アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

仲間っていいよね…本当に?

<2023年10月26日wrote>
おはようございます、鍵野です。
昨日は、福岡の某所で大先輩の主催する歴史のある自助会に参加していました。いいですねぇ、アドラー心理学の仲間と思う存分アドラー心理学の話ができるというのは。学習歴の違い、関心の違い、性別、年齢、職業などなど、みなさんいろいろ違うわけですが、アドラー心理学を学びたい実践したいという共通の目的に向かって、定期的に集まって、最近学んだこと、気になっていることなどシェアして意見交換をすることで、また新たな気づきが生まれる。1ミリずつか1ミクロンずつかはわからないけど、それぞれのペースで一緒に歩いていく仲間がいるというのは。入ったら抜けられないアドラー沼かもしれませんが、いいじゃないですか、こんなに前向きにはまれる沼ら、どんどんはまりましょう、蓮のように綺麗な花が咲くかもしれませんよ(笑)。
 それで、「仲間」について考えてみたいんですが、これ、別にアドラー心理学に教えてもらわなくても、みなさん人間なので「仲間」について体験して知っていると思います。最初の仲間は母親であることがほとんどのケースですね。そこから、父親が仲間に加わって、さらにきょうだいや祖父母、親戚、近所の人、保育園や幼稚園の先生、友達とどんどん仲間の輪が広がっていきます。そして、学校や地域、国というところまでは体験したことがあると思います。オリンピックとかワールドカップとかで自分の国を応援したくなるのって、会ったこともない選手でも同胞として自分の仲間と思っているからですよね、やっぱり。
そして、面白いなと思うのが、高校野球とかで自分の母校は負けたんだけど、勝った高校を自分の県の代表として応援するときの気持ちですね。その先があると応援したくなるんですね、あれ。日本一で、そこがゴールだったら、決勝戦で自分の応援していたチームが負けたら、もう勝ったチームを応援する機会がないので、応援できません。さらに、アジア大会があって、その先に世界大会とかがあったら、アジア大会で日本が韓国に負けたとしても、世界大会では韓国を応援することもあるかもしれませんね。
アドラー先生が、共同体感覚の説明として、その仲間の輪をどんどん広げて、地域、国、人類、他の生き物、鉱物、地球、太陽系、銀河系、宇宙… と育てていくんだというような説明をしていたことがあります。神がかっているというかスピリチュアルな感じがしますが、あえて卑近な例で考えると、さっきの野球の例のように、どんどん話を広げていくと、勝ち負けを超えられる可能性があるという気もしてきます。宇宙大会の決勝戦の応援に行く頃には寿命が尽きてしまうでしょうし(笑)。M78星雲のチームを自分の仲間として応援する気になった人類であれば、地球の表面の僅かな面積の争奪に命をかけるアホらしさに気づいているでしょうし…。
ただ、「仲間」と言ったとたん、仲間でないものの存在が前提されているのが気になるところです。「仲間=味方」と捉えて、それ以外は「敵」という極端な考えの人もいるように思います。「仲間外れ」という表現もありますね。敵がいるから仲間になるという感じもあるかもしれません。あれだけ個人主義が徹底して、州ごとに法律もかなり違っていて、ほんとに国というよりは州がゆるく集まっているだけという感じの米国が、戦争ということになると、民主党共和党も協力して、国中が一丸となって(仲間になって)敵(とみなしたもの)をやっつけるというのも、敵の存在があって初めて団結できるという悲しい現実かもしれません。
と他人事のようには考えられなくて、じつは、アドラー心理学を学ぶ人たちにも、似たような「仲間かどうか」の態度決定を迫られる事態が起きたのは知る人ぞ知るところです。今では、どちらもアドラー心理学を学ぶ登山道の違いに過ぎなくて、どちらも鍵野にとっては仲間なのですが、2年前に、野田俊作顕彰財団(AIJ)ができ、日本アドラー心理学会とAIJと、野田先生の伝えられてきたアドラー心理学を学ぶ団体が2つになってから、どちらからでも同じように学ぶという人はあまりいなくて、AIJで学ぶようになって日本アドラー心理学会を退会された方も多くいました。
ということで、どうも「仲間」というのも、そんなに素晴らしいものとして無批判に使える概念でないような気がしてきています。人間に限らず、他の動物も、ライオンやオオカミなんて群れで協力して狩りをするんだし、象は群れで子育てをするし、大分の観光スポット、高崎山でも、サル群ごとにボスがいて、ケンカもしながら仲間として行動していますよね。私たちはまだ動物レベルなのかもしれません。
「私たち仲間だよね」の言外に、「あいつらは仲間ではない」が入っていると、それはもうアドラー心理学ではないのではないかと… 「まだ仲間になれていない」人たちがいるのは事実だけど、それはあいつらのせいではなくて、自分たちのせいが多分にあって、まぁアドラー心理学ですから、一方的にどちらが悪いということではなくて、もしその状態が望ましくないものであるならば、どちらも悪いということだと思います。でも、相手を変えようとするのではなくまず自分が変わる方を選ぶのがアドレリアンなので、「あいつら」のためにも自分たちに何ができるかなと考えて行動していけば、やがては「あいつら」も、気づいたら「私たち」の中に入っているのではないかと、そんな夢を描きながら、今日も自分にできることをしていこうと思っています。
読んでいただきありがとうございます。
みなさま今日もどうぞよい一日を。
生きとし生けるものが幸せでありますように。