<2023年10月30日wrote>
こんばんは、鍵野です。
昨日は某所でのパセージフォロー会に参加してきました。
さて、ここのところアドラー心理学について毎日のように書いてきて30本を超えたし大事なことは書いてしまったような気もしているので、そろそろ休もうかなぁ(笑)、とその前にそうだ全体論について書いておかないとなぁと思って一度書いておきます。全体論って、アドラー心理学の理論、5つの基本前提の中で、一番わかりにくいんじゃないかなぁと思っています。鍵野もずっとよくわかっていなかったところです。野田先生もどこかで全体論がわかったらアドラー心理学マスターだというようなことをおっしゃっていました。リアルに野田先生にお会いして、たっぷり講義を聞いて、それでもよくわかっていなかったと、あとでよくわかったところなので、ましてや本を読んだだけでわかるはずがないと思っています。
で、何がそんなにわかりにくいかというと、これ、近代西洋哲学の父と呼ばれ、我々現代人の考え方に大きな影響を与えてきたデカルトの「我思う、ゆえに我あり」を否定しているからです。鍵野もどういうわけか、小学6年のとき、図書室でデカルトの「方法序説」を手にして、「我思う、ゆえに我あり」に「そうなんだ!」と、他のことは疑えても(小6でしたが、孤独の深淵を覗いた気がしました…)、思っている自分は疑えないよね、たしかに、だから自分がいるのは間違いないとずっと思いこんで生きてきました、アドラー心理学がわかるまでは。デカルトを否定するのは、西洋の学問としてはかなりやばいことなので、おおっぴらには言ってないですが、全体論はこのデカルトの考えに明らかに矛盾していしまいます。アドラー心理学では「自我」とか「心」とか、名前は何でもいいんですが、何か司令塔のようなものがあって、それが身体を動かしているとは考えません。私の中のどこか一部分が、他の部分を動かしているとは考えないんです。人は、その人全体として、(社会に所属するために(これはドライカース派以外ははっきり言わない))設定した独自の目的に向かって、主体的に決断して行動している存在であると考えます。アドラー心理学にとって、人とは部分に分けられない全体としての存在なんです。だから、英語でアドラー心理学のことをIndividual Psyachology (個人心理学)と言います。この訳語の「個人」は世間一般で言うところの個人ではなく、分割できないという意味でのIndividual(個人)なんです。なので、個人主義の心理学なんだとか勘違いされないように日本では個人心理学と言わずにアドラー心理学と言う方が一般的になっています。
書いておきながら無責任ですが、たぶん、わからないと思います。学校に行きたいのに行けない子がいて、朝になるとお腹が痛くなる。鍵野にも経験があります、たぶんそのときの体育が嫌だったのかな…小学校1年生だったか2年生だったか、お腹が痛くなって学校休んで、母に近くのお医者さんに連れていかれて、お医者さんが「勉強嫌いなのあるかな? 算数は?」と聞かれて、「好き」と答えたら、うーん?おかしいなぁという感じで首をひねっていたのを思いまします。「あっ、仮病だと疑ってるな」と思いました。ひょっとしたらアドラー心理学を学んだ先生だったかも。いい線いってたのになぁ、勉強以外のところを突かれたら困ったはず(笑)。目的達成のために、無意識的に身体が協力してくれてるんですよね。本当にお腹は痛かったので。これが全体論の具体例です。無意識さんという得体のしれない部分が意識と別にある、意識がコントロールできない部分があるとは考えずに、意識で動くところと無意識的に動くところとが全体として協調してその人の目的を達成しようとしているんだと考えます。と、ここに書かれたことを読んでいる意識=あなたと思っているでしょう? それが違うと言ってるんです、アドラー心理学は。その意識もあなたの一部だけれども、あなたはその意識を超えた無意識的なところ、身体も含めて全体なんだと言っています。これ、完全に近代的自我の否定ですね。つきつめていくと、被造物の中で神から精神を授けられた人間が、神が世界を創造してお休み中の間、その作られた世界を知って制御することを許されているんだ。人間の肉体も物質に過ぎない、だから科学の対象として、その辺に転がっている石を対象にするのと同じだという、宗教的な問題と科学をわけたときのお約束が崩れてしまうことにつながりかねません。たぶんそんな怖さもあって、全体論についてはあまり突っ込んで説明していないのかなぁという気もしています。
読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。