アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

アドラー心理学の供給者って

こんばんは、鍵野です。
いろいろと立て込んだ年度末が終わりに近づいて、来週からはもう4月、新年度ですね。個人事業主なので会計年度は1月~12月なのですが、学校も会社もそうだったし、やはり新年度は4月に始まる感覚が強いですね。


秋から割と忙しかった仕事が一区切りついて、しばらくのんびり過ごせそうで、そんなにプレシャーがあったわけでもないのですが、それでもホッとしている感じはあります。季節労働者というか、ピークとボトムの差が激しくて、もうそんなにピークはいらないので、ボトムよりちょい上あたりで推移してくれるといいなぁなんて思っています。まぁこれといった営業をしているわけでもなく、完全に待ちのスタイルでやっているので、そのときそのときの流れに逆らわずに、一方的には流されない程度の竿裁きはしながら、一喜一憂せず気づきを入れてやっていこうとは思っています。


それで、そんな年度末をなんとかくぐり抜けた自分へのご褒美という意味も込めながら、今週末、久しぶりに野田俊作顕彰財団(AIJ)の先生方からアドラー心理学を学びに出かけます。アドラー心理学のメッカ?、滋賀県大津市まで、今回から始まる、AIJとしては新しいプログラムとなる事例検討会とオープンカウンセリングに参加します。とっても楽しみです。


仕事としてカウンセリングを始めてから、ただ自分が学びたいという理由だけじゃなくて、それだけの時間とお金をかけて学ぶものが、お客さんに、他の人に還元できるものかどうかという基準で、厳選するようになって、もちろん稼ぎとのバランスも考えて、今回のはぜひ参加したい、参加しようということになったのでした。


じつは、大津では3日間、初日の夕方から「事例検討会」、次の日が「カウンセリング講座」、そして最終日に「オープンカウンセリング」と予定が組まれていて、どうせ旅費を使うのであれば、2日目の「カウンセリング講座」も参加しようかなとも思ったのですが、よく考えてやっぱり2日目は参加せず、京都で開催されるあるライブパフォーマンス(無言劇)を観に行くことにしました。


というのもですね、「カウンセリング講座」というのは、「エピソード分析」によるカウンセリング実習が行われる講座で、自分でカウンセラー役として実習したり、クライエント役になったり、あるいはそれを見学することで、「エピソード分析」によるアドラー心理学カウンセリングを学ぶ講座です。先生方のカウンセリングのデモもあったり、実習内容に関するコメント、アドバイスがあって、アドラー心理学のカウンセリングを学びたい人にとって、大変ためになる講座です。…というか、参加必須の講座です。


それで、これまでは2日間のプログラムで1日に4人くらい、2日間で8人くらいの方が実習する感じだったのですが、今回から、1日だけのプログラムになったので、実習できるのは4人くらいかなぁと。鍵野は、これまでに何度もこの講座に参加していいて、参加するたびに必ず実習をさせていただいてました。ところが今回、4人しか実習できないとなると、この貴重な枠に入れてもらうのはちょっと気が引けるというか、他の人にやってもらった方が、みんなのためになるだろうなぁと考えました。とくに、今年の夏に開催予定のカウンセラー養成講座に参加してカウンセラーを目指している方々にとっては、本当に貴重な絶対実習したいはずのところだと思うので、これはお譲りしなくてはと思いました。先生方に稽古をつけてもらわなくてはという思いもありはするのですが、どちらが優先するかといえば、やっぱりこれからカウンセラーになろうという方が本番さながらの雰囲気でカウンセリング実習できる機会を提供する方がそりゃあ優先度高いでしょうと。


お仲間のカウンセリングを見るだけというのも、もちろん学びはあるはずですが、上手なカウンセリングから学ぼうというのとはちょと意気込みが違うので、もどかしい感じもあるし、じゃぁクライエント役でお役に立とうかと思っても、アドラー心理学のおかげで本当にそんな相談するような困ったできごとが起きてないんですよねぇ…。そりゃぁ、雲一点もない青空のような人生というわけでもないから、ライフスタイルに引っかかるところのモヤっとした感じのところは相談しようと思えば相談できなくはないけれど、でも、そんなのを出されても、カウンセラー候補生の方は困ってしまうでしょうしねぇ(笑)。「エピソード分析」の練習になりそうな、ちょうどいい感じのエピソードがないんですよね。応援したいという気持ちはあるんですが、今回はパスしてみます。それなりにしますから受講料も(笑)。


それで、ここまでが長い前置きで(笑)、今日はアドラー心理学の消費者と供給者の違いについて考えてみたいと思います。野田先生は、この「消費者」と「供給者」とを厳しく峻別されていたように思います。アドラー心理学の「消費者」として、自分の暮らしの中でアドラー心理学を使おうという人に対しては、こうあるべきだとか、こうしなさいというようなことはおっしゃっていなかったと思います。役に立つように自由に使えばよろしいでしょうと。でも、アドラー心理学の供給者になろうとする人にとっては、厳しく、その責任を取りなさいというようなことをおっしゃっていたと思います。アドラー心理学の供給者というのは、ほぼ当時の日本アドラー心理学会の有資格者を指していたようで、パセージリーダー、カウンセラー以上の資格を持っている人のことだったと思います。他の人にアドラー心理学会を伝える人という意味ですよね。


一番重視されていたのが、アドラー心理学の供給者は、自らアドラー心理学を実践している人でなくてはならないということだったと理解しています。なので、いくらアドラー心理学について詳しくて、解説出来て、たくさん本を書いている人であっても、大学教授とかの肩書があっても、自ら実践していない(と先生から見えていた)人のことは、供給者として認めてらっしゃらなかったようでした。


なので、パセージリーダーもカウンセラーも、ただその人がその資格を取りたいというだけでは、養成講座に参加できなくて、事前に許可された人だけが参加できるというシステムだったと思います。※現在の日本アドラー心理学会のカウンセラー養成講座ではそういう規定はなくなっていると思います。気になる方は学会ホームページなどで確認ください。


講座に参加できた人も、実践ができているとは限らなくてヒイヒイ言いながら、苦労して、実践が足りないことに気づいていったりするのですが(かく言う鍵野がそうでした)、少なくとも実践できているという供給者の責任は取ろうとする人たちが集まっていたとは思います。最終的に資格を取らずに撤退する方も、その辺りに納得はされて退かれたのだと思います。


