こんばんは、鍵野です。
初めて、お年玉付き年賀はがき、切手シートも当たりませんでした…。枚数が少ないので、確率的に全然おかしなことではないんですが、それでも静かに時代が変わってきたことを実感しました(大げさな(笑))。見てないけど、きっと龍の切手シートカッコ良さそうだなぁ。
そういえば、今年は息子にお年玉をあげなかったんでした。自分で稼ぎ始めたわけではないけど、もう大人だし一人暮らししてるんだし、いい頃合いかと、年賀状仕舞いはしなかったけど、息子へのお年玉仕舞いにしました(いつか孫が来てくれたらその子にはあげよう(笑))。でも、大学生だから、母(おばあちゃん)とか元妻とか、親戚のおじさん、お兄さんとか、いろんな人からしっかりいただいてはいたようです。ここでお年玉を卒業しておかないと、彼は修士まではいく予定なので、まだまだずいぶん先まであげることになってしまうし(笑)。
お年玉が浮いた分というわけではないけれど、仏教のお師匠様の祖国に学校を作るための寄付や、能登半島の被災者支援のための寄付をさせていただきました。絶対額はわずかではありますが、鍵野の生活実感の割合としてはそれなりにインパクトのある額で(笑)。まぁ、なんだか「寄付しました」なぁんていやらしい感じもしないでもなかったんですが、仏教では、いいことをしたらお知らせして(自慢の「慢」が入ると悪徳に転じてしまいそうですが)、みんなで乗っかっちゃうというか、それを喜び合うことで、さらに功徳が増すという理屈があったと思います。ということで、ちっちゃなことではありますが、みなさんと一緒に喜べたら嬉しいです。
それで寄付ではないですが、お仏壇にお供え物をするときの話も、日本人の先祖供養としてのお供えと、仏教のお供えはずいぶん違っていて、驚いたのを覚えています(まぁ、そもそも仏教は、本来、生きている人のための教えなので、死んだ人には関係ないわけですが(笑))。亡くなった人にお供えをして食べてもらおう飲んでもらおうというのは、我々日本人には自然な感じがしますが、お墓だろうと仏壇だろうと、もうそこにはかつて生きていた人はいないので、じつは、あれ、鍵野には見えませんし感じることもできませんが、うじゃうじゃいるはずの餓鬼たちに食べてもらっているらしいです。
食べても食べてもすぐに食べたものが燃えてしまっていつもお腹が空いている餓鬼のために、どうぞとお供えするんだとか。なので、後で自分が食べようと思わないであげたほういいらしいです。ラップはしない方が(笑)。もちろん、いろんな未練があって亡くなった方が餓鬼となってさまよっていることもありうるので、やっぱり、先祖供養にはなっているのかもしれませんね。仏教では、私達は、無始なる過去から、輪廻転生を繰り返していると教えていて、どんな生き物も、どこかでかつて自分の母だったり父だったりしたでしょうと…、だから自分の血を吸いに来る蚊も、これだけ多くの人がいる中であえて自分に来るんだから、昔のお母さんだったかもしれませんよ、だから叩かない方がいいですよと、チベット仏教のお坊様に教わったことがあります。
それでお釈迦さまにお供えするのは、また話が違うんですね。お師匠さまへの尊敬とか感謝なのかなぁ…、鍵野もご飯を炊いたときには、一番先にお釈迦様にお供えをします。で、これは、お釈迦さまに差し上げたものをいただくなんてそんな恐れ多いことはできないので、下げて捨てちゃいます。鳥とか虫とか他の生命にというのも違うようです、こと、お釈迦さまにお供えしたものについては。それを口にできるような生命はいないんでしょうね。
で、これは儀式的な側面があることは否定できないんですが、そういう儀式をしたら幸せになるんだとか、そんな了見でやっていると仏道に反する戒禁取という邪道なことになってしまうんですね。あくまで、お釈迦さまに礼を尽くすというような感じかなぁ、礼儀って感じが強い気がします、尊敬する立派な方がそこにいらっしゃったら、そりゃぁ先に「いただきます」はないよね、という感じですかね、鍵野としては。
