<2023年10月31日wrote>
この「絶対的全体論」は、野田先生の長年の研究の結果として発表されたわけではなく、トーキングセミナーという最初の本に既に書いてあることなんです(その後、野田先生は英語で論文も書いて国際学会で発表されています)。今は復刊して『性格は変えられる』(野田俊作著 創元社刊)として発売されていますが、p.226 l.9~「本当は世界と自己との間には何一つ対立はない。対立だと思っているものは、自己が勝手にそう決めつけているだけで、本当は対立なんかない。」とあります。これ、異端なんですよ、激しく異端。昨日も書いたように、実は正統のアドラー心理学理論として受け入れられている「全体論」自体が、西洋近代科学の前提であるデカルト以来の物心二元論を乗り越えちゃってると思うんですが、まだそんなん知らんもんねという態度ではやって来れたんですね、アドラー先生も火あぶりになったりしないで済んだと。ところが、自分が部分に分けられない全体としての存在であるという議論を乗り越えて、世界と自分(自己)にも対立がないと言ってしまっては、これはもう世が世なら異端審問で火あぶりの刑は免れそうにないです。キリスト教会と合意した科学の活動範囲を越えて、神の領域に踏み込んでしまっている発言なんですね。アドラー心理学が科学であり続けたいならば、触ってはいけないところだったでしょうに、さすが野田俊作先生。ただ、問題はそこだけではなくて、「絶対的全体論」を受け入れてしまうと、世界と個人との対立状態としてのライフタスクが存在しないことになるので、そうするとアドラー心理学が成り立たなくなってしまいます。
野田先生は『野田俊作論文集Ⅱ』(AIJ刊)に収められている論文(初出はアドレリアン第14巻第1号(通巻第32号)2000年6月)「アドラー心理学と仏教における全体論」で以下のように述べています。「仏教は、世界はひとつの全体であり、個人と宇宙は一体だと考える。個人と世界との間の対立はただの見かけ上のもので、実際には、世界は一体の調和のあるコスモスであり、個人をその一要素として含んでいるのである。個人と世界の間には葛藤は存在しない。これを絶対的全体論(absolute holism)と呼びたいと思う。(中略)アドラーは、一方では個人と世界との間の葛藤を認め、他方では世界と個人はひとつだという。目標追求の概念と共同体感覚の間には不調和があるが、アドラーはこの二つを調和させようとしていた。仏教では、目標追求は悟りを開いていない人のためのものであって、目覚めた人はすべての目標を捨てるのである。(中略)宇宙の統一性が一元論の立場から理解されたときには、個人と宇宙の本質との間の神秘的合一が仮定されなければならない。これは神秘主義である。全体論の視点からは、しかし、個人と世界の統一性を神秘的な雰囲気なしに考察することができる。共同体感覚は、それゆえ、絶対的全体論の視点から考えるならば、神秘的な不思議な考えではないのである。」
どうですか? やっぱり激しく異端な感じがしますよね(笑)。野田先生の学説を紹介するという文脈であれば別ですが、普通にアドラー心理学を学ぶ人に教えられる標準的な内容には入ってきません。で、論文を書くことを商売にはしていない鍵野としては、この論文を読むことに「絶対的全体論」を知ることに、どんな価値があるのか?ですが、臨床の立場で考えると、相談に来られた方にライフタスクの解決を目指さずに、そもそも問題じゃないかもというスピリチュアルな方向のカウンセリングができる可能性があるということですかね。もちろん相談に来られた方がスピリチュアルな問題解釈に納得されそうな方であるという、読みというか情報があるのが前提ですが。アドラー心理学は真理ではなく便利であるという立場に立てば、野田先生がどう思われていたかは別として、相談者さんがスピリチュアルな世界理解をされる方であれば、「絶対的全体論」を方便としてでも持っているカウンセラーの方が役に立てる可能性が高くなるということかな。
ただし、アドラー心理学カウンセリングという、そもそも仮想に過ぎない世界で相談者がより幸せに暮らせる仮想を手に入れるお手伝いをしているというお約束を踏み越えて、相談に来られた方に仏教の守備範囲を語る必要が入ってしまうと、仏教徒である鍵野はもうそこでは仮想という方便に逃げられないので、相談者の受け入れられる仮想に合わせるという意味でのスピリチュアルなカウンセリングはできそうにないなぁと。野田先生は「仏教は、世界はひとつの全体であり、個人と宇宙は一体だと考える。」とおっしゃっていますが、仏教といってもとても広くて、そういう仏教もあるのかもしれませんが、鍵野の学んでいる初期仏教、お釈迦さまの教えだけをそのまま残したと言われているテーラワーダ仏教(上座仏教)では、お釈迦さまは「宇宙について考えても人間には理解できないからやめておきなさい」というようなことをおっしゃっていて、テーラワーダ仏教の理論編とも言うべきアビダンマでは、真理は「色、心、心所、涅槃」の4つしかないと述べられています。「色=物質」、「心=透明な水の入った器のようなもの」、「心所=心に溶けているもの(透明な水を色水に変えるような)、怒りとか、欲とか、無智とか」、「涅槃=悟りの世界、言葉で語り得ないもの」の4つだけが存在するのだと。宇宙だとか生命だとかさえ、便利だからそう仮に設定している施設であって、心が色に触れて仮に生み出された想(色、受、想、行、織の五蘊の一つ)であって真理ではないのです。何か一つの全体があるという考えは、すべては無常であり無我であるという仏教の教えに反すると思います。一つの全体が、個我を超えた真我を求めることに、それを流れと呼ぼうがなんと言おうが、そこに永遠に変わらない何かがあると求めれば、結局は我を求めることに等しいのではないでしょうか。
読んでいただきありがとうございます。
生きとし生けるものが幸せでありますように。