と、ですね、アドラー心理学の供給者になるというのは、なろうとするだけでも、かなり覚悟がいることで、生半可な気持ちではチャレンジできないことだと、身をもって経験しているので、人がアドラー心理学を学ばれて、使われて、周りの人との関係がよくなって、ご自分の暮らしが楽になって、それはとっても喜ばしいことですし、もし、鍵野がそのきっかけになれたとしたら、こんなに嬉しいことはないのですが… が、そこから、もちろん善意でだし、アドラー心理学のよさを実感していただけたからこそなのですが、ご自分でも他の人にアドラー心理学を伝えたいと思われたとき、例えば「どうしたらカウンセラーになれるんですか?」と聞かれたようなとき、そういうときですね…、なんか微妙な、なんとも言えない、なんか変な間が…こうすればいいですよとスッと答えられない空気になってしまうんですね。


どういうことなのかなぁ…これは、と考えていて、アドラー心理学業界?はあまりにもニッチなので、他のもう少しみなさんの知っているかもしれない業界の話で例えるとわかりやすくなるかもと思って、鍵野の好きな落語の世界に引き寄せて考えてみたいと思います。


落語って、きっと寄席に行って生で落語を楽しんだことはない方でも、あの「笑点」という長寿番組で座布団を重ねている和服を着た人たちが落語家さんだっていうのは知ってると思います。あれ、鍵野が大好きな故立川談志さんが企画して作られたんですってね、もともとは。それは余談ですが、世の中には落語ファンがたくさんいます。落語を聞いて、面白いなぁって、SF映画のような大予算もいらないというか、何もなしに、ただ話を聞いているだけで、自分で想像した世界の中でどんなことだって起きてしまう、大イリュージョンが展開されるんですから、本当に凄いなぁと思って、楽しんでいるうちはいいんですが、これを自分でもやってみたい、落語家になろうとなったら話は全然違ってきます。


アドラー心理学に助けられたから、自分もアドラー心理学で人を援助したいって、これ、素直だし、まっとうだとは思うんですが、これ、落語を聞いて楽しかったから、自分も落語で人を楽しませたいっていうのと似てるというか、同じだなぁって、思うんですね。


同じだなぁって思うんですが、そんなに多くないと思うんですよね、落語ファンの数に対して落語家にまでなろうっていうような人は。今、落語業界?は、組織として5つに分かれているらしく、最も伝統的な古典落語を中心とした日本落語協会、それから新作落語に力を入れている日本落語芸術協会落語協会から、ときの名人円生さんが飛び出して作って、その弟子の円楽さんが率いていた円楽一門会、そして立川流家元を名乗った立川談志さんがやはり落語協会を飛び出して作った立川流、それから関西の上方落語協会とがあります。落語家になるには、誰か弟子を取っている落語家さんに「弟子にしてください」と弟子入りを志願して許されてから初めて修行が始まります。まずは前座修行ということで寄席の定席がない立川流以外は4年(関西では前座という身分はなく3年で年季明けというらしい)、毎日寄席でいろんな師匠方(真打以上を師匠という。関西にはないけど)のお世話をして、そこから二つ目という身分になって、そこから10年くらいしてようやく真打として独り立ちする(自分の看板で営業する)という流れらしいです。立川流は寄席がないので、師匠のお世話をしながら師匠のホール落語(寄席以外での落語)の前座をつとめたりして修行を進めていって、師匠が認めたタイミングで二つ目、真打となるらしいですが、やっぱり真打になるまで十数年はかかっているようです。落語中心の生活で修行しながら十数年暮らしてようやく一人前の落語家になるわけですよね。これではたしかに気楽に「落語家になりたい」とは思えないですよね(笑)。


そのくらいのギャップがね、落語ファンと落語家との違いくらいのギャップが、アドラー心理学の消費者と供給者にはあると思うんですよね。供給者の中でも、落語を引き合いにして言えば、前座、二つ目、真打という違いが、それぞれパセージリーダー、カウンセラー、心理療法士にもある気がします。鍵野は二つ目というところですね(笑)。ようやく高座にも上がれるようになったけど、まだまだ真打目指して修行中というところですね。


落語家も、いろんな師匠のところにやりたい噺を習いに行って、覚えてから、その人の前でやってみせて、OKをもらえたら自分の噺として高座にかけることができるそうですが、鍵野も、いろんな先生のカウンセリングを見せてもらって、いろんな技とか間合いとかなかなか文字では表しにくいところも含めて学ばせてもらって、落語と違って同じ話は二度とないので、OKをもらえたらというプロセスはありませんけれども、カウンセラー試験に合格はしているのでそこは勘弁していただいて、実際に相談に来られた方を援助するのに使わせてもらっています。これ、高座にかけるという感じに近い気がしています。


という感じでいるので、「どうしたらカウンセラーになれるんですか?」と聞かれると、「そりゃカウンセラーが増えたら嬉しいけど…こんな厳しい世界…わかってるはずないよね…うーん、どう答えたものか…」と戸惑ってしまうというか、微妙な感じになってしまうんですね。できたら、消費者としてアドラー心理学を自分でどんどん使ってもらいたいなぁと、思うんですよね。使っている勢いで人に伝える伝わっちゃうのは大いに歓迎なんですが、「カウンセラー」とかってなると、いやいやいやって…。


だから、現在の日本アドラー心理学会が、既に臨床心理士さんだったり公認心理師さんだったり、医師、看護師、保健師社会福祉士とか、そういった援助職のプロの人たちに、アドラー心理学カウンセリングを学んでもらおうとしている、流れに戻っているように見える(鍵野の勝手な見方ですが)のもさもありなんというか、わかる気はするんですよね。もともとプロだから、安全な気がするんですね、だって今も援助していて、それ以下にはならないでしょうから、たとえアドラー心理学の学びがどういうレベルだとしてもですね。本当にカウンセリングができるようになったら凄いし、嬉しいし、いいことだと思うし、できなくてもきっとよくはなっている。でも、プロでない人、鍵野もそういう意味ではプロでない人ですが、そういう人が、アドラー心理学を学んで供給者側にいなかった人が供給者側に立ったつもりになるのが怖いんだろうなと、自戒を込めてですね、そこを恐れているからこその、野田先生の厳しい線引きがあったのかなぁと、今更ながらに師匠の偉大さに敬服しています。


ということで、いま、プロの援助職にいるわけでもない人がアドラー心理学のカウンセラーになろうというのは、まずはおすすめしないですね。この辺意見が変わったかも。自分がそうなっていながら偉そうですが。それでも、どうしてもという根性(執着かも(笑))のある方は、ぜひ野田俊作顕彰財団(AIJ)の基礎講座応用編、基礎講座理論編、パセージ、パセージ・プラス、カウンセリング講座、その他の講座も受けまくって、当然、どんなに大変でも遠くても自助グループに入れてもらって通い倒して、それでようやく、いつの日かカウンセラー養成講座の受講を認めてもらえる日が来て、さんざん落ち込みながら、ギリギリ合格できるか、次の養成講座にチャレンジするかとか、そんなアドラー心理学づけの何年間かを過ごせば、きっと、やっぱり他の人にはおすすめしないけど、アドラー心理学カウンセラーっていいよねと思うアドラー心理学カウンセラーになれているかも(笑)。当然お金もたくさんかかるのでフローの収入で賄えない方はしっかり学習費を貯めておいてくださいね。


それでは、しっかりAIJの先生方から学んできます!


