アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

社会的劣等の反対語は社会的優越ではなく社会的平等だという話

こんばんは、鍵野です。
今日は野田俊作顕彰財団(AIJ)のシンポジウムに参加しました。参加者がたくさんいて、あの人もこの人もいらっしゃって、一緒に学べてとてもた楽しく有意義な時間でした。野田先生の教えを間違いなく伝えていくという使命を担われているAIJならではの「平等の位置」をテーマにしたお三人それぞれの発表と鼎談、見ごたえ聞きごたえがありました。


まず「親と子の平等の位置」というテーマでのご発表でしたが、具体例があってわかりやすく、アドラー心理学実践中のお母さんお父さんがはまりがちなところ、奴隷になったり王様になったりというところのポイントを再確認することができました。「アドラー心理学を学んでいるんだから、ここではこうしなければ」という親の動きの説明に、たしかに!と思えました。

アドラー心理学は苦行か?」について、「修行ではあるけれど苦行ではない」というお答えも、納得できました。みんな(自分も含めた)の幸せのために、自分が変わるための心理学なので、変わる前の自分のまずさに気づくところがどうしても入ってくるから、痛いこともあるかもだけど、でも痛くなることを目的にやっているわけではないので、やっぱり苦行ではないねということだったと思います。

「Social Equalityという考え方」のご発表も、ドライカース先生の"SOCIAL EQUALITY"はずいぶん前に読んだんですが、何を読み取ったのか覚えていなくて、発表の中で、生物学的劣等と宇宙的劣等と社会的劣等があるんだというお話が新鮮でした。とくに「宇宙的劣等???」という感じがして。それで、あらためてドライカース先生の"SOCIAL EQUALITY"をパラパラめくってみたら、しっかり"MAN'S COSMIC INFERIORITY"(人の宇宙的な劣等)という項目があったのでした。うーん、記憶にございません(笑)。あらためてそこだけ読んでみたんですが、宇宙的な視点から見てしまうと、人間なんてすぐ死んじゃうし取るに足りない存在と感じてしまうので、それで、死後にも精神的にサバイバルしよう、永遠の存在を目指して、哲学とか芸術とか宗教とかへの目標追求で劣等感を補償していくんだということが書いてありました。


そうかぁ、発表の中で、社会的劣等の反対は社会的優越ではなくて、社会的平等なんだと。「社会的平等」⇔「社会的劣等 社会的優越」という関係だというのが、面白いなぁ、アドラー心理学的だなぁと感心しました。それで、人には価値の優劣はない、人の価値は平等なんだという意味での社会的平等は、たしか野田先生がスピリチュアルな概念とおっしゃっていたんですが、でも、ここまでの分類で言えば、宇宙的劣等の方の反対の宇宙的優越に向かうところでスピリチュアルな目標追求という概念を使ってしまっているので、社会的平等はスピリチュアル方向ではないのか? という疑問が生じる気がしたんですが、でも、今書きながら気づきました。スピリチュアルな方を劣等感の過補償へ向かう動きとして、目標追求として進んでしまったら、そこには既に「人間としての価値の平等」はなくなっていますね。神を信じる自分は優れていて、信じないあの人は劣っている的な目標追求は、お金持ちの方が優れていると信じて、必要以上のお金を稼がずにいられない人の動きと同じですね。


野田先生のおっしゃっていたことと表面上矛盾したように感じたのは、主語の違いだとわかりました。「私たち」人間が、宇宙的劣等の位置を補償しようとして哲学や芸術や宗教を生み出してきたという文脈でのドライカース先生の本の内容と、一人の人である「私」が価値の劣等を感じて、補償しようとして、強くなりたかったり、美しくなりたかったり、賢くなりたかったりするという意味での目標追求はやめて、スピリチュアルに平等な存在でいることに気づくというのは、文脈が違う話なんだと思います。


ということで、今年最初の講座参加はオンラインZOOMででしたが、とても満足いたしました。先生方もみなさんお元気そうで何よりでした。どこで開催される講座にどれだけ参加できるかまだわからないのですが、また先生方、そして先輩方、アドレリアンのお仲間にリアルに会って一緒に学べる機会を楽しみにしています。


読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。

生きとし生けるものが幸せでありますように。