<2023年9月23日wrote>
<見えているものは同じ?>
おはようございます、鍵野です。
アドラー心理学の仲間に会いに福岡に来ています。
写真は、大分から福岡に向かうときにいつも通るお気に入りスポットからの眺めです。早朝です。ススキも見えて秋らしい感じも出てますね…という文章を読むと、ススキが目に入ると思いますが、何も説明なしで見れば、人それぞれ、注目するポイントは違うと思います。山が気になる人、山にかかる雲が気になる人、空の上の方の雲が気になる人、ふもとのぼんやりとしたかすんだ感じが気になる人、オレンジっぽいような黄色っぽいような光が気になる人、手前の木が気になる人、草原が気になる人、などなど。
同じように、例えば、親子で、あるいは夫婦で、友人同士で、街を歩いていても、私たちはそれぞれ全然違うものを見ています。「さっきの人のバッグ、いい感じだったなぁ…。この間買ったあの服に合いそう…」「あっ、クレープだ、マロンクリームかぁ…いいなぁ、お腹空いてきた」「おっ、あそこに停まってるの、昔のギャランじゃない? いいなぁ、あの頃の三菱、好きだったんだよなぁ」「あの猫、太ってるなぁ…何食べてるんだろ?」というように。「ほら、あの猫見て」と言われて目を向けたとしても、「へぇ~、しっぽのワンポイントの黒がいいねぇ」
なーんて、その人の興味に応じて全然違うものが目に入ってきます。
人は目や耳や鼻や舌や身体に触れたものをそのまま経験することはできないんですよね、客観的に見えていると思っているもの自体が実は既にその人ユニークに切り取られた世界なんです。ましてや、その見たこと聞いたこと嗅いだこと味わったこと感じたことをもとに勝手に頭の中で考えたことなんて、ひとりひとり違っていて当たり前です。
なので、不思議ですよね、そんな私たちがコミュニケーションできてしまうってことが。例えば、従わないと危ない赤信号の赤だって、隣の人の見えている赤は私に見えている赤と同じわけないんです。でも、隣の車線のドライバーも赤信号で止まっています。じつは一緒なのは、色ではなくて、その人と私の論理と価値の構造なんです。私と隣のドライバーはどちらも、「赤」と誰かが言っているときに見えているあれが「赤」ということを学び、前方の信号が赤のときは進んではいけないと学んでいて、自分もそうしよう(この場ではその方が価値がある)と決断した人だということです。
相手を理解するには、相手の目で見て、相手の耳で聞き、相手の心で考えることだとアドラー先生が言いました。それは、相手の論理と価値の構造を通して世界を感じるということだと思います。どんなに不可解な行動をするように見える人にも、その人なりの論理と価値の構造があって、その構造をもとに達成したいある目的があります。不可解な行動をするのは、不可解な行動をする人だとあなたに了解してもらいたいからという可能性だってあります。コミュニケーション不可能な人だと了解してもらうことで実はコミュニケーションを達成しているという、なんとも人間らしいというかパラドキシカルなことが起きているのかもしれません。
極端な例を出してしまいましたが、本来、全然違う世界を感じている人と人がコミュニケーションできてしまうという、この奇跡にたまには驚いて、自分と一緒に過ごしてくれている周りの人に感謝しながら、秋の味覚を一緒に楽しんでみるのも(これも奇跡)、なかなかよいのではないかなぁと…。
読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい週末をお過ごしください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。