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

シジフォスの岩

こんばんは、鍵野です。
一週間ほど東京に行っていました。人生の3分の2以上は、東京で暮らしてきたので、慣れてはいるつもりですが、普段暮らしているところとの人口密度の違いにあらためて驚きました。歩いていると視界の中にたくさんの人が入ってきます。それも全然知らない人ばかり。そんなの当たり前と思って何十年も暮らしていたんですが、これはやっぱりちょっと異常なことではないかと思いました。その知らない人同士が(ある程度)信頼して、助け合って暮らせているというのは凄いなぁと。


大分に出てくるときに、スイカとかパスモは処分したので、移動には現金を使いましたが、今や切符を買う人は少数派ですね(一緒に行った息子はiPhoneで払ってたし)。飲食店や買物での支払いもカードも使わずバーコード決済で済ませることも多くなったし、通帳レスの銀行も増えているし、ログインして表示される残高の数字で、かろうじて世の中とつながっているような気がします。人が動くたびに、どこかの残高が増えてどこかの残高が減る(国債発行で世の中に流れるお金が増える場合は増えるだけですが)、「チャリン、チャリン」と音こそしませんが、「お金」という共同幻想への信頼はみなさん篤いようです(笑)。


驚いたのが浅草寺周辺の飲食店の価格高騰、いや、驚いちゃいけないんでしょうね、インバウンド価格になっていて、ランチで2千円くらいは普通な感じ。浅草に行くと天ぷらが食べたくなる感があるんですが、チェーン店ならではの安心価格の天やで、天丼をいただきました(笑)。外国人観光客の懐事情を考えたら、別に更に倍のランチが4千円でも構わないんですよね、円安だし。日本人向けと外国人観光客向けとで使い分けられるのが当たり前になるのかなとも思いました。懐の寂しい日本人はチェーン店にしか行けない時代になったりして(笑)。外国人観光客と日本に住む人との二重価格というのは、日本文化的にやりにくいでしょうしね。


甥っ子の結婚式&披露宴、演劇、落語、そして中小企業診断士の資格更新のための研修も含めて、ライブを堪能してきました。やっぱり一観客に過ぎなくても、その場にいるだけで、一緒にその場を作っている感があって、オンライン参加や動画の視聴とは全然違うなぁとあらためて実感しました。主役、演者、講師との双方向での生のやり取り、コミュニケーションがあるんですよね、言葉は交わさずとも。この感じ、一緒に協力して作り上げていく感じを、鍵野もカウンセリングとかセミナーで大事にしていきたいと思います。


それで、今日は「執着」について考えてみたいと思います。野田先生は、アドラー心理学の思想であり、目指すところの「共同体感覚」の反対語を「自己執着」とおっしゃっていました。「この出来事はみんなにとってどういうことだろう。みんなのしあわせのために私は何をすればいいだろう」という考え方が共同体感覚で、「この出来事は私にとってどういうことだろう。私の幸せのために私は何をすればいいだろう」と考え方が自己執着だというように。


ここで、「自己執着」に「自己」という限定が付いているのがすごく大事なところだと思うんですね。もし、「自己」の限定がなく「執着」をなくそうとすれば、これはもうお釈迦さまの教え、仏教そのものになってしまって、出世間を目指すことになってしまうので、よっぽどの覚悟がないと実践することができません。幸いにも(笑)、ここに「自己」という限定が付いているのが、アドラー心理学が俗世間の知恵として気軽に(そうでもないが(笑))学べるところなのかなと思います。


関連して、印象に残っている話を紹介します。仏教のお師匠様であるスマナサーラ先生が最近の動画でおっしゃっていたのですが、すべての生命はシジフォスのようなものだと。決して頂上までには運ぶことのできない大きな重たい岩をずっと押し続けているのだと。もう少しで頂上と思っても、また下まで転がっていってしまう。それでも飽きずにあきらめずにそれを押し続けるのが生命だと。ゼウスの命に従って岩を押し続けるのですが、そのゼウスも次元は違うけど生命に過ぎないのだから、自分の岩を押し続けていて忙しくて人間にかまう暇なんかないのだとも。


執着とはシジフォスの岩のようなもので、私たちはそれぞれの岩をそれぞれの頂上に向かってずっと押し続けていると。東京だろうが大分だろうが、外国人だろうが日本人だろうが、すべての人は生まれてから死ぬまで重たい大きな岩を押し続けているんだなぁと、久しぶりに東京に行ってきて、帰ってきて、実感しています。


仏道修行はその岩を押すのをやめてみる道ですが、アドラー心理学は違います。できればライフスタイル分析によって、それぞれの人のそれぞれの岩のユニークさを知った上で、岩を押したくなるのはそれは人間だからしょうがないんだけれど、どうせ押すなら、自分も入れたみんなのためになるように押しましょうね、もし自分の岩は少しの間なら置いておけるのであれば、置いておいて、他の人の岩を押すのを助けてみたり、他の人が岩を置いておいて一緒にくつろげるのであればそうしてみたりとか、そんなことができるのであればそれはぜひやってみましょうよという世界だと思います、アドラー心理学は。


アドラー心理学カウンセラーとしては、とりあえずカウンセリングの間は自分の岩は置いておけるようになること、「自己執着」から離れられることが必須と思います。相談者さんを巻き込んで自分の岩を押すのを手伝わせているうちは、アドラー心理学カウンセリングは動きません。かく言う鍵野も、何度も何度もカウンセラーの試験に落ちたんですが、それはいつも自分の岩を押し続けていたからでした。


今もついその自己執着をやってしまわないように、自戒を込めて、書いてみました。相談者さんが本気でアドラー心理学を学びたいと思っていると感じたときが、援助のつもりで自分の岩を押しているかもしれない一番危ないときな気がします。カウンセラー志望の人に出会ったりしたら気をつけないと(笑)。


