アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

平等と価値と道具

<2023年11月26日wrote>
こんばんは、鍵野です。
 昨日は福岡で大先輩との「エピソード分析」の勉強会でした。いつもより参加者は少なかったけれど、初めて「エピソード分析」によるアドラー心理学カウンセリングを体験していただけた方がいて、「エピソード分析」はよくご存じなのですが、カウンセリングならではの気づきもあったようで大変意義深い会だったように思います。カウンセラー役をさせてもらった鍵野にとっても学びの多い一日でした。勉強会でのカウンセリングとはいえ、実際に困ったり悩んだりされているお話ですし、守秘義務もありますので、内容については書けないのですが、今回の相談で何を持って帰ってもらうかという、ちょうどいいところの塩梅を探るあたりで、いい経験をさせてもらえました。欲張り過ぎて、あれもこれも気づいてもらおうとして、勇気をくじいてしまわないように、それでいて、相談者さんが振り絞ってくれたご自分に向かう勇気の大きさに見合うだけのものはちゃんと持って帰っていただけるように、踏み込むべきところは踏み込むというあたりでですね。毎回思いますが、お一人お一人みんな違うんですよね。一期一会、助けて助けられる、この貴重な機会に感謝します。ありがとうございました。
ところで、今日は、「平等」についてまた考えてみたいと思います。アドラー心理学母語、ドイツ語の「平等」という言葉"Gleichwertigkeit"は、等しいという意味"Gleich"と価値という意味の"wertigkeit"が合わさってできた言葉のようです。だからあえて詳しく訳せば「価値平等性」というような意味になります。この「価値」について、文脈によって~の価値と限定して使うことはできますが、アドラー心理学では能力や権力や財力のようにある範囲に限定せず、人としての価値は等しいという意味で「平等」という言葉を使います。そして、これはびっくりされる方もいらっしゃるかもしれませんが、事実です。すべては仮想に過ぎない「仮想論」という理論的前提を持ちながら、人としての価値は等しいというのは事実なんです。ただし、これは何か高精度の秤があってAさんとBさんを比べてみたら等しかった、全人類を比べてみたら等しかったという意味での科学的事実ではありません。実証実験で客観的データとして確かめられることではないんですが、でも実感することはできる事実です。共同体感覚という思想があるのが、ただの科学ではないアドラー心理学の特徴ですが、その共同体感覚を表現すると「人としての価値は等しい」ということに(も)なるんです。それって「信仰とどう違うの?」と聞かれたら、たしかにアドラー心理学の価値を信じて、それなりにがんばって実践してみる必要があるという意味では、入り口として「信仰」に似た部分はあるかもしれません。でも、死後天国にとかいう話とは違って、実践すれば実際にそれを感じることができるところが信仰とはまったく違うところだと思います。まぁでも、これは体験して実感してみないとやっぱりわからないところではあると思うので、アドラー心理学を実践すれば、「人としての価値は等しい」ということを事実として感じることができると言っている人(鍵野)がいるということ自体は事実と認めていただいて、もう少し読み進めていただけらら嬉しいです。
そして、人が他の人と一緒にくつろいでいられる時、その人は他の人と「価値平等性」があることを疑っておらず、互いに仲間として共同体に所属できています。同じことですが表現を変えて、互いに仲間として所属し合っていると言ってもいいと思います。そしてこれを互いに「平等の位置」にいると表現できます。これ、「互いに」がポイントで、私は「平等の位置」にいるけど、私から見てあの人は上とか下にいるっていうのはあり得ません。私から見て、みんなが「平等の位置」にいるときしか、「平等の位置」は成立しません。だって、あの人は上とか下って見えた思えた瞬間に「価値平等性」が崩れて、自分が下とか上になってしまっているからです。
それで、コミュニケーション例で具体的に考えてみたいんですが、今夜は外食にしようということになって車でレストランに向かっている車中での会話…
1.夫さん:久しぶりだね、あそこ行くの。
2.妻さん:そうね、半年ぶりくらいかな? 結構美味しかったよね。楽しみ。
3.夫さん:うん。お腹空いてきた~、早く食べたい(笑)。
4.妻さん:お昼あんなに食べたのに(笑)。(愛用のナビの指示に従って交差点を直進)
5.夫さん:えっ? 曲がるんじゃないのここ?
6.妻さん:なんか真っすぐみたい…
7.夫さん:だってあそこだよ、ほらインターに向かう方の通り沿いにあったじゃない。
8.妻さん:右折で入ることになるからかなぁ…
9.夫さん:すっごい、遠回りだよ、これ
10.妻さん:もう~っ、いちいち文句言わないでよ! いいじゃないの、着くんだから!
