アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

戒律

こんにちは、鍵野です。
今日は大きい仕事の切れ目で、のんびりしています。日差しも暖かいし、お昼も食べて眠くなりそうなので、それより書けるうちに何か書いてみようと思っています。オリジナルの戒律があって「なんじ昼寝するなかれ」、「もちろん居眠り運転するなかれ(当たり前)」(笑)。

 

それで、みなさん、「戒律」というとどんなものを思い浮かべますか? モーゼの十戒とか、仏教の五戒、八戒など、イスラム教にも戒律がありますし、宗教的に定められた、してはいけないことリストという感じでしょうか。超越した存在からの禁止事項の命令という感じがします。ただ、仏教については、とくにテーラワーダ仏教については後述しますが、命令ではありません。お釈迦さまはお師匠さまであって、創造者でもこの世の管理者でもないので。大乗仏教では絶対的な存在のようにも思える如来が登場してくるので、また違いそうですが。

 

「戒律」というとちょっと大げさですが、それぞれのご家庭にはそれぞれのタブーというかしてはいけないことはあるような気がします。前にも書いたことがありますが、我が家では家族で食事中に食事と会話以外の事をするのはNGとしていました。個別に食べるときに、動画を見ながらとか、おやつのときにスマホをいじりながらというのはOKでした。「ルール」と言えばルールなんだけど、もう少し情的なものも入っているというか、同じ価値を共有する仲間と認め合うためのものという感じのものでした。昔、友人の家で餃子をご馳走になって、ウースターソースで食べていたのに衝撃を受けたことを思い出します。あっ、これは「戒律」からだいぶそれたかな(笑)。そういえば、オリジナルの我が家(親の家)では、父親の好みだったんでしょうけれど、とんかつとかなんでも醤油をかけていましたっけ。それで、我が家もフライ物には醤油がメインになりました。一応、ソースも出してはありましたが。醤油の消費ペースは桁違いでした。今度結婚する甥っ子も醤油好きだったなぁ…父から妹にも受け継がれたんですね、こういうのが文化的な遺伝と言うんでしょうかね。

 

で、「戒律」の方に話を戻すんですが、仏教の「戒律」はですね、超越者からの命令ではないんです。全然違うんですよ、これは。もちろん、お釈迦さまは目覚められて、まさしく人を超えた超人になられたわけですが、別に、真理を発明したわけではなく、発見しただけです。お釈迦さまがいようがいまいが、真理は真理、ダンマはダンマ、ずっとあったわけです(無常なのにずっとあるって、矛盾してるじゃないかって、そういう言葉遊びはしないことです。所詮人の思考妄想の中の想が回転しているだけですから、あまりこだわらずにいきましょう)。ただ、お釈迦さまがその真理に気づく方法を教えてくれたおかげで、「あっ、そういうこと」と、どんどん真理に目覚める人が現れたということなんです。そういえば、本来の「サンガ」というのは、出家した人の集まりではなくて、少なくとも預流果(その上に、一来果、不還果、阿羅漢果がある)以上に悟った人の集まりという意味だそうです。

 

じゃぁ、仏教の「戒律」は何なのかというと、アドバイスなんですよね。こうした方がいいよっていう。親切に教えてくださっているんですよ。守らないと罰せられるとかそういうものではないんです。因果応報、善因善果、悪因悪果ですから、ダンマによって、どうせ結果は出てしまうから、「五戒」を守った方が、そりゃぁいい結果が出るんだけど、仏陀という超越した存在が戒を破ったものに罰を下すという構造ではないんです。お師匠様が言うから信じて守ります、というのも違います。その意味を納得して進んで守りたいから守るのが仏教の「戒律」なんです。

 

で、その意味は何かというと、仏教の「五戒」について具体的に見てみるとですね、
1.「生き物を殺さない」です。これは、どんな生き物だって死にたくない、自分だってそうだ、だから私は他の生き物を殺しませんということです。自分は殺すけど、自分だけは殺さないでね、はちょっとねぇ…筋が通らないでしょ?