(お釈迦さまの)仏教は決して自ら宣伝しません。スマナサーラ先生も自ら説法されることはありません。請われて初めてお話されます。ご著書も請われたから書かれたものです。そこからしたら、こういうブログを書くなんてことは、道に反することなんでしょうけれど、アドラー心理学は、アドラー先生の時代からムーブメントとして伝えられてきたもので、野田先生もおっしゃっていましたが、アドラー心理学ムーブメントへの貢献はアドラー心理学を実践するもの、アドレリアンの責任でもあって、そういう意味で、微力&勘違いもおおいにあるかもですが、鍵野にできることとして、こうしてブログを書くこととか、小さなセミナーを開催するとか、細々とカウンセリングをしていたりとか、こちらから動くことをしています。面白いことに、経営コンサルティングの方は、完全に受け身で、これまでの縁からの依頼があったときのみ&余裕があるときのみ活動していて、それでなんとかご飯を食べれてはいるので、ほとんど執着はなくなりました(笑)。でも、アドラー心理学には(だけにはと言った方がいいくらい)執着があって、この大きな重たい岩をどうしたものかなぁと思っております(笑)。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

保菌者

こんばんは、鍵野です。
明日は大分で仕上げの仕事があって、無事に終われば(終わりますように…)久しぶりの東京です。都会は密度が濃いですよね。人口密度に比例していろんな人工的なものの密度が濃い。妄想で作られたものの密度が濃いとも言えますが(笑)。たまにはいいかなぁと、演劇だの落語だのと、ライブ中心にいろいろ予定を入れています。アドラーおたくと言いますか、何をしてても、同じライブパフォーマーとして(笑)、アドラー心理学を伝える仕事をより効果的にするために何かを学んでこよう、見取り稽古させてもらおう、と思ってしまいます。観客の位置、演出家の位置、演者の位置、経営者の位置などなど、いろんな視点に立って、一つの社会現象としてのライブを体験してきます。


それで、仏教のお師匠様であるスマナサーラ先生も体験されたらしい、チームラボの常設展が豊洲にあるというので、行ってみたいなぁと思っていて、日程的に帰りの前の日なら行けそうだと、でも、浅草演芸ホールで、神田伯山さんと瀧川鯉八さんが出てるって、これも行きたいなぁというのもあって、息子もその日は他に予定がないようなので、よかったら一緒に行く? 行くとしたらどっちがいい?と聞いたら、「落語に」という答え。おおーっ、そうなんだぁ、情報系の理系大学生の息子は、チームラボがやっているようなことを本格的に学ぶコースに進級希望を出していると聞いたから、そっちを選ぶかなと思ったけど、正直、嬉しかったです。天才瀧川鯉八さんの落語は生で聞いたことはないので、それが実現するという嬉しさもあったけど、福岡にもチームラボの常設展はあるようだし、この機会に息子が寄席を体験しようと考えたのが嬉しかった。まずは単に楽しんでくれればいいんだけど、それでも将来の仕事に活かせる体験になるような気がしています。


今日はアドラー心理学をライブで学ぶことについて考えてみたいと思います。ここ何年かのウイルス狂騒曲?のおかげで、リモートで、オンラインで様々なことを済ませられるようになりました。アドラー心理学に限っても、オンライン講座がたくさん開発されて、鍵野が所属する日本アドラー心理学会でもオンラインで提供されているものがたくさんあります。総会・学術集会もオンラインで参加できて、それで資格更新に必要なポイントもいただけるので、旅費も移動時間を使わないで済むし、鍵野も大いに恩恵は受けています。


それでも、ライブで学ぶことはやっぱり大事だなぁと思うんです。特に最初が肝心というか、野田先生がアドラー心理学を日常生活で実践している人、アドレリアンのことを「保菌者」と表現されていたことがあります。アドラー菌?そんなのはまだ発見されていないと思いますが(笑)、アドラー心理学を学ぶためには、保菌者からアドラー菌をうつしてもらわないといけないんですね。鍵野も、野田先生の基礎講座応用編に参加するために2017年の秋に東京に行ったのがはじめての保菌者との出会いだったと思うんですが、濃厚接触ではなく、まだまだうすーい感じだったとは思いますが、しっかりもらって帰れて、その後なんとか定着してくれたようで、すっかり保菌者になれたかなぁと思います。野田先生とトイレで話したしなぁ、やっぱり濃厚接触だったかも(笑)。


これはzoomとかの画面越しでは起こらないことだと思うんですね。既に保菌者の人同士が画面越しにお互いを勇気づけ合うというのはありそうですが、まだアドレリアンにリアルで接触したことがない人は、やっぱり先にリアルでライブでアドレリアンたちと交流することが先決かなと思います。「匂いづけ」という人もありますが(笑)、なんかアドレリアンの匂いがですね、あるんですよね、わかる人にはわかるっていう。


日本アドラー心理学会でも、野田俊作顕彰財団(AIJ)でも、どちらでも、もちろん両方でもいいんですが(笑)、リアル対面のライブの講座などにぜひ参加してみて欲しいです。お近くに野田俊作顕彰財団(AIJ)か日本アドラー心理学会自助グループがあるというラッキーな方は、そちらに行くのが手っ取り早いですけど、とにかくアドレリアンからアドラー菌をもらってきてください(笑)。もらってきたら、実践しないとすぐ菌が減っていくし逃げていってしまいますので、またもらいにいって… そんなことを繰り返しているうちに、すっかり保菌者となって、他の人にうつすようになると(笑)。とりあえず、親しい人、家族等にうつせるだけの力がついたら、その分幸せに向かっていることと思います。


こう考えていくと、ライブでのカウンセリングはアドラー心理学の濃厚接触ですね。あなたにあった形で手っ取り早くオーダーメイドで保菌者への道を歩むことができる有効な方法かもしれません(笑)。鍵野の持っている菌は、野田先生や中島先生、優子先生、あゆみ先生、その他たくさんの諸先輩方と学び合う中で、生き残ってきた由緒ある菌だと思っています(笑)。


野田先生の持ってらっしゃった菌は、シャルマン先生とイヴォンヌ先生から、シャルマン先生は、ドライカース先生から、ドライカース先生は、アドラー先生から受け継がれてきたものです。、そうやって百年以上前にウィーンで生まれた菌が代々ずっと受け継がれてきてるって、なんだかステキじゃないですか?


