こんにちはあるいはこんばんは、鍵野です。
今日は遅く起きたので、朝ごはん的な昼ご飯もいいなぁと思い、ずいぶん前に買ってあったライ麦パン(プンパニッケル)とレバーペーストでランチにしました。このプンパニッケル大好きなんですよねぇ。まだ若かったころ、仕事で3週間ほどドイツはミュンヘンに行ったのが初海外だったんですが、そのときお世話になっていた宿の朝ごはんが、毎日プンパニッケルとレバーペーストとかよくわからないペーストとチーズにコーヒーだったんですね。3週間毎日です(笑)。パンは微妙に違うものが何種類かありましたが、どれも日持ちする感じにパックされていて、ペースト類もチーズもそれぞれ日持ちするようなパッケージ入りで、コーヒーを淹れるだけで調理しなくていいし、合理的だなぁと思いました。それで、全然飽きることなく、毎朝楽しくいただいていました。
それで、ドイツ人は女性でも力が強いのか、ドアというドアが重くて、ベンツやBMWのドアがあんな風なのもさもありなんと思いました。操作系というか、ボタンやスイッチ類が大きくてわかりやすくごっつい(笑)。窓ガラスをピカピカにしておくのがドイツ人女性のたしなみとか聞いた気がしますが、床でも窓でもなんかキレイだったのが印象的でした。
ドイツのパンは好みに合ったんだと思いますが、どこの駅にもパン屋さんがある感じで、いろいろ買って食べた気がしますが、どれも美味しかった記憶があります。美術館巡りとかクラッシックコンサートもよかったし、バイエルンミュンヘンのホームゲームを、マックのLサイズ3個分くらいありそうなたっぷりのフライドポテトを食べながら観戦したのもいい思い出です。
一応、ドイツのエリクソンに技術指導をする(先輩エンジニアのアシスタント的な)仕事をしてたはずなんですが…、仕事の記憶はほとんどなくて、ミュンヘンに来たら、本場の白いソーセージを食べなければと、あれ、午前中にしか食べれないんですよね、で、仕事を抜け出して食べに行ったという記憶はあります(笑)。さすがにビールは飲まなかったと思います。
ビールと言えば不思議なもので、日本では500ml缶は多過ぎるくらいだったのに、現地のジョッキは1リットルで、小さいのはレディースサイズだと言われて、有名なビアホールに行ったときのことですが、じゃぁ、まぁジョッキでいただきますか、と、飲んでみたら、しっかり飲み干せたのにびっくりしました。やっぱり現地の空気でしょうか。でも、周りのドイツの人たちは、ガチン、ガチン、とジョッキをぶつけ合って、6杯くらいはトイレも行かずに飲むんだとかいう話を聞いて、驚きました。隣のテーブルのドイツ人が、自分たちのプレッツェルを「これ食べな(ドイツ語はよくわからなかったけど、そんな感じで)」と振る舞ってくれたのも嬉しかったなぁ。
当時はアドラー心理学なんて知らなかったし、ドイツ語も(これは今でもですが)わからないのでしょうがないんですが、今なら"Gleichwertigkeit"(平等)の意味、感覚を現地の人に聞いてみたい気がします。「価値」が等しいという意味らしいですが、日本語で使われている「平等」とは違いますよね。
精選版 日本国語大辞典には、
① 平らかにひとしいこと。でこぼこがなくそろっているさま。
② かたよることなくひとしいこと。ひろく行きわたって差別がないこと。一様に扱うこと。また、そのさま。へいとう
③ 心を平らかにして乱れないさま。
という3つの意味が書かれているようですが、「価値」という意味はやっぱりなさそうです。
というか、「価値」自体が日本語にはもともとなくて、近代になって、西洋から翻訳された言葉のようです。
同じく、精選版 日本国語大辞典で、
① 物事のもっている値うち。あたい。かちょく。〔英和記簿法字類(1878)〕
※吾輩は猫である(1905‐06)〈夏目漱石〉三「研究する価値があると見えますな」
とあります。
それで、上記①の「値うち」を引いてみると、
ね‐うち【値打・直打】
〘名〙
① (━する) 価を評定すること。ねだんを定めること。ねぶみ。評価。
※浮世草子・懐硯(1687)一「越中より親達親類へのつかひ物絹綿も値打(ネうち)してみなみなまけになりて」
② 売り買いのあたい。ねだん。ね。
※職人歌仙(17C中)「弓屋。ねうちをば十三束に引きつめて弓や八幡まけじとぞ思ふ」
③ (━する) その物が持っている価値。役に立つ程度、度合。真価。また、品位。品格。また、その価値を定めること。
※咄本・当世口まね笑(1681)三「おとこははだか百貫と云が、物にくらべて見れば、ねうちが高いと云」
となって、日本で17世紀には使われている言葉であることがわかりました。
ということは、アドラー心理学的な"Gleichwertigkeit"を、日本語にできるだけ開いて表現すると、「人はみな「人としての値うちは等しい」」という感じになりますかね。
赤ちゃんも、お年寄りも、何歳であろうと、女も、男も、病気でも健康でも、身体の大きさ・色・形・持っているもの・持っている能力・住んでいるところ・育ったところが違っても、みんな人としての値打ちは等しいというのは「事実」であり「理想」だ、というのがアドラー心理学の立場です。そういう、人と人を比べて上にしたり下にしたりしないところ、「平等の位置」で暮らせたら、人間関係の問題はなくなるよね、だから人が、できるだけその「平等の位置」に留まれるように、外れたらすぐ戻れるように援助するのがアドラー心理学です。