11.夫さん:ごめん…
仲の良いご夫婦の楽しい会話が暗転してしまい…せっかくの楽しい食事の前にもったいない感じになってますよね。この会話、3まではお二人とも「平等の位置」にとどまっていそうですが、4で妻さんが交差点を直進したところで、夫さん、「平等の位置」から「劣等の位置」に落ちてしまったみたいです。それで、これはいかん!と陰性感情をエネルギーにして5と発言しました。これが自分にとって困った事態を良い状態に戻そうとした「対処行動」ですね。それに対して妻さんの6の発言は、やっぱり少し「平等の位置」から「劣等の位置」に落ちての発言だったかもしれませんが、ひょっとしたらまだ妻さんの中では「平等の位置」をキープしていたかもしれません。でも、10では明らかに妻さんの対処行動として、陰性感情を追い風にして発言されているのがわかります。
で、このエピソードをカウンセリングするとしたら、夫さんが相談に来られる場合を考えると、夫さんが「平等の位置」から外れて、陰性感情を使って自分だけの目標を追求するようになったと思われる時点5の発言を起点に分析します。妻さんが相談に来られる場合を考えても同じく、陰性感情を使って自分だけの目標を追求するようになったと思われる時点10の発言に注目して分析します。それで、そもそものこの場面での共通の目標だったであろう「二人で食事を楽しむ」ということと、もともとお二人が「平等の位置」にいたこと、たいていは「平等の位置」で暮らしていることを思い出してもらってから、今度似たようなことが起きたら、どう行動したいかをお聞きして(5とか10ではなく、協力的な行動をしたくなっているはず)、念のためロールプレイでその行動をリハーサルしてもらうという流れになりそうです。
「平等の位置」にいると、相手と自分は互いに「人としての価値は等しい」存在として所属し合っているので、互いにくつろいでいて幸せを感じます。何に引っかかるかは人それぞれですが、「劣等の位置」に落ちてしまって、そこから陰性感情を使って、回復しようとすると、「優越の位置」を目指した行き過ぎやり過ぎの行動が選択されることになります。本当はもともと「平等の位置」にいたことをそれぞれが思い出すだけでいいんですが、「劣等の位置」に落ちた人は、今度は相手を踏み台にして「優越の位置」に上がろうとして、相手が不快に感じるような行動を相手にぶつけてしまいます。そうすると、相手も同じく「劣等の位置」に落ちて、自分を踏み台にして「優越の位置」に上がろうとして、自分が不快に感じるような行動をぶつけ返してきます。こうして権力争いとも言いますが、もともとの水平、平等の位置で仲良くしていたことはすっかり忘れてしまって、相手が上なら自分が下、自分が上なら相手が下のシーソーゲームが繰り返されます。どこかで読んで上手い表現だなと感心したのですが、楽しい言葉のキャッチボールがいつの間にか痛い言葉のドッジボールに変わってしまっている(笑)。
それで、シーソーゲーム中の相手は、もはや人ではなくなってしまっているんですね。互いに「平等」な人として協力し合っていたはずのあなたと私が、それぞれ、あなたは私の私的な目標追求のための道具になってしまっているし、私はあなたの私的な目標追求のための道具になってしまっているんです。それぞれが自分が正しい、優れている、強い、美しい、賢い、などなどを証明するための道具として相手を使い合う関係に変わってしまったということです。そして、道具には価値の優劣があります。あの車はこの車より速い、あの包丁はこの包丁より切れる、あのスマホはこのスマホより高性能だ、とかですね。私たちは、普段、学校でも職場でも街を歩いていても、人と人を比べて、自分も比べられて、何らかの物差しで測られて暮らすことに慣れ切っていますが、あれは要するに自分も含めた人をなんらかの道具に貶めている証拠なんですよね。でもですね、みんなが信じている物差し、現代社会ではお金ですね、そのお金(になる)という物差しで測って、価値が高いということは、実際に物質的に豊かになれるという作用効果が現実に生じるので、事実と信じてしまいやすいですが、これは「平等」と違って、仮想なんです。みんなの信じている嘘なんですよ。信じている人がどれだけ多くても嘘は嘘です。だって、さっきの証明と同じですが、実際に感じることができるからですね、アドラー心理学を実践していると、あれだけ事実と思って気になっていた価値が相対的なものに過ぎないことに気づいてしまうからです。劣等感を感じていたことが気にならなくなるということが起きます、本当に。
なので、劣等感を感じて、陰性感情をエネルギーに相手に何かをぶつけたくなったとき、「あっ、相手を道具にしてしまっている!」と気づいてください。人を道具にする人は、かんたんに人の道具にされてしまいます。封建制だとか農本性だとか資本制だとか共産制だとか、何でもいいんですが、人が人を道具にしてしまったらその社会に幸せはありません。逆に政治体制がどうであろうが、本当に目の前の人を人として平等な仲間として扱う人で構成される社会であったならば、みんな幸せになってしまいます。悲惨な世界大戦を経験したアドラー先生が、熱心だった左翼的政治運動から距離を取り、凄腕臨床家としての名声や、科学の枠組みをかっちり守る学者の位置には安住せず、家庭と学校から共同体感覚を育成することを目指してアドラー心理学の普及に生涯をかけられたのは、この「人が人を道具にしない社会」の実現を目指していたのだと思っています。まずは、あなたのご家庭から、目の前の人を道具にしない暮らしを実現していきましょう。そのためにアドラー心理学を一緒に学んで実践していきましょう。
読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。