アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

仏道修行の準備としてのアドラー心理学のすすめ

こんばんは、鍵野です。
夏ころまではずいぶん痩せていたんですが、秋くらいから昼と夜と二食、割としっかり食べるようになって、そもそも活動自体が少ないものだから、冬眠する熊さんほどではないけれど、備蓄燃料が増えてきた気がします(笑)。体重計に乗るのが怖いという心理はないけれど、たぶん3キロくらいは増えているかなぁ、夏に比べて、この感じだと。献血のお知らせがメールで届いていたので、そろそろ行こうと思っていたから、どうせそのときに体重を測って、何ヶ月か前との差がわかるので、それを楽しみにしておきます。最近、時計を見なくてもある程度の精度で時刻がわかるし、体を動かすときの重さとか、まぁウエストの感じでねぇ、かなり当てられる気がしてます。ヴィパッサナー実践のおかげで、前より感覚が鋭くなったかなぁ、腹八分目がわかるし、さっきも「あっ、息子が帰省するんで、好物のじゃがりこをたくさん買っておいたけど、何個も残ってるから、食べちゃおうかなぁ」とコーヒー淹れて、でも、夕飯食べて、やっぱりお腹のあたりがもう楽じゃなくて苦を感じていたので、手を伸ばさずに済んだのでした。


あれね、動画を見ながらじゃがりこを食べるやつ、娘もそういうのが好きだったけど、眼(動画の映像)、耳(動画の音、じゃがりこガリガリする自分が立てている音)、鼻(じゃがりこの匂い)、舌(じゃがりこの味)、身(じゃがりこをかみ砕く歯から顎に伝わる感覚)、と意(動画の内容を楽しむ)で、五感+意(いわゆる心)すべてが刺激される究極の快楽な気がします(笑)。文春砲にやられることもないし、安上がでいいと思うけどなぁ…こっちの方が、まぁ太るという副作用はあるかも(笑)。


仏教を学んで実践していくとわかることですが、結局、刺激を求めて刺激から刺激へとグルグル回っているだけなんですよね、私たち生命は。全部、苦に過ぎないんだけれど、新しい苦に心を持っていくと、さっきの苦が消えた気がするので、それで、本当はキリがないのに、次こそは永遠の楽があるんじゃないかなぁんて妄想でもって、じゃがりこに手を伸ばしてしまう(笑)。空腹の苦が満腹の苦に変わる途中に楽がある気がするけど、すべては無常なので、すぐに苦に変わってしまう、で、動画に集中してるうちに、満腹の苦は忘れられる、そのうち眼が疲れる苦が生じて、ちょっと休んで眼を閉じたりすると、苦が減っただけなんだけど、楽を感じてしまう。またまたそのままだと退屈の苦が表れて、こうしてブログを書いてしまったりする(笑)というわけなんですよね。本当にキリがない。死んだら終わるかと思えばそうではなくて、心はグルグル回転し続けるので、人間で生まれるかどうかは別として、新たな世界で新たな身体で(身体を持たない生命もありますが)刺激を求めてまた回転し続けるだけ…。これをお釈迦さまは輪廻転生とおっしゃったのであって、「私」なんてたかだか五十何年かの経験が投影されたプロジェクションマッピングのようなものに過ぎない物の怪がそのまま転生するわけではありません(笑)。


それで、じゃぁ出口はないのか? なら、もっと刺激を!テロでも戦争でも恥ずかしいことでもなんでもやってしまえ!となってしまいそうなものですが、ちゃんとお釈迦様は教えてくださっていて「解脱を目指しなさい」と、そして八正道というそこに至る方法もしっかり教えてくださいました。刺激を求めて怠けないで、今にしっかり気づいていなさいと、「不放逸」がお釈迦様の遺言でした。


今の瞬間しか存在しなくて、過去も未来もないので、お釈迦様は予言はなされませんでした。お釈迦様は生命のこと宇宙のこと世間のことを全部ご存知でしたが、今の世間は知らなかったはずです、まだ存在しなかったから。当時の男尊女卑の社会情勢に合わせて、(しぶしぶらしいですが)女性が出家することを認めた際も、たとえ阿羅漢に悟った女性であっても、まだ悟っていない男性のお坊さんに礼拝するという決まりがあったそうです。今の社会情勢だったら、違ったルールを設定されたんだろうと思いますが、真理を説く仏教ですが、矛盾だらけの俗世で存在し続けるためには、社会に合わせる様々な配慮が必要だったのだろうと思われます。


ということで、何が言いたいかというとですね(今、言いたくなっただけですが(笑))、仏教がこの社会の中で存在し続けていくためにも、アドラー心理学が必要だと思っているということにつなげたいなと。社会と別のルールで暮らしていける出家集団が、例えば昔のインドのような強大な権力を持った王の庇護のもとで、存在し続けることができるのであれば、よいのですが、現代社会ではそのような形は望めないと思います。となると、やっぱり出家はあきらめて、在家で一般市民として暮らしながら、しかも仏道を実践しようというときに、アドラー心理学を実践するととっても便利なんです。


アドラー心理学は、人と人とが争わず協力して暮らしていける社会の実現を目指しています。持っているもの、能力には当然違いがあるけれども、人としての価値は変わらない、平等であると教えています。これが、仏教の慈悲喜捨の教えにフィットするんですね。そして、アドラー心理学を実践する(=人と争うのではなく協力する方を常に選んでいく)ことで、貪瞋痴の煩悩が弱くなっていきます。すると、ますます仏道の実践がやりやすくなってきます。なので、競争に次ぐ競争の現代社会に嫌気がさして、いきなり仏道修行だ!というと、ギャップが大きすぎて、貪瞋痴の煩悩にさいなまされ過ぎる人もいそうなので、まずは、アドラー心理学を実践して、煩悩を弱くしておいて、それから本格的に仏道修行に入るという道もあるのではないかなぁと、今回は、仏教ファンをアドラー心理学ファンにしていこうというルート開拓の提案(宣伝?)でした。


仏教を学んでいるんだけど、なかなか修行が進まなくて悩んでいるという方は、正面突破もいいけれど、ちょっと仏道修行のお供にアドラー心理学を学んでみませんか? ひょっとしたらそれまでよりもの凄く楽になるかもしれません。かく言う鍵野は、アドラー心理学を学ぶために仏教を学んだのでした(笑)。それで、いつの間にか、やっぱり仏教という真理を学ぶために、便利に過ぎないけれど便利だからこそ現代社会でしっかり使えるアドラー心理学を学んでみてはいかがでしょうかとお勧めする人になってしまいました(笑)。


読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。

生きとし生けるものが幸せでありますように。