アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

再発防止

こんばんは、鍵野です。
日航機の乗客乗員が全員避難できたのは落ち着いてその瞬間瞬間にすべきことをなした乗員の日頃の訓練の賜物、プラスして、日本人が小中学校で鍛えられる集団行動に慣れているおかげもあるのかなと思いました。支援物資を届けようという任務の最中で命を落とされた海上保安庁の職員の方々もいらっしゃいますが、あれだけの事故で多くの人が助かったのは、不幸中の幸いと言っていい気もします。


自動車の交通事故は日常茶飯事ですし、鍵野も車対車の事故の当事者となったことが過去2回ほどありますが、やっぱり生身の人と人が歩いていてぶつかったとかいうときよりも凄い衝撃があります(まぁ相手がいわゆる怖い人だったら生身でも大変でしょうけれど(笑))。もともと持って生まれた自分の体を超えて道具を作り出してまで使う猿である人間だからこそ引き起こす事故なわけですが、車でも大変なのに、もの凄いスピードで着陸する飛行機がぶつかるなんてことがあったらそりゃぁ大変ですよね。


そんな事故が起こらないように緻密で厳密なコミュニケーションがプロ同士の間で交わされているはずですが、それでも起きてしまうのが事故なんですね。勘違いが起こらないような安全策が何重にも張り巡らされていたはずとは思うのですが、コミュニケーションに完璧はあり得ないんですよね。こういう事態が起こったということはヒヤリハット、ヒヤッとしたり、ハッとしたことは、その何百倍もこれまであったのではないかなぁ…。なんとか事故は防げたけど、ヤバかったなぁということは、きっと、こうした定期運航しているわけではない航空機のスケジュールを入れてシフトを組み直したときとか、そんなはずではと互いに思う出来事があったのではないかなぁ。互いに悪意はないんですよね、勘違いしているだけで、それぞれよかれと思って、その人に入手できる情報から最善と思われる行動をするんだけれども、それが結果として惨事を招いてしまうというようなことが。


私たちの普段の暮らしの中のコミュニケーションも同じことだと思います。互いに重機に乗ってぶつかり合うわけではないので、人命に関わるような事態は医療現場等を除けば、そうそう起こらないかもしれませんが、事故は事故なんですよね、カウンセリングで相談に来られた方がお話されることも。


人の行動には目的があります。そしてその目的は社会に所属することです。社会とは、夫さんにとっての妻さんかもしれないし、妻さんにとっての夫さんかもしれない。お子さんにとってのお母さんお父さんかもしれないし、お母さんお父さんにとってのお子さんかもしれない。部下にとっての上司かもしれないし、上司にとっての部下かもしれない。みんなよかれと思って、目の前の人と仲間になろうと思って行動します。それでうまく仲間になれたら誰も相談には来ないわけですが、こんなはずではと思うような結果となって、目の前の人と感情的にぶつかってしまったりして、悩んで相談に来られるわけです。


お話をお聞きすると、事実を淡々と話される方はあまりいらっしゃらなくて、
1.あの人がこんなことをした。
2.それで私はとっても困った。
3.あの人はなんて悪い人なんだろう。
4.私はなんてかわいそうな人なんだろう。
5.どうしたらあの人を善い人にできるだろうか。
6.あの人が善い人になってくれさえすれば私はかわいそうな人じゃなくなるのに。
というお話をされます。

アドラー心理学の学びが進んで、かなり知恵がついてきてた人は、3からが変わっていて、
1.あの人がこんなことをした。
2.それで私はとっても困った。
3.あの人はなんてかわいそうな人なんだろう。
4.私はなんて悪い人なんだろう。
5.どうしたらあの人をかわいそうな人じゃなくせるだろうか。
6.あの人がかわいそうな人じゃなくなりさえすれば私が善い人になれるのに。
というお話をされることもあります。


でも、まぁ、いずれにしても、このままではグルグル考えが回っているだけでそこに出口はないんですね。

カウンセリングが成功した場合、
1.あの人がこんなことをしたのはあの人も困ったからだ。
2.それで私もとっても困った。
3.私は何を目指していたんだろう。
4.あの人は何を目指していたんだろう。
5.あの人も私も満足する目標はなんだろう。
6.どうしたらあの人も私も満足する目標に到達できるだろう。
7.(あの人はここにいないんだから)次に同じようなことがあったら、私があの人も私も満足する目標に向かって違う行動を試してみよう。
というお話に変わります。ただし「あの人はなんてかわいそうな人なんだろう」のパターンで話される場合は、1と4がそれぞれ2と3とかみ合わないことがはっきりわかってしまって、カウンセラーを目指すアドレリアンがよくかかる(笑)「善い人願望」症候群のお話だったなぁ、これ相手は全然困ってなくて、自分が善い人アピールしたいだけだったとわかってちょっと恥ずかしい感じで終わることもあります(笑)。それはそれでいい学びになるかもしれません(鍵野も何度もそんな話でカウンセリングしてもらったことがあった気がします)。


互いのことを上でもなく下でもない平等な存在として尊敬し合えていて、相互に信頼関係があり、協力できるのであれば、あとは目標を一致させることさえできれば、コミュニケーションの事故は起こりません。相手が悪い人だったり、私が悪い人だったり、相手がかわいそうな人だったり、私がかわいそうな人だったりすると、簡単に事故が起こります。そして、その「悪い」とか「かわいそう」とかの判断は、すべて「私」の価値観から来ています。


アドラー心理学は価値相対論の心理学です。価値相対論というのは、この世にどんな場合でも「正しい」とか「美しい」とか「優れている」といった絶対的な価値は存在しないという意味です。それでも人は時々刻々と判断しないでは生きていられません。この食べ物は食べてよいものだと判断したから口に入れて消化しているわけで、その行為はときどき食中毒などという結果となって間違った判断であったことがわかる場合がありますが、そのときは正しいと判断して行動したわけです。なので、価値観(アドラー心理学用語で「私的感覚」と言いますが)なしに生きることは人間としては不可能なので、やっぱり事故は起こるんですが、でも、その価値観はあくまでも私の相対的な価値観に過ぎなくて、世の中どこでも誰にでも適用すべき立派なものではないんだと知っておけば、無闇に人を「悪い」とか「かわいそう」と裁かなくて済むようになります。そうすれば、間違ってたら「ごめんなさい」と謝れば、相手を裁いていなければきっと許してくれるでしょうし、そんな取り返しのつかないようなコミュニケーション事故はなくなるはずです。


何度か書いてますが、要はそんなものは好き嫌いに過ぎないんだと思っておけば(ちなみに鍵野はパクチー嫌いです(笑))、そんな偉そうに調子に乗ることも少なくなる気がします(自戒を込めて)。そして、国や文化や時代によって、その好き嫌いの重なる部分のグラデーションに偏りが生じて、多数決的に自分の好みが世の中の好みと重なったりすると、勘違いして意気高に少数派を裁いてしまう人たちも出てきますが、昔は超多数派だったちょんまげをしている人は今はほとんどいないわけですから、常に多数派でいようとキョロキョロ世の中を見渡して、人の意見伺いに忙しく暮らすのもあまりおすすめしません。知的な感じがしないですもんね(私的感覚が出てしまった(笑))。

 

幸いなことにアドラー心理学を学べば、コミュニケーション事故の多くは防ぐことができます。興味のある方はぜひお近くの野田俊作顕彰財団(AIJ)か日本アドラー心理学会で学ばれている方をつかまえて話をしてみてください。何かのヒントが得られると思います。


読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。

生きとし生けるものが幸せでありますように。