アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

小さな親切大きなお世話

こんにちは、鍵野です。
今日も寒い佐伯上浦です。外は冷たい雨も降っています。こんな日は、いつもは賑やかなカラスの鳴き声があまり聞こえません。雨に濡れないようにねぐらでじっとしているんでしょうかね。人間だったら雨で外に出たくないときでも、冷凍食品なんかをチンすればどうってことはないわけですが、明日の分まで食料を貯めておくという習慣はなさそうな彼らは、お腹も空いているでしょうにねぇ。

 

雨で喜ぶ生き物もいるでしょうね。蛙とかね、訊いたことはないけど嬉しそうな気がします。ミミズが雨の降った後にたくさん出てきますけど、でも、あれは喜んでいるわけじゃないのかな。土の中の空気が減って苦しくて出てくるんじゃないかとか、いや、雨の日は太陽にやられないで済むし、チャンスと見て、より豊かな土地を目指して移動しているんじゃないかという説をどこかの記事で読んだことがあります。

 

たどり着けずに干からびてしまったミミズさんを見るにつけ、このミミズもちょっと前まで自分のように元気に動いていた生命だった、そして自分も必ずいつかこのミミズのように死ぬ存在なんだ(干からびるかどうかは別として(笑))と、心をきれいにする契機にさせてもらいます。車で走っていると、いろんな生き物の遺骸に出会います。福岡を下道で山越えすると、会わない方が珍しいくらいです。もちろん、生きた動物にもよく会います。狸やイタチ、鹿とかですね。幸い、車ではねたことはまだありませんが、間一髪は何度もありました。彼らからしたら、山に道路を作って勝手に車で走っているのはこっちなので、迷惑をかけているわけですよね。身勝手ではありますが、彼らの生活圏を使わせもらうことに感謝しながら、できるだけ幸せに暮らしてほしいなぁと願っています。

 

それで、今日は「小さな親切大きなお世話」という話を考えてみたいと思います。みなさんも聞いたことあるセリフじゃないでしょうか。面と向かって言われることはあまりない気がしますが、暮らしているとそう思う場面もよくあるのではないでしょうか。鍵野の場合は、筆頭はやっぱり母親ですね。命を育んでくれた大恩人に対して、申し訳ないですけれども、でも、「ああしたら」とか「こうしたら」とか、「放っておいてよ」と言いたくなることが山のようにあった気がします(笑)。

 

どうしてそういうことを言うのかと言えば、「あなたのため」なんですよね、言う方の理屈からすると。そうした方がこちらのためになると思って、そう、親切で言ってくれているんですよね。言ったら嫌われるのに(笑)。それでも言ってくれるって、そりゃぁよっぽど親切だからですよね。で、言われたくない方は、そりゃぁ言われたくないんですから、「ありがとうございます! そうですよね、そうします。言ってくれてよかった」とは普通言いません(笑)。世界中の子どもたちが親に対してこんな風に言ってくれたらかなり平和な世の中になるかも(笑)。親切心を発揮した方は大満足ですよね。「やっぱり私がいないとねぇ」って自分の存在価値を確認できますから。そう、結局それが目的なんですよね。

 

1.私は人が何かよくない状態にあることを知る
2.私はよくない状態をよい状態にする方法を知っている
3.私は親切だからぜひその人に教えてあげなくてはいけない
4.私はその人によくない状態をよい状態にするためのアドバイスをする
5.その人は私の親切なアドバイスに感謝する
6.私はその人の役に立てて嬉しい

と、親切な人の論理としては、こんなところでしょうか。この論理の通りに世の中が動いてくれるたらいいですよね。そしたら、アドラー心理学はいらないですね(笑)。でも、そうは問屋が卸さない(笑)。とすると、どこかが違うんでしょうね…。どこだと思いますか?

 

1はいいですよね、そうなんだから。2もいいですよね、知ってるんだから。3はどうでしょうか? ここが変ですね。「親切だから」はまぁいいですよね。そうご自分で思えていること自体は、肯定的に自分を捉えられているということは。でも、だからって「教えてあげなくては」というのはねぇ、ここが「大きなお世話」の元締めですね(笑)。

 

「教えてください」って、相手がね、お願いしてるんだったら、いいんですけど、勝手に動くのがまずいんですね。親切なのはいいんですけれども、相手が本当に困っているかどうかわからないじゃないですか、1の「よくない状態」というのは、確証があるのは私にとってであって、相手にとっても同じように「よくない状態」かはわからないし、2の「よい状態」も同じことで、確証があるのは私にとってであって、相手にとっても同じように「よい状態」かはわからないんですよね。さらに、1と2が相手にとっても私と同じだったとしても、今はその人は困っていたいのかもしれないし、やっぱり「よい状態」にしたいんだけど、あなた(だけ(笑))には教えて欲しくないかもしれないじゃないですか。

