アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

究極の価値

こんにちは、鍵野です。
昨日、散髪に行きました。昔は散髪屋さんは月曜日は全国的にお休みだったと思いますが、いつからかそんなことはなくなりましたよね。組合加盟のお店では今でもそうなのかもしれませんが。美容院は火曜日がお休みで、不動産屋さんは水曜日がお休みで、そういえば、まだ仏教に出会えてなくて魚釣りという殺生を趣味にしていたとき、水曜日に釣りをしていたら、「仕事は不動産関係ですか?」と聞かれたことがありましたっけ。


それで、散髪と言えば、子どものころ、大分から東京に引っ越してから、「散髪に行く」と言わず、「床屋に行く」って言うんだと、これにも小さなカルチャーショックがありました。「直す」→「仕舞う」と同じような。大分ではそばも食べたことがなくて、東京で初めてそば屋さんでざるそばだかもりそばを食べたとき、出てきた四角い大きな急須のようなものが蕎麦湯とはわからず、家族で「なんだろうね?」と首をかしげたのもいい思い出です。「饂飩湯」なんて出てきたのを見たことないし、なんでゆで汁に価値があるのかよくわかりませんでしたが、ルチンがどうのこうのというのは、ずいぶん時間が経ってからの話で、とりあえずつゆを薄めて飲んで美味しいってことと、親もそれまで知らなかったことを知ることができて、嬉しかったのを覚えています。


蕎麦湯に「価値」があると思うから、お店の人が出してくれるわけですが、その「価値」を知らない人にとっては、猫に小判、なんだこれ?でしかありません。それで、自分ではまだわからないけれど、それじゃぁ、まぁ試してみようかって、蕎麦湯なるものを初体験してみてですね、それで、「いいね」と思えば、その価値に賛同することで、その人のそれからの行動が変わります。蕎麦湯が出てくるのを期待するようになって、出てこないと、催促したりするようになります。


蕎麦湯に限らず、なんでもそうなんですが、人は、ものごとのよしあしをその人の価値観で判断して、その人が「よい」と思う方向に向かって行動します。生まれてきた赤ちゃんは、最初は何にも知らないようですが、そうでもなくて、お母さんのお乳が自分の生存に必要なもので「よい」ものだと判断して飲んでるはずです。お母さんの食べたものによって、味が変わると飲まないこともありますよね。それでも赤ちゃんはたくさんのことを知っているわけではなく、一万円札を渡しても、口に入れて確かめるかもしれませんが、「よい」ものだとは思わないでしょうね。小学生にもなればゲームが買えるって大喜びしそうですけど。


これまで生きてきて、いろんなものにお金というモノサシでの「価値」を入れてきましたが、ようやくわかってきたのは、本当に価値のあるものは高くないということです。赤ん坊のころ、育ててくれた母にお金を払った覚えはないし、楽しく一緒に遊んでくれた友達にお金を払ったこともありません。いろんなことを教えてくださった小学校中学校の先生方にもお金を払った記憶もありません。訪問販売のセールスマンに乗せられて、買ったら賢くなると勘違いしてノリノリになってしまった自分を信じて、母が大金を出して買ってくれた、家庭学習教材は、まったく使いませんでした(笑)。これは、今でも本当に申し訳ないことをしたなぁと思っています。明らかに貧しい家庭だったにもかかわらず、息子のためならと清水の舞台から飛び降りるような気持ちで買ってくれたはずです。死ぬまで恩返し続けないとですね(母への恩というのは返しきれるものではありませんが)。


アドラー心理学には、そこそこお金がかかりましたが(特に旅費)、でも、大学院で使った費用に比べたら安いもんです。大学院で学んだことや修士号をもらうこととは比較にならないほどの価値がありました。そして、極めつけは、仏教ですね。アドラー心理学は結局のところ便利に過ぎないんですが、真理であるお釈迦さまの教え、比較するもののない価値ある教えは、なんとタダでした。お師匠様であるスマナサーラ先生に1円もお支払いしたことはありません。もちろん、ご著書を購入したり、サンガに対してお布施をしたり、教えを聞きに行くための旅費がかかったりとか、そういうことはありますが、究極の教えが、ゼロ円なんですから。だからですね、新興宗教とか、宗教にお金をつぎ込んでいる方、あれって、鍵野が買ってしまって、飾ってあっただけの学習教材と同じですよ(いや、教材は本当に勉強したら役に立ったかもだから、違うか(笑))。悪いことは言いませんから、お釈迦さまの教えを聞いた方がいいと思います、タダですから(笑)。


看護師さんとか介護士さんとか、エッセンシャルワーカーの給料は安いと言いますしね。鍵野の稼ぎにしたって、一番役に立ってないなぁと思っていた大企業サラリーマン時代は安定した高給取りで、一番役に立っていると実感している今、野良カウンセラーとしてアドラー心理学をお伝えしている今が、一番の不安定&低収入(まぁ暮らしてはいけるので全然いいんですが(笑))というわけで、そんなものかもしれませんね。だって、高価なダイヤモンドは食べれないけど、同じ炭素からできている、ご飯は美味しく食べれて安いですものね。


アドラー心理学は価値相対論ですから、この世に絶対的な価値はないという立場ですし、仏教も無常・苦・無我で、そもそも「私」が成り立たないことを智慧で体験的に知るための教えで、「私」がないのに、その私が設定する価値なんかあるわけないんです。それでも、アドラー心理学も仏教も人がそれを学ぼうとするからにはそこに何か価値があると思っているからのはずです。それで、それは何かというと「人は幸福を目指すべき」という「価値観」は、アドラー心理学も仏教も前提にしていると思います。


幸福になんてなりたくないと本気で思っている人には、アドラー心理学は効きません。アドラー心理学が正しいと言ってるわけではなく、こうした方が幸福になると思いますよ、幸福になりたかったら、試してみませんか? と提案できるだけなんです、講座でもカウンセリングでも。だから、「相手を裁かない方が幸福になりますよ」というアドラー心理学の教えがあっても、「やっぱり相手を許せません。裁きます。怒ります、恨みます、悲しみます」というのも全然自由です。ただ、それでは幸福にはなりませんよと教えているのがアドラー心理学なんですね。


でも、本当は、生き物はみんな幸福になりたいって思って暮らしているはずなんですよね。幸福になりたいもの同士が、自分の価値観を押し通して、互いに裁き合って、どちらも不幸になってしまうって、とても残念で悲しいことだと思います。


アドラー心理学は真理ではなくて、便利に過ぎないんですが、でも、もう百年以上、多くの人が、この教えに沿うことで幸せに暮らしてきています。鍵野もそれを実感している一人です。どうか、幸福を目指しながらも幸福に暮らせていないすべての人がアドラー心理学に出会えますように。あるいは、真理に、お釈迦さまの教えに出会われますように。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。