<2023年9月21日wrote>
こんにちは、鍵野です。
もうすぐお彼岸ですね。昨日、早めにお墓参りをしてきました。近くにお墓があるのでいつでも行けるのですが、やはり特別な感じはありますね。人は一人では生きられません。今の自分があるのも、こうして日本語の読み書きができるのも、全部他の人から教わったおかげです。せめてもの感謝をまずは家族・親族からという感じですかね、お墓に「ありがとうございます」と手を合わせてきました。
さて、アドラー心理学の話題ですが、アドラーでは「無意識」って言わないんですよね。「無意識的」とは言うけど。どう違うかというと、アドラー心理学では、なにか人間には触れない「無意識」という領域が別にあるとは考えなくて、意識していない部分、今、スポットライトを当てていない部分はあるよと、それをさして「無意識的」と言うんですね。
なので、つい大きい声で子どもを怒鳴ってしまったというケースで、私はそんなことしたくなかったんだけど、私の中の無意識さんが私を怒らせた…という言い訳は、アドラー心理学を学ぶとできなくなってしまうんですね。しっかり意識しながらかわいい子どもを大声で怒鳴るのはさすがにできないけれど、今は意識しないことにして、無意識的に、(言うことを聞かせるのに都合がいいから)怒鳴ってしまうことにしたという風に考えるわけです、アドラー心理学では。
で、子どもが小さいころはかなりうまくいっていたんだけど、この頃、怒鳴っても言うことを聞かない。自分の部屋に入ったきり出てこなくなった… あんなに素直ないい子だったのに、すっかり変わってしまった。どうしたらいいんでしょう?と…。
だいたい、子どもが10歳くらいになると、大人がたいして大人ではないことに気づいてしまいます。ははぁ~、どうもこの人たちは偉そうにしているけど、中身はたいして自分たちと変わらないなぁと… 怒るし、わめくし、落ち着いてないし… 自分たちに都合のいいことばかり言うしと… それで、どうやら自分たちもここらでもう成長しなくてもよさそうだぞ、この人たちのようにやっていればなんとかなるらしい…と信じ込んでしまうんですね、無意識的に。
まぁ、例外的に、感情的にならないし、落ち着いているし、いろんなことを聞けば親切に教えてくれるし、お節介じゃないけど助けてくれるし、子どもをばかにしないし、対等に扱ってくれるような親のもとで育った子どもは、いやいやまだまだこの人たちのレベルまで成長しないと!と、思うかもしれないんですが…
で、どうしたらいいのかというと… 意識的になればいいんです。アドラー心理学を学んで、なぜこの場面で自分が感情を使って自分にとって困ったなぁと思う事態を解決しようとしてしまうのかに気づいて、他にいい方法があることを学んで、勇気を出してその方法を試して、それでいろんな方法を試す中で、何かうまくいくのがみつかったら、そしたら、人は味をしめて、その新しい方法を使うようになります。繰り返せば、その方が楽になるのでだんだん「無意識的に」使えるようになります。そして、なんであんなに疲れてイヤな気持ちになる「怒鳴る」なんて方法を以前は使ってたのか、自分でも不思議に思うようにさえなります。どうです、試しにやってみられませんか?
読んでいただきありがとうございます。
あなたがアドラー心理学に出会うご縁となれますように。