 

こういうものすごく親切な人を「世界征服を狙っている人」と言うことがあります(笑)。世界は私の思い通りにできていて思い通りになると信じている人ですね。私の快はみんなの快、私の不快はみんなの不快って信じて暮らしている人。どうですか? 結構、いる気がしませんか、あなたの周りにも、そんな人が。

 

なんでこういう人になるのかというと、やっぱり人類が生き残るためだった気がします。だってお母さんが生まれたばかりの赤ちゃんに親切じゃなかったらとっくに人類は死に絶えていると思います。赤ちゃんが返事をしてくれるのを待ってから動いていたんではねぇ(笑)。だから、親切ってとってもありがたいことなんですけれども、目の前のその人が赤ちゃんかどうか確かめてから動いてもいい気もするんですよね。よく観察すれば、ほとんどの場合、自分でなんとかしようとしていることに気づくんじゃないでしょうか。もちろん、目の前で倒れたとか、明らかに迫っている危険に気が付いていないとか、痛い目に合って学ぶどころじゃないくらいの大事になりそうだとわかっているっていう場合は、危機的な介入もありだとは思いますが。

 

それで、これは自戒と反省を込めて言うんですが、カウンセラーになろうなんて人は、たいてい世界征服の野望を持っています(笑)。ほんとは自分のこともままならないのに、人様を助けようなんて大それたことを考えてしまう(笑)。それで、頼まれてもいないお節介をしがちな人が多い気がします。それで、アドラー心理学自助グループとか勉強会とかでね、お恥ずかしい話ですが、ついつい(アドラー心理学の禁句ですが(笑))、困っていることをお話してくれた事例提供者さんにですね、求められてもいないのに、自分ならこうするという自分心理学でアドバイスしてしまうんですよね。

 

相手がね、アドラー心理学をしっかり学んでいる人なら聞き流してくれるからいいんですけれど、そうではない場合、真に受けてしまわれたりしたら、せっかくアドラー心理学を学びに来てるのに、その人心理学を上塗りして邪魔をすることになってしまいます。とくに、せっかく何かアドラー心理学的な洞察を得て、それまでとは違った世界が少し見えているかもしれない人に、よくある人生相談的なこれまで通りの世の中の見方をかぶせてしまうとですね、これははっきりよくないことをしてますよね。

 

気持ちはわかるんですよ、鍵野も何度かやってしまったことがあります。申し訳ないことをしたなぁと思っています。せっかくの気づきを汚してしまったかもって。これ、自分の役に立ちたいという目標追求の気持ちと、まだアドラー心理学がよくわかっていない状態で、自分がその人の事例を聞いて、同じように揺さぶられてしまうところの怖さの反動がある気がします。

 

だから、そっとしておいて欲しいんですよね、事例提供者さんを。もちろん、グループワークとかの中で役割として意見なり感想なりを求められる場面では、それが仕事ですから大いに言うのは構わないと思うんです、自分心理学であっても(笑)。さまざまな学びこみ方の違いがわかって、お互いに学び合える面がありますから。でもですね、とくにカウンセリングとか、かなりインパクトのある経験をされた後は、そこに余計な影響を与えないためにも、求められない場面では触らないのがお互い安全だと思います。

 

そういうこともあってだと思いますが、先生方はカウンセリングのデモの後などで、見学者のクライエント役さんへの直接の質問や発言は許されないんですね。何か聞きたいことがあれば、カウンセラーに聞いてくれと。そうやって、事例提供者さんを守ることを徹底されているんですね。カウンセリングを受けたことがある方はご存知ですけれど、カウンセリングの直後は大事にしておいてもらわないとですね、かなり心がオープンになっているので周囲の影響を受けやすくなっているんですよね。

 

これ、瞑想(ヴィパッサナー実践)を終わるときの注意にも通ずるものがあると思いました。しっかり息を吸って吐いて「終わります」と3回くらい繰り返してからゆっくり眼を開けないと危ないんですよね、瞑想が進まなくなる危険があると師匠に教わりました。心の状態があきらかにシフトチェンジするので。

 

自主勉強会、自主学習会というアドラー心理学の先生がいない場でも、しっかり事例提供者を守るために、みんなで工夫できることがありそうです。鍵野ももう少し考えてみます。

 

読んでいただきありがとうございます。
みなさま今日もどうぞよい一日をお過ごしください。

生きとし生けるものが幸せでありますように。