というわけで、この鍵野も持っている(と信じている)アドラー先生由来のアドラー菌をいかに効果的に、必要とする方々にうつしていけるかという視点で、花の東京で学んで、少しでも腕を磨いて戻ってきたいと思っています。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

滋賀での見取り稽古

こんにちは、鍵野です。
関西に行っていて、昨日の夜遅くに大分に戻りました。
土曜日は奈良で鳥肌実ライブ(毒炎会)に初参加。悪のJYSマーク(ジャニーズ、吉本、創価学会)について、今回は特にY中心にたっぷり2時間、最前列で毒炎を浴びてきました(笑)。口から吐かれる毒とは裏腹に、鳥羽田さんの真面目で優しいお人柄を感じました。質問コーナーに入って、鍵野も鳥肌中将閣下に日本の税制のあるべき姿について質問させてもらったんですが、そのときバクバクバクとステージ上でバナナを何本か平らげる姿が、ネタというよりは本気のエネルギー補給な感じで、ライブで暮らしてきた人の凄みを感じました。テレビはもちろんYouTubeでも言えない話だけど、誰だって検索すれば拾えるような情報を、汗をかきながら太ったおじさんがスーツ(玉砕スーツ)を着て2時間しゃべる、それをお金を払って、小さな丸椅子に座って、大の大人がライブハウスでおとなしく(ときどき笑いあり)聞いている、ということが、ものすごく面白い現象だなぁと、参与観察的にその現象に参加しながら、思いました。価値相対論を実感することができました。


昨日、日曜日は、滋賀の草津で、鳥肌実ライブのついで…ではなく(笑)、こちらが主目的でしたが、尊敬する日本アドラー心理学会心理療法士で元指導者(昨年、指導者というポジションは廃止されたのでした)中島先生の早期回想ワークとオープンカウンセリングに参加しました。尼崎では大ベテランのHさんもオープンカウンセリングをされるということで、どちらに参加するか少し迷ったのですが、なぜそう動くのかを質問すると、いつもしっかりその理由を答えてくださる中島先生の方に行くことにしたのでした。


中島先生の早期回想ワークは、これで4回か5回目くらいの参加になるし、自分でも真似させてもらっているので、手順はすっかり入っているのですが、他のメンバーさんとの協力というところで、お邪魔をしてしまったり、逆に大事なところで遠慮して、あとでもう少し貢献できたのにと思ったりと、やっぱり自分のライフスタイルゆえですが、ストレンクスを平等の位置でうまく使うというところにまだまだ課題があるなぁと気づくことができました。カウンセラーとしてではなく、メンバーとして貢献するときの動きがですね、いい感じの中道が難しい。次にグループワークがあったら、事例提供者でもなくリーダーでもない、この立ち位置でもう少し貢献的に、ライフスタイルを意識しながら、動いてみようと思います。


そして、いよいよオープンカウンセリングなのですが、その前にアドラー心理学同期のTさんとランチに出ました。Tさんとは野田先生の最後の基礎講座理論編を受講したときに一緒だったんですよね、だから同期。もう一人同じ講座で出会ったIさんも同期で、地元でもあってやはり今回参加されていて、お会いできて嬉しかったです。2017年の2月でしたから、もう7年も前のことなんですよね。野田先生にアドラー心理学を教わった3人が、今もこうやってアドラー心理学を学び続けて、再会できて、本当にありがたいことだと思います。

そのランチなのですが、ちょっとやらかしてしまいました。あとで新幹線に間に合うためにはもう引き返せないところで気づいたんですが、腕時計をお店に忘れてきたようです。まぁ、他にもあるし、ものが減るのはいいことだと、すぐにあきらめられたのですが、でも、待てよ、お店の人が困るよねと。勝手に処分はできないし、まぁ、忘れ物するのは自分だけじゃないから放っておけばルーチンで処理されるだけのことだろうけども…、でも気づいて何もしないのはねぇ、無責任だから、アドレリアンとしてはちょっと。電話して、「ありません」と言われたら、よかった、で終わるけど、「あります」となって、着払いで送ってくださいなんてお願いするのも、お店の人に悪いしなぁ… と、ここで、「そうか!」、やっぱり無意識的に忘れてきたのかもと思い当たりました。というのは、じつは、3月末に、草津ではないけれど、同じ滋賀の大津でAIJの先生方のオープンカウンセリングがあるのでした。一応、宿は押さえてあって、行こうかどうしようかと迷っていたのでした。前にも書きましたが、自分が学びたいことを学びたいだけ学ぶ時期はもう終わったと思っていて、みんなのために必要最小限で行こうかなぁと方針を変えたので、今回の中島先生のは、その最小限に入っていて、3月末のは、もちろん参加したいんだけれど、自分の欲に過ぎないのではと、迷っていたのでした。時計を忘れたおかげで、やっぱり参加しようと、決めることができました。決めたのは、中島先生のオープンカウンセリングの見取り稽古が終わってからですが、だからこそ、AIJの先生方のオープンカウンセリングも、カウンセリング講座のデモではなく、オープンカウンセリングとなるとどう違うのか違わないのかも含めて、自分のためだけでなくみんなのためにも見に行きたいと思ったのでした。行きは新幹線、帰りは夜行バスで予約しました。夜行バスはコスト削減のためではなく、ダイヤ改正の影響か、新幹線ではその日のうちに家にたどり着けないとわかったので仕方なくです(笑)。田舎の電車はどんどん間引かれていくんですよねぇ…。

 

それで、ようやくオープンカウンセリング(…あくまでもカウンセリング講習会(笑))ですが、いやぁ、凄かったです。毎回、中島先生のオープンカウンセリングからは貴重な学びがあるんですが、今回は、特に大きな学びがありました。もちろん内容については書けないのですが、鮮やかに、とか、スパッとというのではなく、様々な抵抗にあいながらもその抵抗自体を相談者さんのサバイバルしてきた力の証として、祝福するかのように受け止め、アントニオ猪木風車の理論とはこれだったのかと思わせるように(誰も思わないでしょうけれど(笑))うまく利用しながら、相談者さんが少しでも進めるように丁寧に丁寧に、押し付けなく、勇気をくじかず、それでいて、洞察を得て、行動を変える決心をするところまで一緒に歩いて行かれる感じを見取り稽古することができました。相談者さんを信頼しているからこそ、あきらめず、押し付けないでいられるんだなぁと、カウンセラーとしての姿勢、構えに、自分も常にそうありたいと深く思いました。