私たちが互いに「平等の位置」にいるのは事実なんですが、でも、人は、小さい頃から、家庭や学校で、誰かを上にして自分を下にしたり、誰かを下にして自分を上にしたりする訓練を積んできているので、大人になっても、やっぱり同じように、自分が作った新しい家庭でも、職場でも、街で買い物をしたり、遊んでいても、どこでもいつでも、同じように、自分と誰かを上にしたり下にしたりの忙しいシーソーゲームを続けて暮らしています。
アドラー心理学を学んで、冷静に自分を観察すればそれがそのシーソーゲームがウソだとわかります。ある出来事が起きて、自分が下になってしまった、大変だ、このままでは世界に取り残される、仲間外れになる、なんとかして上に行かなければと、陰性感情を使って、イケてる自分の位置(これもウソですが)までジャンプしようとするのは、あなたの小さい頃から大事にしてきた価値観が反応してるだけのことで、別の価値観を持っている他人には記憶にさえ残らないどうでもいいことであることがほとんどです。もちろん、そのあなたにとっては存在の危機と感じられるような出来事をどうでもいいと感じる、その人も、また、あなたにとってはどうでもいいことに対して、敏感に反応して、その人の価値観の軸に沿ったジャンプを試みて、喘いで苦しんでいるという意味で、まったく同じことなんですが。
いつも賢くなければならないという価値観で暮らしている人にとって、自分がバカに見える出来事は耐えられないことですが、人から「バカだなぁ」と思われることで、居場所を確保してきた人、人間の仲間になれてきた人にとっては、人より賢く見られるなんて、怖くて怖くて耐えられません。こういう人は、いつも人からどこかぬけていると思われるように、小さなころから懸命に努力してその技を磨いてきています。決して、真面目な本を読んでいるところなんかみつからないようにいつも気を付けているはずです。
それで、アドラー心理学カウンセリングが何をしてるかというと、そうい自分が小さなころから必死になって演じてきたシーソーゲームを、深刻にならず反省せず、できればユーモアのセンスで笑いながら、冷静に大人の目で観察してもらうことをしています。その人の実際の年齢が何歳であろうとも、たかだか5歳のころに作った人生プラン、価値観のプランに従って、ずーっと右往左往してきたこと、上に下に飛び上がったりしゃがんだりしてきたこと、でも、それは5歳の自分にとっては、死活問題で、あの人たちの中で、なんでもない人、無視される人ではなく、それなりの人、重要人物になった気がするようになるために、必死で、サバイバルする中でようやく編み出した、価値観であり人生プランであったこと。そして、今も、そのプランに従って、怒ったり悲しんだり不安になったり後悔したりし続けていることを、卑下もせず、天狗にもならず、冷静にカウンセラーと一緒に観察することをしてもらってます。そして、価値観は5歳のままだけれど、その価値観に沿うために努力してきたこと磨いてきたこと鍛えてきた力、ストレンクスは、歳相応、大人として、実際にその人が持っている力であること、その力は自分が上に行くためではなくても、使おうと思えばいつでも使えること、自分だけでなく他の人を助けるためにも使えることに気づいてもらいます。
で、そうすると、いやおうなしにライフスタイルが、その5歳のころに作った人生プラン、価値観が、成長していくんですね。逆説的に聞こえるかもしれませんが、成長って、伸びることではなく、緩むことなんです。何が何でも自分の価値観に沿った生き方をしようと背伸びしきっていたその人が、他の人も自分も人として同じ価値のある「平等の位置」にいる人同士なんだとわかって、ふっと緩む瞬間があります。そのときその人は成長しています。あれほどビリビリしびれていたこと、カチンと来ていたこと、ガタガタブルブル震えていたことが、そうでもないなぁと思えるようになっています。だって、もう5歳じゃないんですから、その人は。5歳のころに決めたことに従う義務なんてないんですものね。そうなればしめたもので、歳相応のストレンクスをシーソーゲームの目的達成のためではなく、自分も含めたみんなのために、大人っぽくうまく使うことができるようになります。そうしたら、そりゃぁ、周りの人とうまくやっていけるようになりますよ、だって、いつも自分が上に上に行こうとしたり、いつも自分が下に下に行こうとがんばっている人の近くには誰だってあまり一緒にいたくないでしょうけれど、そういういつも必要な時には自分と協力してくれる人ならいて欲しいでしょ、近くに、ねぇ(笑)。
ということで、一度アドラー心理学カウンセリングを受けてみられませんか。来月2月17日(土)に大分市の稙田公民館で、午前中に2枠の無料カウンセリングを提供させていただきます。無料だからといって、手抜きはありません(笑)。安心してお申し込みいただければと思います(「こくちーず」からお願いします。鍵野のホームページに「こくちーず」の申し込みページのリンクもあります)。九州にお住まいの方であればどなたでも歓迎です。どうぞよろしくお願いいたします。
読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。