そんなこんなで、仏道を実践していくと、あえて日本文化に対立する必要もないんですけれど、初詣とかお墓参りとか、明治節に国旗を掲揚するとか、なんかですね、前は結構しっかりやっていたことが、お付き合いという感じになってきてるのに気づきました。せっかく母が墓掃除までしてくれてるから、お墓参り行ってきたよって報告したいなぁというような感じ。お骨の主だった人に会いに行く感覚はなくなってます。みんなで故人の善行を思い出すきっかけにはいいと思うんですがね。そして、初詣もですね…、仏教によれば、神様も身体を持たない生命の一つに過ぎなくて、いないというより、確実にそういう次元の生命もいるというのが仏教だと思うんですけれども、寿命がとてつもなく長かろうが、やっぱり自分が生きるのに精一杯の方たちで、ずっと楽しんでいないと死んじゃうらしいです。それに、我々がお願いしても、神様が瞬きする時間が人間の一生にあたるくらいのスケールの違いがあったとしたら、願いを聞き届けようとする間に、我々の寿命が尽きてしまうんではないかなぁとも。罰当たりなとも思わないでもないですが、その罰を当てる暇もない生命に過ぎないんだよなぁ、あの方たちもというのが仏教からの視点だと思います。
今や懐かしい響きがありますが「共同幻想」ですよね、宗教も国家も家族に至っても…。でも、人はその「共同幻想」に従って、行為をすることで、現実の物理的な物事に影響を与えることができますから、やっぱり、神とか国とか家族のために、他の人を殺してしまうことができたりするんですよね。同じく、「共同幻想」に従って、神とか国とか家族のために、他の人に親切にできたりするんですが。
それで、ようやくアドラー心理学の出番ですが(笑)、アドラー心理学の「共通感覚」と「仮想論」を合わせたら「共同幻想」の話ができそうです。「一年の初めには初詣に行くべきだ」という言明に従うべきか? 多くの日本人は初詣に行くようです。ということは、「べき」の度合いはともかくとして、多くの日本人はこれを是としているということですよね。中国の人は、普通、初詣に神社に出かけることはないでしょう。新年を祝うことはされるかもしれませんが、神社ではないだろうと。だから、初詣は、日本人の多くに共通する「仮想」であり「共通感覚」ということだと思います。べつに正しいわけではない(笑)。
そんなわけで、いろんな国や地域で、様々な「仮想」の「共通感覚」に従って、人間が行為し続けています。アドラー心理学が生まれたのは、20世紀初頭、オーストリアのウィーンという国際都市ででした。いろんな国の人が交わる都市で、ユダヤ人であったアルフレッド・アドラーが始めた心理学です。アドラー先生は1930年代に、台頭してきたナチから逃げるようにして米国に移住しました。いろんな「仮想」の「共通感覚」同士がぶつかって、実際に人を殺し合っていた世界で生まれたのがアドラー心理学です。
アドラー先生は、だからこそ「共同体感覚」という「共同幻想」を乗り超える道、一緒に幻想(同じ「仮想」の「共通感覚」)を抱く間柄にはなれないとしても、互いの存在くらいは認め合って暮らしましょうよという提案してくれたのだと思っています。相手が何人であっても、どんな宗教を信仰していても、どんな理想を掲げていても、とりあえず、誰だって殺されたくはないのだから、相手の「殺さないで」という願いくらいは、互いに聞き入れて暮らしていきましょうよというギリギリのラインを提案したのではないかなと思っています。自分は、一日に5回もお祈りするのはかんべんだけど、でも、そうしたい人がいるなら、できるだけ叶えてあげてもいいじゃないのかなと。それでも、例えば、静かに祈りたい人たちの隣で、太鼓や銅鑼で祈りたい人たちがいたら、それはやっぱり無理だから、離れて暮らした方がお互いのためだよね、と話し合ってもいいんじゃないかと。豚肉を食べたら大変なことになると信じている人たちの隣で、とんかつ屋さんを開業しなくてもいいだろうし、とかですね。
仏教は価値観を捨てるところを目指す出世間の究極の智慧ですが、アドラー心理学は、価値観が違う人たち同士が、どうやったら協力的に暮らしていけるか(最低限、殺し合わずに済むか)という世俗的な知恵に過ぎません。でも、だからこそ、この地球で暮らす私たちが、互いの違いを認めたまま、平和に幸せに暮らしていくために必要な価値ある知恵だと思います。
千里の道も一歩から。すべての人類が平和に暮らしていける世界の実現のためにも、まずは目の前の大事な人と協力できるようになりたいですよね。世界中の人が目の前の大事な人と協力できるようになりさえすれば、平和運動なんかはいらないでしょうにね、きっと。
読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。