者でいるのが好きな方もいますからね、そんな自分が道徳的に相手より優れているという意味の「競合性」を追及している場合があるので、遠慮すればいいというものでもないんですね。しっかり感情は使わずご自分の要求を伝えることが「協力的」な場合も多々あると思います。
それでですね、仏教でも「ラーフラ教戒経」というお釈迦さまが出家した7歳の実の息子ラーフラ尊者(後に悟りを開かれて阿羅漢になられたので「尊者」なんですね)に教えを説いた話が残っています。まず、最初に、嘘はダメだと。嘘をついたらもう全部ダメ、徳の積みようがないのだと。これ、驚くんですが、嘘ぐらいいいじゃない、じゃないんですよ、仏教では。例えば、殺人という重罪を考えても、それはやろうとしたってそんなに四六時中ずーっとできることではない。でも、嘘はいつでもつけるし、嘘をつく人は、嘘さえつけてしまえば、もう歯止めが効かないというかどんな悪いことでもできてしまうんだと。たしかに、自分に嘘をついてしまえばもう何でもできちゃいますよね。それで、まぁ嘘は論外として、人が何か行為をするとき(仏教では「身口意」と言って、いわゆる行動=身、言葉を発すること=口、思うこと=意の3つを行為としています)、それが悪行為にならないようにチェックするポイントがあるんだと。まず、第一に自分のためにならない行為ではないか、自分のためにならない行為はしてはいけませんと。次に、相手のためにならない行為ではないか、相手のためにならない行為はしてはいけませんと。そして、最後にダブルチェックというか、両方のためにならない行為ではないか、両方のためにならない行為はしてはいけませんと。
(2023年12月5日追記)
ここは、もっと積極的な意味がありました。お釈迦さまはすべての行為の道徳判断ができるように息子に教えたのでした。行為には、1.自分に害をなす行為かそうでない行為、2.他人に害をなす行為かそうでない行為、3.両方に害をなす行為かそうでない行為、の3つしかないんだと。だからこれですべての判断ができることになるんですね。そして、また大事なのが、ここでいう「両方」には「他の人」も入っているんだそうです。つまり、自分も含めたみんなという意味なんですね=We。だから、例えば、私が武器を作って武器が欲しい人=Aさんがそれを買うという行為を考えてみましょう。私は武器を売って儲かるので、これは(ひとまず)自分に害をなす行為ではありません。1の基準はOKとします。それで、Aさんは欲しかった武器を手に入れるのでよかったということで、これは2の基準でOKとします。そして、3の基準が私とAさんだけがOKなら、OKなのですが、そうではなく他の人も含めたみんなにとってどうかと判断しなければなりません。そこで、Aさんが手に入れた武器で、いつかはわかりませんが、誰かが傷つくでしょう。死ぬかもしれません。なので、3の基準でNGとなって、この行為はしてはいけない行為となるのでした。この3の基準、共同体感覚を否定的に使う話に似ていると思いました。
(追記終了)
これらのチェックをクリアした行為だけがしてもいいことだと。しかもですね、スマナサーラ先生の解説で、この両方というのは"We"という意味だと。自分も入ってるのがポイントです。日本人としてよく聞く道徳「他人に迷惑をかけない」には自分が入っていないので、親や先生、周りの大人からそんな風に言われて育った日本の子どもは、かえってその反動で、自分さえよければいいという人になりがちなのだと。自分にも迷惑をかけちゃいけないんですよ、仏教の道徳では。自分と他人、両方の尊厳を尊重して生きなさいと、教えられて育った人であれば、自分さえよければになりにくい気がします。
ね? どこかで聞いたような話じゃないかなぁと。「エピソード分析」そっくりな気がします。「ラーフラ教戒経」では、行為の前にチェック、行為中にもチェック、行為が終わってもチェック、と徹底しています。アドラー心理学の実践もそうですよね。「エピソード分析」の練度が上がっていけば、瞬間エピソード分析ができるようになります。何かをしようとする前に、目標分析をして、言動を変えることができるようになります。そして、行為の最中にも、これはパセージ経験者ならよくわかるところですが、いつも子どもに怒って何か言っていた人が、自分の怒りに気づいて、怒ってはいるけれど、とりあえず言おうとしたことはストップして、何も言わずにその場を離れるといった形で違う行為を選ぶことができるようになります。そして、行為の後、みんなで「エピソード分析」をしたり、カウンセリングを受けたりしてチェックするというのは普通なことで、まずはこの事後分析から入るのがアドラー心理学ですよね。
ということでですね、やっぱり、アドラー先生、(初期)仏教徒だったんじゃないの? なぁんて思ったりしてしまうのでした。まぁ野田先生は仏教徒であられたので、野田先生という天才を通してアドラー心理学が伝わったことで、仏教的な実践方法に寄せられている可能性がないわけではないですけれども(笑)。
読んでいただきありがとうございます。
みなさま今日もどうぞよい一日を。
生きとし生けるものが幸せでありますように。