<2023年11月23日wrote>
こんにちは、鍵野です。
今日の佐伯上浦は朝からとても暖かくて、いつものようにセーターを着て外に出たら暑いくらいでした。
近所に住む母が朝から深刻な顔をして来たので、誰か亡くなったのかな、なぁんて勝手な想像をしていたら、「テレビが映らない」ということでした(笑)。いやいや笑い事ではなくて、深刻なんでしょうね、いつもテレビを観ている人がテレビを観られなくなるというのは。アドラー心理学的に言えば、所属の危機!なんだと思います。いつも顔を見ているあの人やこの人と会えないというのは(相手は母の事なんて知らないでしょうけど)、めったに会わない親戚が亡くなるより大変な事態かも(笑)。それで、朝のコーヒーを楽しむのもそこそこに歩いて母の家に、テレビ自体は、コンセントからの電源オンオフと、BCASカード(そんな時代)をもう一度入れ直してみて、解決しました。よかった! チラっと感じた陰性感情からの瞬間エピソード分析で自分のコーヒーより母のピンチからの脱出を選んだ自分に「いいね」しました(笑)。
それで、母の家に行く途中で会ったご近所のワンちゃんがご主人に散歩帰りかな?身体を拭いてもらっていて、とても気持ちよさそうでした。予期しないところで急に視界に入ってきた瞬間は、あの犬歯に身体が反応して固くなったんですが、心と心であいさつを交わしてすぐリラックスできました。いいですねぇ~、他の生き物が幸せそうなのを見るのは。でも、にわかには信じられないんですが、西欧の人は人間以外には魂がないんだと思っているらしいですね、うーん、心はありますよねぇ~、どう見てもあの方たちにも(笑)。と、書いていて、まぁわざとですが、「魂」と「心」これ、一緒じゃないんですね。「精神」というのも違う感じがします。みなさんがどう捉えてらっしゃるかわかりませんが、「魂」というと、永遠の魂みたいな、なんか変わらない本質みたいなものかなと、「精神」というと、なんか言葉を使う人間だけに適用するニュアンスを感じます。だから、「ワンちゃんに「精神」はない」と言われたら、そうかもね、という気がします。でも、「心」は違いますね。これは、生きとし生けるものすべてにあるものだと思います。というか、話は逆で、「心」があるものが、生きものだと思います。トンボにも鳥にも猫にも犬にも、ビフィズス菌にも、「心」はあると思います。これ、初期仏教の定義ですが。要は、外の世界に触れて感じるのが「心」で、それは机や椅子にはないけれど、アリさんにはあるということです。お釈迦さまは「魂」なんて永遠不滅のものはないとおっしゃっています(そういえば永久不滅ポイントなんて謳っているカードが更新で送られてきたんですが、「魂かよ」と突っ込みたくなりました(笑))。だって「すべては無常」というダンマに反しますもの。まぁ、西欧のみなさんは「魂」を信じている人が多いのかもしれませんね。それで、それは人間だけにあるんだとすると…結構危ないポイントですね、人間=魂がある→魂がない=人間じゃない→それで、あいつらは悪魔だから…ってなると、何でもできてしまいそうです。
それで、今日は、野田先生の名著「性格は変えられる」にちなんで、本当に性格は変えられるのかについて考えてみたいんですが、性格=心として、初期仏教の立場を取ると、心は無常で変わるから(厳密に言えば、アビダンマでは心という透明な基質のようなものに心所という怒りとか欲とか慈しみとかが溶けているということになるので、心所と心を分けると心は変わらないようにも思えますが、心所のない心はないので、やっぱり変わるということになります)、性格も変わる、以上、証明終わり!ってなるんですが、ここでは仏教ではなくて、アドラー心理学で考えたいので、そんなシンプルには終われないですね。
まずアドラー心理学は科学なので、観察できる事実だけで話をしたいんですね(共同体感覚は除く(笑))。だから、心の理学なんだけど「心」そのものについては言わないんですよね。肝臓や心臓のように、これが「心」ですって取り出して調べることができないから。で、観察できるのは何かというと、観察対象である人の行動だけです。この場合の行動には、話したり書いたりすることも含めます。自分を観察するのも含めると、思考、妄想できるものはすべて含まれてしまいますので、心とか性格だけでなく、ユニコーンだろうが妖精だろうが神様だろうが悪魔だろうがトラウマだろうがなんでもありになってしまいますが、まずは、アドラー心理学で人を援助する立場から、援助する相手だけを対象にして考えれば、その人の行動だけなんですよね、観察対象は。だから、「私は小さい頃、母親にひどく虐待されてきたんです。あの日も…」と話してくれたとして、事実は、その人がそうやって話してくれているということだけなんです。