アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

仲間はどこにいるのか

こんばんは、鍵野です。
晦日ですね。我が家にテレビがあった7年前までは、年末年始定番のテレビ番組を見て、それで世間様と一緒にお正月を迎える感じがあった気がします。テレビを追い出して(笑)からは、それぞれがそれぞれにスマホを介して外の世界とつながりながらも、少しは落ち着いて暮らせるようになったかなぁとは思っています。


それで、鍵野の子どもの頃は、アニメとか特撮ヒーローものの年末スペシャル番組を見るのが楽しみだったのを思い出します。夕方からは、レコード大賞からの紅白歌合戦という不動の流れがあって、ゆく年くる年でお正月に突入という感じでした。年が明けても、お笑い番組や、かくし芸大会なんかを見ながら、お雑煮におせち料理をいただいて…と、本当にどっぷりテレビに浸かって暮らしていました。


テレビって人類の歴史のそんなに前からあるわけではないし、アドラー先生の生きていた時代には、まだテレビはなかったのではないかと思ったら、まだアドラー先生が生きていた1935年にドイツで既にテレビ放送は始まっていたらしいです。ちなみにアドラー先生の動画、テレビ放送ではないですがニュースフィルムの映像が残っていて(検索したら出てきます)、ウィーン訛りの英語を聞くことができます。

 

アドラー心理学で考えると、人がテレビを見るのは、目的があって見ているわけで、その目的はといえば、なんとかの一つ覚えではないですが、もちろん「所属」です。テレビを見ると、何かの共同体の仲間として所属できた感じがするから、わざわざテレビを見るんですよね、私たちは。


だから、テレビのアナウンサーの「おはようございます」に応えて、「おはようございます」と頭を下げているおばあちゃんがいても、別に頭がおかしくなったわけではなく、そのアナウンサーと仲間であることを確認しているわけですよね(相手は知らないと思いますが)。そこまでブラウン管(古い(笑))じゃなくて、液晶パネルとか有機ディスプレイの向こう側にのめり込まないとしても、MCとひな壇芸人たちのトークを仲間感覚で聞いているのも同じことですよね。本当は会ったことも話したこともない人たちなのにですね。その所属感を、一緒にテレビを見ている家族や友人と共有できると、自分たちも、あの会ったことも話したこともない芸能人たちの仲間であるという感じが、よりリアルになるのだと思います。これって、その対象が芸能人からユーチューバーになっても同じことですね。テレビや動画のコンテンツは、ニュースであろうがドラマであろうが教育番組であろうが同じことだと思います。要は、それを見ているとき、自分が仲間外れじゃない、何かに「所属」できている感じがあるから見るんだと思います。


それで、そのテレビって、要はモノやサービスを売りたい企業がスポンサーとしてお金を出して、私たちの興味を引く、私たちが所属したくなるような番組を作ってもらって、コマーシャルを見てもらう、で、その企業イメージ、その企業のモノやサービスの仲間にもなってもらう、所属してもらうことで、テレビを見ている私たちに、選んでもらう買ってもらうためのシステムなんですよね。NHKのスポンサーは国民ということになってはいますが…どうなんだろう?


テレビの、そういう購買行動を操作される感じが嫌だし、それよりも、そんな会ったこともない人、視聴者の心配をするふりは上手かもしれないけれど、実際に目の前で助け合う相手ではありえない人たちの話を聞くより、目の前の本当に助け合って暮らしている家族と話せばいいじゃない(テレビの話題以外でも)、というのがずっとあって、それで、思い切ってテレビを追放したのでした。このときは本当にせいせいしたというか、スッキリして気持ちよかったのを覚えています。まぁ、結局ユーチューバーとかゲームに所属することになって、すごく話が増えるわけでもないですが、テレビのコンテンツに比べたらバリエーションが桁違いなので、これ結局鍵野のライフスタイルが引っかかるところなんですが、ただただみんなと一緒に流される感じの嫌さが薄まって、まぁテレビよりはいいかと思ったのでした。結局、ネットでも広告見せられちゃうのは同じなんですが(笑)。


テレビやその他のメディアに接することで、私たちの欲と怒りと無知が刺激されて、グルグルグルグルかき回されると、私たちは目の前の人と仲良くただ落ち着いていることができなくなって、いろんな感情を作り出して、行動して、結果として、世の中のモノとサービスの流れが勢いづきます。そのモノとサービスの流れが勢いづけば、その流れを媒介するためのお金も、銀行というシステムを通して、この世界というゲームボード上にどんどんどんどん生み出されていきます。これを信用創造と言います。刺激が刺激を生んで際限なく回転し続けるこのシステムは、それが自分たち生命のためになるかならないかなどはお構いなく、ただただ欲と怒りと無知の刺激を強める方向に向かっていきます。何だっていいんです。戦争だろうとテロだろうとなんだっていいんです、そこに刺激さえあれば。


だから、テレビを切って、スマホも切って、PCも切って(ブログも書かず(笑))、目の前の人たちとつながって、落ち着いていましょう。私たちは十分すぎるほどモノもサービスもいただいています。わざわざ欲と怒りと無知をかき回さなくてもいいんです。着るものも、食べるものも、住むところも、薬も今必要なだけはあります。今、自分に必要なだけでとどめておければ、わざわざ奪い合わずとも、私たち生命が分かち合うだけのものは十分あるはずなんです。みんなが不安になって、生きているかどうかも定かでない、将来のためにいるかどうかわからないものを必死でかき集めるなんて、そのせいで周りの生命が今必要なものが手に入らなくなるなんて、あまりにも滑稽な話だと思われませんか。


みんなが必要なものだけで満足する社会では欲と怒りと無知を掻き立てるコンテンツはいらなくなります。紅組が勝とうが白組が勝とうがいいじゃないですか。大晦日の格闘技イベントの興奮もいりません。第九も芝浜もいらないのかもしれません。とりあえず手を取り合って暮らしていくことはなさそうな人の音楽や話術に感動する暇があったら、もう少し目の前の人を慈しんでみませんか。


読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよいお年をお迎えください。

生きとし生けるものが幸せでありますように。