滋賀まで行った甲斐がありました。これから鍵野のカウンセリングを受ける人になにかしら還元できそうな気がしています。


仕事で考えざるを得ないとき以外は、普段はあまり考えないことにしているんですが、アドラー心理学を遠征で学びに行った日と次の日は、頭がグルグル思考してしまいます(許しています)。今も、まだ余韻があって、思考・妄想がすぐ立ち上がる感じになっていますが、思い起こせば、ヴィパッサナー(瞑想)実践をする前までは、365日24時間こんな感じだったんだなぁと(深く寝てるときは除く)、こんなんじゃまともに暮らしていけるはずないなぁと驚いてしまいます。考えないでいることができることが信じられないほど、人間は思考・妄想が好きなんですよね。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

責任

こんにちは、鍵野です。
今日の佐伯上浦は雨です。明日から3月ですね。3月は珍しく忙しい月になりそうです(あくまで自分比ですが(笑))。甥っ子の結婚式があって久しぶりに一週間ほど東京に行くこともあり、その他N先生のオープンカウンセリングで滋賀県に行く予定もあり、また経営コンサルの方の仕事も仕上げ作業が残っていて、年度末らしい大波に慌てず騒がす焦らず逆らわず乗っていきたいと思っています。


それで、今日は「責任」について考えてみたいと思います。野田先生が、アドラー心理学を(どうしても)一言で言うなら「責任」(かな)とおっしゃっていました。みなさんにとって「責任」ってどういう意味に響きますか? 反対概念を思い浮かべるとその人らしさが、その人の価値観がわかることがありますが、「責任」の反対ってなんですかね? 単純にひっくり返すと「無責任」となりそうですが、ぜひ、自分にしっくりくる表現を探して欲しいんですね。この辺り、カウンセリングでとっても大事にしているところです。似ているところはもちろんあるんですが、でも、本当に人それぞれなんですよ。「へぇ~、それが反対なんだぁ」と驚かされることも多いです。それで、鍵野にとっての「責任」の反対は「自分勝手」という感じです。どうですか、変な気がしますか? これ、正解があるわけじゃなくて(辞書の定義は置いておいて)、そこに、その人の世界、言語体系、その人そのものが出てくるんですね。


別のアプローチとして、類似してそうな言葉との違いを聞いてみると、またその人らしさがわかってきたりします。例えば、「「責任」と「義務」って○○さんの中で、どんな違いがありますか?」と聞いたりします。鍵野の中では、「責任」は自ら引き受けるもので、「義務」は他から押し付けられるものという違いがあります。いい悪いではなく、鍵野のライフスタイルということになるんですが、いつも誰かから「義務」を押し付けられる前に、自ら「責任」を引き受けて進んでいこうとしている気がします。度が過ぎると、頼まれもしないのに「責任」を引き受けて、かえって、狙っている価値の反対側の「自分勝手」な動きをしてしまっていることがあるなぁと反省することも(笑)。「責任」と思っていることを先に「義務」として提示されると一気にやる気を失うという特性もあります(笑)。昔、西田敏行さんの出演していたお風呂洗剤?のCMで「今、やろうと思ってるのに、言うんだものなぁ~」というのがあって、とても印象に残っています。


アドラー心理学に戻って「責任」について考えてみると、アドラー心理学は共同体感覚という思想に基づいて、人が共同体に貢献的に所属できるようになる(結果として幸せになる)ための学問なので、アドラー心理学で「責任」という場合、これは共同体への責任ということになると思います。アドラー心理学では共同体への責任を果たすことが個人の幸福への道であり、共同体への貢献と個人の幸せが矛盾しないんですね。どこかの心理学のように、快感を求める人が我慢して自分を抑えて、なんとか社会人として社会規範に合わせて暮らしているというような人間理解はしません。なので、共同体に対して無責任な行動をする人に対しても、本当はその人も共同体への「責任」を果たしたいんだけれど、今はその「責任」を果たそうとする勇気をくじかれているだけだと考えます。


それで「勇気づけ」というのをアドラー心理学では大事にしていますし、カウンセリングもやっていることは結局「勇気づけ」なんですが、これは快不快とは関係なくて、カウンセリングが成功して、相談者が勇気づけられると、共同体(夫婦、親子、職場、クラス、友人関係など)への責任を果たしたくなるので、それは決して快感が増える方向とは限らなくて、快不快で言えば、不快の方向、辛くて苦しい方向かもしれないけれど、それでも、共同体への責任を果たす方向ではあって、その方向に一歩でも踏み出せれば、一歩、幸せになっているという意味で、カウンセリングの「成功」と言うんですね。なので、カウンセリングのおかげで気持ちよくなることもあると思いますが、そこは本当はどうでもいいんですね(笑)。もちろん、できるだけ辛いことが少なくて、同じ結果が得られるならその方がいいんですし、あんまり辛いとカウンセリングやめちゃうでしょうし、できるだけ苦痛が少なくなるようカウンセラーは腕を磨くそれこそ「責任」があるわけですが、でも、やっぱり辛いことに直面していただく必要がある場合もありますね、どうしても。


カウンセリングの場面で言えば、そもそもそこで相談されるのは、相談者さんの人生であり相談者さんの課題なので、カウンセラーの人生ではないし、カウンセラーの課題ではないわけです。それが、相談に乗ります(乗れるものならば)というカウンセラーに対して、相談に乗ってくださいという、相談者さんからの働きかけがあって、それで、カウンセラーにできることを(ある程度)理解してもらった上で(同意していただいてから)、どんなお話かお聞きして、カウンセラー側がなんとかお手伝いできそうだなぁと思えば、こんなところを目標に相談することでどうでしょうか?と提案して、相談者さんが、じゃぁそれでお願いしますということになったら、相談が始まります。ということで、もともと、全然関係ない他人の課題なんですが、カウンセラーは、同意して契約してもらって、職業的にお節介を始めるんですね(笑)。お節介をしてお金までもらえるという、お節介好きにはやめられない商売ですね(笑)。ここに「責任」が生じます。もともと相談者さんの課題なんですが、一緒に考えさせてもらいますとなったところで、カウンセラーの課題にもなったわけです。これを「共同の課題」と言います。いったん「共同の課題」として一緒に解決を目指すことに合意できたら、相談者さんと作戦会議を繰り広げながら、あの手この手で解決に向かって互いに協力しながら進めていくのが、アドラー心理学カウンセリングです。