その人の母親がまぁ親なしに生まれる人はいないからいただろうとは思いますが、会ったわけじゃないし、それもわからない…、虐待っていうのも見たわけじゃなし、わからない…、事実かどうかという観点で、その人の話しを聞いたら、わからないことだらけです。でも、警察の取り調べではないし裁判をしているわけでもないので、いいんです、そんなことは。大事なのは、「私は小さい頃、母親にひどく虐待されてきたんです。あの日も…」とその人が語っているということは事実だと、そういうことです。それで、その後「だから、私の性格はこんなに歪んでしまったんです。自分の子どもを好きになれないんですよ、イライラしてたたきたくなるんです、顔を見ていると…、それで昨日もたたいてしまったんです…」と泣きながら話してくださったとして、やっぱり、まぁ子どもがいるのはいるんだろう、たたいたことが事実かどうかもわからない、でも、目の前でこの話をしてくれていることは事実だ、そして泣いているのも事実だ、とそういうことだけがわかる。ところで、この人の性格ってなんでしょうか? わかっているのは、私に向かってそういう話をそんな風に話す人っていうことで、それをまぁ「性格」と言ってもいいんだけど、アドラー心理学では「ライフスタイル」という専門用語があるので、そう言いますが、その人なりの生きていく法則のことですね。小さい頃に、自分の持って生まれた物質的な材料=肉体とそのときに置かれた家族などの人間関係を含めた環境の中でサバイバルしていくために、編み出した、こういうときはこうすればうまくいくんだという、その人の法則のことです。それは、一つのロジックですから言語的なものと考えられていて、言葉が発達する3歳くらいから作り始めて遅くとも10歳くらいまでには、「私の人生これで行こう!」という論理が出来上がっていて、それをライフスタイルと呼んでいるんです。なので、相談に来られた方が、そういう話をするのは、そのライフスタイルに沿って、そういう話をしているとアドラー心理学では考えます。「ライフスタイル」も事実じゃないだろうって言われそうですが、これはカウンセラーと話すことで、言葉で取り出すことができますから、科学が扱える事実として考えます。例えば、劣等の位置として「私は弱い」「世界は恐ろしいところだ」「人々は自分のことだけで精一杯だ」、優越の位置として「私は強くあるべき」、愛用の方法として、「お金をたくさん稼いで自分を強くするものを手に入れる」というようにですね。ただし、その取り出した内容自体はこれまでも書いてきましたが、その人ユニークな仮想に過ぎませんのでお間違いなく。
と、ここまでで、一応、性格=ライフスタイルとしておいていただいて、じゃぁそのライフスタイルは変わるのか?という話にしてもらえれば、それは変わりますと言えます。なぜなら、先ほど、「だから、私の性格はこんなに歪んでしまったんです。自分の子どもを好きになれないんですよ、イライラしてたたきたくなるんです、顔を見ていると…、それで昨日もたたいてしまったんです…」と泣きながら話していた方が、何回かカウンセリングを受けた後、「昨日、娘が「はい、これママ。上手でしょ!」って保育園で描いたらしいんですが、私の顔をクレヨンで描いたのをくれたんですよ。その顔がね、ニコニコ優しい感じで、私、いつも怒って怒鳴り散らしているのに、なんか… それで娘に、「えっ、ママ、いっつもあんたに怒ってばっかりなのに、こんななの?」って聞いたんです。そしたら、…(グスン)「ママ、かわいいもん、笑ってくれるもん。大好き」って… 私、びっくりしちゃって、嬉しくて、娘を抱きしめたんです、心から、こんなことって…」とかね、話してくれたとします。どうですか? これ、なんか変わってますよね、観察できる何かが。そう、これを性格は変えられるって言っていいんだと思います。
だから、カルマとかトラウマとか、アドラー心理学で、それがあるともないとも言っているわけではなくて、その人にとって便利ならあることにしてもいいし、ないことにしてもいいんです。要は、ある人が何かを語っているとして、その人が不幸なのであれば、不幸な語り方をしているわけです。それで、アドラー心理学を学んで(本でも講座でもカウンセリングでも自助グループでも)、幸せを感じられる語り方に変わったら、それでいいと、で、それはライフスタイル=性格が変わったということで、やっぱり野田先生の言う通りということなんでした。アドラー心理学は森羅万象を解き明かそうなんてはなから思ってなくて、アドラー先生の臨床現場から生まれた、困っている人が困らなくなるための便利な学問に過ぎないので。
読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい祝日をお過ごしください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。