アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

本当に所属を目指しているのか

こんばんは、鍵野です。
11月も明日で最後ですね。今夜は焼き肉!じゃなくて、海鮮チゲの激辛カップ麺&アボカドスライスをいただきました。朝は食べない生活を何十年も続けていて(出張とか旅行でホテルに朝食が付いてたら食べちゃうけど)、夜は毎日、慈悲の瞑想とヴィパッサナー実践をしてから寝るんですが、空腹の方が瞑想の具合はいいので(眠くならないしスッキリしてる)、昼だけ食べる生活をしばらく続けていたら、だいぶ体重が落ちて(まぁそりゃぁそうかな)、よく周りの人から(特に母から)心配されるので、最近は夜も一応食べるようにしています。お釈迦さまとそのお弟子さんもそうでしたが、出家された方々は、午前中にしか召し上がらないんですってね。回数は何回でもいいらしくて、托鉢等で布施されたものを必要なだけ食べていいんだけど、午後は召し上がらなかったと。欲から離れるのもあるし、修行に集中するためですよね、やっぱり。鍵野は出家してるわけではないから(五戒は守っているつもりですが)、午後食べても全然いいんだけど、なんか真似したくなる気持ちもあってですね、朝食べれば夜食べなくても痩せないだろうし、いいと思うんですが、うーん…。なぁんて、葛藤しているふりをしていますが、まぁ結局そうしたいんだなと。もうちょっと早く起きるといいのかもしれないなぁ…、朝は読経と慈悲の瞑想からのヴィパッサナー実践で夜より時間を取るので、それから朝食となると、早起きしてないとすぐお昼ごはんの時間になってしまう(笑)。

さて、今夜は激辛カップ麺の勢いを借りて、アドレリアンのアンタッチャブルな話題「所属」について書いちゃおうかなぁと思っています。えっ?、「所属」ってどこにでも書いてあるじゃんって思った方、そうそう、そいう意味でアンタッチャブルなのではなくてですね、これ、実は… 実は? って、じらさなくてもいいんですが、アドラー先生はね言ってないんですよ(きっぱり言い切ってしまう!)。そんな、嘘言うな!って、アドレリアン諸氏の声が聞こえてきそうですが、これ、米国でしつこく議論していた人がいて、Erik Mansagerという人なんですが、文献をさらって、アルフレッド・アドラーはそんなこと言ってないぞって、エヴァ・ドライカース(ドライカース先生の娘さん)と論争になってました。文献からすると、たしかにアドラー先生は所属、英語で "belonging"ですが、アドラー心理学で言う「人は「所属」を目指してるんだ」とは違う文脈でしか言ってないようです。で、ですね、Erik Mansagerは、「所属」は、アドラーの弟子のドライカースが言い出したことで、アドラーが元じゃないってことを認めればいいのにと言ってます。ドライカース先生は、弟子のシャルマン先生(野田先生のお師匠様)の証言としてどこかに書いてあったんですが、黒板の端にアルフレッド・アドラーと書いて、もう一方の端にカレン・ホーナイ(新フロイト派)と書いて、真ん中にルドルフ・ドライカースと書いて、自分はここにいるんだと、アドラーと自分が違うことについて嬉しそうに示していたそうです。ドライカース先生は、シカゴを拠点に精力的に活動されて、そのアグレッシブさを活かしてフロイト派がほとんどを占めていた米国でアドラー心理学の居場所を作り、アドラー心理学が生き残るのに大きく貢献された偉大な先生です。ドライカース先生がいたから、シャルマン先生がいて、そのおかげで野田先生がアドラー心理学を学ばれて日本に持ち帰ってくださったので、鍵野にとっても大大師匠ですね。

それで、ドライカース派という言い方があるんですが、それは、アドラー心理学の中でもいろんな考え方の人がいるからです。シカゴはドライカース派の拠点ですが、ニューヨークにはアドラー先生の息子のクルト・アドラーや、アドラー先生の書いたものを体系的にまとめる(パープルブックと呼ばれているIPAAというアドラー心理学のバイブルのような本を世に出した)という偉大な貢献をされたアンスバッハー先生という人がいて、ドライカース先生とは仲良しではなかったらしいですし… ワシントンでは、ヘンリー・スタインというこれまた個性的な先生が、アドラー先生に還れという感じで"Classical Adlerian Depth Psychotherapy"というのを教えています。鍵野もこの人の本を読んで、その流れで、アンソニー・ブルック先生の本に出合って、大きな影響を受けました。

日本は、野田先生から始まったということがあって、みんなドライカース派と言えばドライカース派なので、人が「所属」を目指しているのは理論的に疑う余地のないところとして受け取っていると思いますが、そうでないと考えている人もいることは知っていてもいいのではないかと思います。で、ですね、なんでこんなことを書いているかというと、鍵野自身もかなり揺らいだんですね、この辺り。人にアドラー心理学を伝える仕事をしているわけで、ほとんど野田先生から教わったことがベースなんですが、それでもですね、自分が腹の底から納得したものとして出てこないと聞く人に伝わらないというか迫力がないというか、質問されても困るし…ということで、この辺、あえて「所属」という言葉を使わないでアドラー心理学を紹介していた時期があったんです。でも、ですね、今は堂々と「人は「所属」を目指している」と言えちゃいます。何か、アドラー先生が「所属」と言っているという新事実をみつけた…わけではありません。そうではなくてですね、その方がわかりやすいし便利だと腹落ちしたからです。これについて、ドライカース先生がアドラー先生の言わなかったことを付け足したわけではなくて、よりわかりやすい言葉にしてくれたんだと思えたということです。アドラー先生の英語の本を読んでいるとよく"fellow men"とか"fellow being"とかという表現が出てきます。同胞とか人間同士というような意味なんですが、「そういうことか、これって所属って言ってもいいよな」と腹落ちしました。私たちは"fellow being"になりたくて、目標追求しているんだと。人間同士として所属し合っている状態が"fellow being"なんだと。視点の違いだけだとわかったんです(今書いていてもっとはっきりわかった)。"fellow being"「人間同士」の視点は、困っている人がいて、こちらに「所属」しようとしているときのこちらを表したもので、"belonging"「所属」の視点は、困っている人がいて、困っている人があの「人間同士」の仲間になろうとしている、その目指す状態を表したものという違いがあるだけだと。

で、そういう理解ができると、「所属」を目指していると言った方が、困っている人を援助するシチュエーションで便利なんですね、困っている人が(こちらからみて)困った行動をするのは、私(たち)の仲間になりたい私(たち)に所属したいと思ってくれているんだよね、という温かい視点が持ちやすいんですよね。動きを表現しやすいんですよね、"be(ing)"より"belong(ing)"の方が。

なんか、自己満足に陥ってるかもですが、何人かでも読んでくださる方がいるだろうというこのはてなブログという場への期待のおかげで、自分にとってはとっても大事なことを言語化できた気がしています。ありがとうございます! 入門講座に向けて、一つ賢くなった気がする(笑)。

読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。

生きとし生けるものが幸せでありますように。