アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

平等と同等

<2023年10月29日wrote>
こんにちは、鍵野です。
 昨晩、福岡から佐伯に戻ってきました。どこから帰ってきても海岸線を走ることになるんですが、月が明るく海を照らしていました。あれ、太陽の光が反射してるんですもんね、小学校の理科で習いますが、地球と太陽と月の位置を想像すると面白いですよね。光の速度が約30万km/sで、月から地球までの距離が38万kmだから、1秒ちょっとで反射した光が我々のところに届いているわけですね。早っ!とは思うけど、あの見えている月は1秒ちょっと前の形なわけで、たった今の形を知ることはできないんですね。じゃぁ、月まで行くかって、でも、月にいたら地平線(月平線?)は見えるでしょうけど、形は見えませんしね(笑)。そんなしょうもないことを小学生の頃、夜空を見上げながら考えていたことを思い出しました。「あのオリオン座はあんな風に見えてるけど、今は本当はないかもなぁ」「自分の目に届く光と他の人の目に届く光と光源からの距離が違うから同じじゃないんだよなぁ、本当は…」とか、昔から理屈が好きだったんだなぁと。母から「屁理屈ばっかり」とよく言われてましたっけ、全然嫌な気はしなかったですけれども。
で、得意の屁理屈を(笑)、いやいや、とっても大事な話をしたいと思います。「平等」って、アドラー心理学を理解して実践するために、超重要な概念です。アドラー心理学で「平等」といったら、能力の差に関わらず、人の価値は平等であるという意味の平等です。無条件に、何か科学的客観的に価値を測定したら全人類同じだったとかいう理屈があるわけでもなく、そもそもそういうものだという、スピリチュアルな概念ですね。だから、あの人は英語ができるからプラス10点、でも、料理はできないからマイナス8点、…合計で何点、この人は…何点、とか計測していって結果として同点でしたというものではないんですね。人は社会的存在としてしか生きられない(社会統合論)、人それぞれできることは違うけれど、みんながいるから生きられる。あの人とこの人、役割は違うけど、人としての価値は同じ、みんな仲間。そもそも他の人がどのくらい役に立っているのかを測定することは不可能です。ある人が、どんなに悪いことをしているように見えても、それが何の役にも立っていないと証明することはできません。言えるのは、私にとって、その人の行為が好きか嫌いかどうでもいいかだけです。しかも、言えるのもその瞬間だけであって、後から振り返ると、あの人のおかげで、今の自分があるというような出来事がみなさんもたくさんあったと思います。当時は本当に嫌だったあの人があの会社にいてくれたおかげで、転職できた、そのおかげであの人に会えたし、あんな仕事を経験することができた、なぁんてことが鍵野にもいくつもありました。そして、そういうことはこれからも起こり得るし、全人類の相互作用なんて測定しようもないですし、測定すること自体が新たな相互作用になるわけですから、原理的に不可能な話です。だから、平等なんです、だれがどんなことをしでかすか、それがだれにどう作用するかを確定できないんですから。価値を測りにいった人の好き嫌いを超えた価値基準は存在しえないんです。
1.人は一人では生きられず、他の人の助けがあるから生きられる。
2.他の人の助けのネットワークはあまりにも絡み合い広がっているので、人は誰がどうやって自分を助けてくれているのかを知り尽くすことはできない。
3.同じく、自分が誰をどうやって助けているのかも知り尽くすことはできない。
4.1~3より、誰でも人は知らず知らず助け合って生きているのだから、どんな人も人としての価値は等しい(屁理屈かも(笑))。
それで、平等と字面が似ていて勘違いしやすいけど、全然違うのが「同等」という概念ですね。女性と男性は違うし、大人と子どもも違うし、日本人とアメリカ人は違うし、キリスト教徒とイスラム教徒は違うのに、その違いを無視して同じように扱うということですね。ユニセックスというと聞こえはいいですけれども、違うものは違うので、やっぱり公共のトイレは男女別の方が暮らしやすいと思います。具体的なアプリケーションとして行動として手段として、万人に同じものを適用しようという「同等」の発想は、もともと一人ひとり違うけど平等な我々には害悪になるんじゃないかなと。物資の不足していた旧日本軍では、支給された靴のサイズに足を合わせろと言われたと聞いたことがありますが、まぁ現実的にはある程度の我慢は必要でしょうけれども、靴のサイズくらいは自分に合ったものを履ける世の中であって欲しいと思います。それでも、右利きの人が多いことを前提に、右利きの人に便利なように世の中が作られていますが、左利きの人に便利なようにしたら、右利きの人は困るだろうし、両方が便利なようにできたらいんですけれども、できるところとできないところがあるんだろうなぁと。互いの違いを受け入れて、お互いなるべく困らないように工夫し続けていくのが平等な暮らしなのかなと思います。
読んでいただきありがとうございます。
みなさまどう今日もよい一日を。
生きとし生けるものが幸せでありますように。