「課題の分離」という日本で有名になったアドラー心理学用語がありますが、よく考えると、すべての課題は一人ひとりの個別的なその人だけの課題だとも言えるし、逆に、個人は共同体のメンバーとして社会に所属しなければ生きられない存在である(例えば、人里離れた洞窟で暮らす仙人でも、そのポジションで社会に所属している)という意味で、ある個人の課題は、すべてみんなの課題、共同体の課題でもあるとも言えます。ですから「私の人生だから放っておいて」という人がいたとして、それは、アドラー心理学で考えれば「私の人生なんだから他の人には関係ないでしょ!」という意味ではなくて、「私が私の意志で(自分も含めた)みんなのために私をどう使うかを決めるから私に任せておいて」という意味ですね。


なので、「課題の分離」は、あくまでも個人が個人の責任で(自分も含めた)みんなのために自分に降ってきた課題に対処していくための下ごしらえに過ぎないので、分離して、あとはご勝手にではないんですね。親切なお節介さんに課題を横取りされないように(笑)、いったん分離して自分の課題として引き受けてから、よく考えて、助けを求めて(あるいは援助の提案を受け入れて)、他の個人との「共同の課題」にしてもらって、一緒に協力して解決した方がいいか、そのまま自分だけで解決した方がいいかを選ぶために、分離するんですね。子どもが勉強しなくても親がバカになるわけではないからといって、学校の勉強で困っている(とは言わないかもですが)子どもをよそに、課題を分離して、我関せずと、楽しく暮らすのは親の責任を果たしているとは言えないですよね。


カウンセリングに話を戻しますが、カウンセリングで共同の課題にしたものを、戻すタイミングが結構難しいなぁと思うことがあります。要は終わるときですね。最初に相談されたことが完全に解決したというわけではないけれど、あとは相談者さんだけで大丈夫そうだなぁというタイミングで、こちらからこれでいったん終わりということにしましょうかと提案することもあるし、次の回のことを話題にしないことで、何かあれば言ってくるだろうから、そのまま次回の予約が入らなければ、やっぱり終わりでよかったんだなぁという流れになることもあります。こちらは終わったつもりでも、まだ相談にいらっしゃる方もあって、たしかにアドラー心理学の相談は自分を知る旅でもあって、楽しいと感じる方も多いし、実際、何らかの気づきを持って帰ってもらえるし、売上にはなるし(笑)、いいのですが、でも、アンチクライマックスというか、蛇足というか、せっかく含みもある映画のエンディングがしまらない感じになる気もして、後はご自分たちで楽しんで欲しいなぁと思ったりすることもあります(笑)。


また、あえて、小休止というか、全然、終わったわけではないんだけれど、インターバルというか醸す時間が必要というか、(他の人も含めて)変化を待つ必要があるというか、があって、相談者さんにとっては中途半端な感じかもしれないけれど、いったん終わることがあります。


ただ、「終わる」といっても、友人のまま終わる感じなのが、アドラー心理学カウンセリングの特徴かなという気がします。いつでも、必要な時は声をかけてね、という感じ。契約の上のお節介モードは終わるけど、あなたとはずっと友人ですよ、何かあったら言ってねという感じ。


アドラー先生も、鍵野が理想と思っているブルック先生も、カウンセラーは、遅れてきた母親の役割を果たさなければならないとおっしゃっています。ひょっとしたら相談者さんのお母さんお父さんが残してしまった仕事、子どもが全面的に信頼できて、そこから他者への共同体感覚を育んでいけるベースとしての親の役割を(必要なら)果たさなければならないと。そして、親と同じように、相談者さんが、独り立ちしていくのを応援しなければならないと。できるだけ早く、相談者さんにとって余計な存在にならなくてはと。理想ですね。できるだけ短時間短期間で偉大な母親(父親)の本来すべき仕事を果たして去っていくカウンセラー(笑)。


理想を高くもって、カウンセラーとしていい仕事をして責任を果たせるようにこれからも精進していきます。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

「エピソード分析」を体験する

こんばんは、鍵野です。
今日のお昼は、春休みで息子が帰ってきてたので、久しぶりに料理をしました。
豚肉と玉ねぎを炒めただけですが、調味料もあまりなく、醤油と蜂蜜で味付けして、それなりのお昼ご飯となりました。それで、うちはお風呂は電気で沸かしていて、ほとんどガス使わないねぇということになって、だいぶ前にプロパンガスも引き上げてもらったので、鍋物の時期と関係なくカセットコンロに活躍してもらっています。たまにしか使わないので、かなりコスパはよさそうです。


ケチというわけではないと思うんですが、ライフスタイルでしょうねぇ、無駄を削れると嬉しいんですよね。いろんなもの、いろんなことを必要最小限にしていきたい、というのがあります。消耗品ならやがてなくなるのでいいんですが、捨てない限りはそこにあるようなモノはできるだけ減らしていきたいです。子どもの頃はいつも欲しいものがたくさんあった気がするんですが、今はモノを買うよりも捨てるときに嬉しいというか、ホッとする感じがあります。無所有の生活に憧れます(笑)。


昨日、日曜日は福岡県直方市にて、一日かけて「エピソード分析」を学んで実践する講習会『日々是エピソード分析』を開催しました。参加条件は、アドラー心理学の理論と思想を(ある程度)学んでアドラー心理学の勇気づけを体験した人ということにしています。それなりに高いハードルでもあるからか、参加者は最大の15人ではなく、なんとか実施可能な最少人数でした(笑)。


まずは「エピソード分析」が、アドラー心理学の理論と思想の実践そのものであることを、「エピソード分析」が5つの基本前提とライフスタイル論と骨がらみで関係していることを説明して、質疑を重ねながら、頭で理解してもらいました。


その後、一人の方にボランティアで出てきていただいて、「エピソード分析」によるアドラー心理学カウンセリングのデモを行いました。よい思い出としての早期回想と、よくない思い出としての少し前の思い出との関係が、「エピソード分析」をすることで、ライフスタイルの子どもっぽさから少し距離を取って大人として動いていくヒントとして見えてくるようなカウンセリングになったように思いました。理論と思想をしっかりお伝えした方たちが参加者なので、遠慮なく「早期回想」や中期回想?(思い出)を扱えて、デモをする側としても、自由度が高くてやっていて楽しいんですよね。


そして、午後には、参加者が参加者を「エピソード分析」によって援助するグループワークを体験していただきました。決められた手順に従って、一つ一つ確実に丁寧に行うことで、アドラー心理学の理論と思想に沿った問題の読み方と代替案を持ち帰っていただくことができていました。鍵野は、途中、マニュアルの不備を補いながら(おかげでよりよいものにできそうです)、手順の理解をサポートしたくらいでしたので、他での経験も含めて、やっぱり(理論と思想を学んでいるのは必須ですが)、「エピソード分析」による援助は、誰にもできると言っても過言ではないと思いました。