2.「与えられていないものを取らない」です。これも、自分に与えられたものを超えてなにかを取ってしまったら、それは他の生き物のものになったかもしれないものが減ってしまうということです。自分のものを取られるのは嫌だけど、自分は他の生き物の分も取りますっていうのもねぇ…やっぱり筋が通らない。

 

3.「淫らな行為をしない」です。これ、まぁ異常な欲を戒めています。例えば、異性(同性も)を責任を持てる範囲を超えて求めるのは、相手を道具にしているということで、自分が相手の道具にされるのは嫌だけど、自分は相手を道具にしますよというのも、やっぱり筋が通らない。これ、一夫一婦制を肯定しているわけでもなくて、一夫多妻でも一妻多夫でも互いに平等な存在として責任を取れる範囲であればいいんだけど、それを超えるのは、他の生命に迷惑をかけることだからやめましょうということで、そりゃそうだよなと納得できます。

 

4.「いつわりをかたらない」です。前にも書きましたが、嘘をつける人はどんな悪いこともできてしまいます。嘘をつくということは、嘘をつかれた生き物がいるわけで、自分が嘘をつかれるのは嫌だけど、自分は嘘をつきますというのも、やっぱり筋が通らない。

 

5.「放逸の原因となり(人を)酔わせる酒・麻薬類を使用しない」です。これは、理性を弱くする、失わせるものを摂取すると、上記1~4も守りにくくなるし、他の生き物に対して迷惑をかける行為をしてしまいやすくなるのでやめましょうということです。自分は酔っ払いにからまれるのは嫌だけど、自分は酒を飲みます、酔います、酔って迷惑をかけたのを覚えないくらい酔っちゃいますっていうのも…やっぱり筋が通りません。

 

というように、要は、他の生き物に迷惑をかけませんというだけのことです。自分も迷惑をかけられたくないんだったら、これくらい守りますよ。これくらい守らずに人に文句を言うのはちょっと調子が良すぎる気がします。

 

それで、面白いのはですね、仏教では実はリストの最初の方が罪が軽いんです。4番目の「いつわりをかたらない」を破ること、嘘をつくことがもっとも罪が重いんです。殺生よりもです。とくに、「自分の能力について嘘をつくこと」が中でも一番重い罪だそうです、気をつけないとですね。宣伝とか危ないですね(笑)。こんなカウンセリングができます!なぁんて、嘘をついたら大変なことになってしまいます(笑)、いや笑いごとじゃないですね、本当に。なので、本当のことを言います。相談に来られた方の協力がなければ、カウンセラーには何もできません。もし、鍵野のカウンセリングで効果があったとしたならば、それは相談者さんにもともとその力があって協力してくれたということです。これまで、たくさん失敗してきました。「カウンセラーの力でなんとかしよう」なぁんて考えたら最後、そのカウンセリングは失敗します。何度も何度もそんなことを繰り返して、自分の目標追求を少なくともそのカウンセリング中にはあきらめられたとき、ようやくカウンセリングが動く(できる)ようになりました。

 

おかげさまで、最近はあきらかに失敗というようなカウンセリングはないんですが、でも、ついていってその人の暮らしを観察しているわけでもないし、わかりませんものね。ひょっとしたら迷惑をかけているかもと思って、毎日、瞑想実践の度に「佛、法、僧、に対するあやまち、恩師に対するあやまち、生きとし生けるものに対するあやまち。これ等いっさいのあやまちを懴悔いたします」と懴悔しております。

 

対した能力もないカウンセラーですが、これからも精進して相談に来られた方の幸せのためにできることをしていきたいと思います。

 

そうそう、アドラー心理学に戒律はあるのか? あります! そう、共同体感覚です。共同体感覚に反することはしないようにしようねと。これ、ポジティブ側につかうとヤバいことになるので、要注意です。共同体感覚を発揮しよう!なぁんて方向に使ってしまうと、あっという間に全体主義的というかファシスト的というか、何かに巻かれる方向に悪用されてしまいます。それは、アドラー先生がもっとも忌み嫌った事です。実際、全体主義オーストリア、ナチの影響力がどんどん増していったオーストリア、ウィーンからアドラー先生は泣く泣く去っていったんです。ウィーンのサルマンドルフの自宅を引き払って、米国に移住するとき、伝記を書いたBottomeは、初めてアドラー先生のため息を聞いたそうです。愛犬を他の人にお願いして残していくことになり、アドラー先生は愛犬の頭を軽くたたきながら、申し訳なさそうにその犬について言いました「…優しくて大好きな人たちと一緒にいるんだ。でも、ブラッシングを忘れちゃうかもしれないなぁ…彼は、ブラッシングされるのが大好きなんだ」と。


読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。

生きとし生けるものが幸せでありますように。