<2023年10月26日wrote>
おはようございます、鍵野です。
昨日は、福岡の某所で大先輩の主催する歴史のある自助会に参加していました。いいですねぇ、アドラー心理学の仲間と思う存分アドラー心理学の話ができるというのは。学習歴の違い、関心の違い、性別、年齢、職業などなど、みなさんいろいろ違うわけですが、アドラー心理学を学びたい実践したいという共通の目的に向かって、定期的に集まって、最近学んだこと、気になっていることなどシェアして意見交換をすることで、また新たな気づきが生まれる。1ミリずつか1ミクロンずつかはわからないけど、それぞれのペースで一緒に歩いていく仲間がいるというのは。入ったら抜けられないアドラー沼かもしれませんが、いいじゃないですか、こんなに前向きにはまれる沼ら、どんどんはまりましょう、蓮のように綺麗な花が咲くかもしれませんよ(笑)。
と他人事のようには考えられなくて、じつは、アドラー心理学を学ぶ人たちにも、似たような「仲間かどうか」の態度決定を迫られる事態が起きたのは知る人ぞ知るところです。今では、どちらもアドラー心理学を学ぶ登山道の違いに過ぎなくて、どちらも鍵野にとっては仲間なのですが、2年前に、野田俊作顕彰財団(AIJ)ができ、日本アドラー心理学会とAIJと、野田先生の伝えられてきたアドラー心理学を学ぶ団体が2つになってから、どちらからでも同じように学ぶという人はあまりいなくて、AIJで学ぶようになって日本アドラー心理学会を退会された方も多くいました。
ということで、どうも「仲間」というのも、そんなに素晴らしいものとして無批判に使える概念でないような気がしてきています。人間に限らず、他の動物も、ライオンやオオカミなんて群れで協力して狩りをするんだし、象は群れで子育てをするし、大分の観光スポット、高崎山でも、サル群ごとにボスがいて、ケンカもしながら仲間として行動していますよね。私たちはまだ動物レベルなのかもしれません。
「私たち仲間だよね」の言外に、「あいつらは仲間ではない」が入っていると、それはもうアドラー心理学ではないのではないかと… 「まだ仲間になれていない」人たちがいるのは事実だけど、それはあいつらのせいではなくて、自分たちのせいが多分にあって、まぁアドラー心理学ですから、一方的にどちらが悪いということではなくて、もしその状態が望ましくないものであるならば、どちらも悪いということだと思います。でも、相手を変えようとするのではなくまず自分が変わる方を選ぶのがアドレリアンなので、「あいつら」のためにも自分たちに何ができるかなと考えて行動していけば、やがては「あいつら」も、気づいたら「私たち」の中に入っているのではないかと、そんな夢を描きながら、今日も自分にできることをしていこうと思っています。
読んでいただきありがとうございます。
みなさま今日もどうぞよい一日を。
生きとし生けるものが幸せでありますように。