「事例を出してよかった」と、事例提供者さんが本当に喜んでいたのがとても印象的でした。グループワークのリーダーになっていただいた方も、丁寧に手順に従って進めていただけて、その結果、最後までしっかりたどり着いて、アドラー心理学の援助ができたことに、とても満足されているようで、相手だけでなくご自分も勇気づけることができたようで、見ているこちらも、「やってよかった!」と凄く嬉しかったです。


この一連の講座、『はじめの一歩』と『日々是エピソード分析』がきっかけとなって、「エピソード分析」による相互援助を柱とした自助グループ活動が立ち上がっていったら、こんなに嬉しいことはありません。


野田先生が、アドラー心理学カウンセラーは、指導者の先生方に直接教わる機会のないところ、基礎講座なんて開催されないようなところで、一人でアドラー心理学を伝えられるようになる責任があるんだというようなことを、音声講座でおっしゃっていました。アドラー心理学のメッカのようなところにお住まいの方は別として、東西に長いこの日本列島に暮らしていて、アドラー心理学を対面で直接学びたいけれども、野田俊作顕彰財団(AIJ)や日本アドラー心理学会の講座に参加するのは、時間的にも金銭的にもなかなか難しいという方がたくさんいらっしゃると思います。先生方の講座に参加して対面でリアルでアドラー心理学の真髄を学んでいただくのが一番ではありますが、そこへの橋渡しとして、とりあえずでもいいので、そんな方々が生きたアドラー心理学に触れて学べる機会として、鍵野の活動がお役に立てたらいいなぁと願っています。九州内であれば、5人集めていただけるのであれば、旅費はいりません。受講費だけいただければ、どこでも喜んで開催します。日程もかなり合わせられると思います。興味のある方はメール等でお問い合わせください。どうぞよろしくお願いいたします。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

共鳴すること

こんにちは、鍵野です。
昨日で仕掛りの仕事が片付いて、今日はのんびり過ごしています。朝から雨でしっとりした雰囲気の佐伯上浦です。雨と晴れでは心持ちが違いますね。いい悪いということではなく、雨の音を聞きながらなんとなくいつもより心も身体も重みを感じる気がして、当たり前ですが人間は環境に影響されているなぁと思います。


それで、バラバラに振れていた柱時計の振り子が、やがて同じ動きをするようになる現象があります。柱と柱が床を介してとかつながっている場合ですが。YouTubeに、何十個ものメトロノームが、やがて同じように振れるという動画もあります。面白いですよね。それぞれのシステムが共振して、大きな一つのシステムになっているんですよね(そう見れば)。久住の山で夜中に疲れて車で休憩していたら、蛍の大群が車に止まって、同じタイミングで明滅し始めるという幻想的な光景に遭遇したことがあります。これも共振というか同期(シンクロニシティ)ですね。運動会とか軍隊とかの行進で足並み揃う感じもそうかもしれないし、息の合った合唱のメンバーとして歌っているというような経験もそうかもしれません。お神輿をかつぐとか、お祭りとか、盆踊りとか、みんなで読経とかもそうかもしれません。


で、こんなとき、自分を超えた大きなシステムの構成要素としてそこにあるとき、人は何か「神」というのかハイアーパワーの存在を感じることがあるのかなぁと思いました。実際に、現象として共振とか同期ということは存在していて、時計でもメトロノームでも起こることなんだけれども、それを人は超常現象のように感じるのではないかなぁと。


アドラー心理学で言えば、野田先生の異端説「絶対的全体論」もそういう現象から見ると、実際にあることのようにも見えます。個人と他人の間の葛藤も、みせかけに過ぎなくて、本当は全体に調和して動いている、そこには葛藤はないという見方もですね、成立しているように見えることはあるなぁと。


そこからさらに、ヒンズー教とか大乗仏教もそうではないかと思っているのですが、何か全体の本来の心のような超越した存在、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ、大日如来でも阿弥陀如来でもいいのですが、統一され本来の存在があって、そこから迷いによって、個々の心があると錯覚しているだけだというような、信仰も、同じような現象を人類が体感してきたからこそ現代まで根強く残っているのかなぁとも。


一度、仏教のお師匠様のスマナサーラ先生に質問したことがあって、そんなとき大きな心の一部になったような気がするけれど、これは仏教ではどう考えたらいいのでしょうかというようにお聞きしたら、心と心が「共鳴している」んだというように教えてくださいました。ひとつひとつの生命にひとつひとつの別の心があるんだけれど、それが一つになったかのように感じたとしても、一つではないんだ、「共鳴している」だけだと。


これをお聞きして、かなり迷いが晴れた気がしました。若い頃、栗本慎一郎の「意味と生命」を読んで、さらにマイケル・ポランニーの暗黙知理論を学んで以来、どうも人があることに注目すると、それを細目とする全体を、いつの間にか意味を構成してしまわざるを得ない存在であるとき(アドラー心理学で言えば、まさに目的論ですが)、その先に、人が「X」というか「神」というか、そういう存在の細目になってしまう流れというのか法則というか場の力というものがある(エリアス・カネッティの群衆論にも接近しますが)のではないか、と考えていました。それで、どうがんばっても、やはり絶対的な存在というのか運命というのかを構成しているごく一部の存在になってしまわざるを得ない「人」の無力さを感じていたのですが、スマナサーラ先生のお話を聞いて、お釈迦さまは一つの独立した人として心として、そこを乗り越えられたのだと、それが仏教なんだと、人は絶対者にすがったり吸収されざるを得ない存在ではないんだと、勇気づけられたのを覚えています。


生命と生命とは、人と人とは、心と心は、共鳴します。だからこそ、できるだけ心を清らかにして、他の人の心を汚さないようにして、共鳴していきたいと思います。人は心を一つにして(共鳴し合って)戦争することも、戦争の荒廃状態からの復興もしてきた存在です。私たちはいつかはわかりませんが必ず死にます。だからこそ、自分たちの判断と行動を神とか運命に委ねるのでもなく、かといってエゴを追求するのでもなく、責任を持って互いに与え合う道、話し合って協力し合う道を選んで暮らしていきたいものです。そのための理論と思想がアドラー心理学であり、日本語話者にとってのその具体的な実践方法が「エピソード分析」です。


2月25日(日)直方市の「ユメニティのおがた」にて、エピソード分析講習会『日々是エピソード分析』を開催します。参加されるおひとりおひとりとの共鳴を楽しみにしています。この講習会が協力的な暮らしへの確実な一歩を踏み出す機会となりますように、精一杯務めます。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。