アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

紙で見る効果

こんばんは、鍵野です。
昨日、今日と暖かくて暖房もいらず、春はもうすぐそこかなぁと感じる佐伯上浦です。
さきほど資料をA3で出力したくてコンビニまで行ってきました。一番近いところで車で片道11分かかります。A4なら小さなプリンタがあるので自宅で出力できるのですが、数値計画なんかで、小さな数字が並んでいる文書を読むのは厳しいこともあって、ときどきコンビニのプリンタのお世話になっています。


資料をスキャンしたいこともあるので、A3対応の複合機を買ってもいいのでしょうけれど、今使っているA4プリンタが印字ヘッドとインクカートリッジが一体になっているタイプで、インクカートリッジはそこそこしますが、印字品質も復活するということもあり、昔ほど大量に紙で出力もしませんから、車と同じで、壊れるまではこのままで行こうかなと思っています。


紙とプリンタにはお世話になっていて、最初に就職して書いたプログラムも某メーカーのプリンタ制御ソフトの紙を送る部分(紙搬送)でしたし、次の次に入った会社は大きな複合機メーカーで、紙に印刷したい人が世界中にいてくれたおかげで、ご飯を食べれていました。その後、経営コンサルタントとして起業してからも、お客さんと相談してがんばって一緒に考えた結果ではありますが、ただの500枚で数百円の白い紙に、分析結果や今後の計画を文字や数字として印刷すると、しっかり暮らしていけるだけのお金に変わってくれるのでした。


そんなこともあって、紙が好きなだけかもしれませんが、画面で確認するだけだとなんだか落ち着かないというのか、何か見落としがありそうな気もして、資料のある部分に注目するにしても、紙で出力して、紙の端っこまで、全体像をとらえながら、確認していきたいんですよね。紙で出したら出したでシュレッダーにかけたり、後始末もそれなりに大変ではあるんですが。


それで、カウンセリングもですね、結構、紙を使います。相談に来られた方に書いてもらうこともあります。ホワイトボードを使って、写真を撮ってもらうことで済ますこともありますが、ご自分で書いてもらう方がいいことも多いのでですね。筆記用具などは使わず、ただ、会話、対話だけで終わるカウンセリングもカッコいいなぁと思ったこともあるんですが、書かれたものを相談者さんと一緒に眺めるというのは、バカにできない効果があるんですね。書かれているのは自分の悩みごと困りごとなんですけれど、しゃべるだけでなく、その書かれたもの見ることで、自分の主観から少し距離が取れますから。ときには、本当に第三者になってもらって、「こんな方がいるんですけど… これ見てくれますか。…というわけなんですが、〇〇さんならどんなアドバイスをしますか?」とその相談者さんに相談者さんのことを別人の体で、相談してみることもあります。そうすると、冷静になられて、それまでのご自分の思い込みから離れて、しごくまっとうなことをおっしゃったりします。


まぁ、最後にはやっぱりご自分に戻られて、「そうは言ってもねぇ…」となるんですが、でも、いったん自分の思い込みから出て事態を眺められた経験は大きくて、それまでのようにまったくの被害者の立場ではいられなくなって、かなりの部分が自作自演だったことに気づいてしまうので、もう少し周りの人に協力的な行動ができるようになる可能性が高まります。そうして、うっかり(笑)協力的な行動をしてしまったら、相手の行動も協力的に変わる可能性が高くなりますから、それで味を占めて、それまでよりもずっと楽に協力的な行動を取れるようになっていきます。そうなったらもうカウンセリングはいらないかもしれません。自分が困っていたのはそれだけ相手を困らせていたからであって、それが減って相手が喜ぶこと、協力的な行動が増えたら、(ここは科学というよりは、アドラー心理学の思想からの思い込みとも言える部分ではありますが)相手もこちらが喜ぶこと、協力的な行動をしてくれるようになります。それで一件落着です。


悩んでいる人は必ず周りの人を悩ませています。だから、必要なのは悩むことではなく、一刻も早く、自分が幸せになるためでいいので、具体的に周りの人のためになる行動をすることです。周りの人のために行動しさえすれば、周りの人の悩みが減りますから、周りの人のあなたへの行動もいい方向に変わって、結果としてあなたの悩みも減って、問題が解決していきます。


この世に悪い人はいません。あなたも相手も悪くない。相手があなたにとって都合が悪い行動をしているというだけのことです。それで、そういうときはきっとあなたも相手にとって都合の悪い行動をしているはずです。どちらが変わってもいいんですが、でも、あなたが相談に来られたのであれば、相談に来られたあなたが変わるしかないし、あなたが変われば相手も変わります(同じでいられるはずがありません)。


あの人さえ変わってくれればと思っている人をたくさん知っています。でも、きっとそのあの人もあなたさえ変わってくれたらと思っています。「せーの!」で一緒に変われたらいいんですが(笑)、互いに相手の出方をうかがって後出しジャンケンみたいになってしまうのがオチなので、あきらめて、アドラー心理学に出会えたあなたから変わりましょう。あなたの行動で、あなたのたった一言で世界は本当に変わります。ぜひ、お近くのアドレリアンをつかまえて相談してみてください。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

投資するなら

こんばんは、鍵野です。
今日は月一回の大分市稙田公民館での勉強会でした。今回も参加してくださったみなさんの協力のおかげで、グループでの「エピソード分析」による、アドラー心理学の理論と思想に沿った援助と学びの時間を共有することができました。毎回思うことですが、アドラー心理学を信頼して、「エピソード分析」を信頼して、参加されるみなさんを信頼しさえすれば、必ずお役に立てるんだなぁと。アドラー先生や野田先生を始めとして、鍵野にアドラー心理学を教えてくださった先生方、先輩方に深く感謝します。ありがとうございます!


無料カウンセリングは、それほど需要もなさそうなので(やっぱりこれだけ価値があると思っているものをタダで供給するのは他のカウンセラーさんにも申し訳ないし(笑))、今回で終了としますが、勉強会の方は、お世話になっている大分県への恩返しの気持ちもあり、細々とではありますが、これからも続けていきたいと思っています。はじめての方も大歓迎です。またお知らせしますので、よろしければご参加ください。次回は、3月23日(土)10:20~12:40で、同じ稙田公民館の研修室Bで開催予定です。次々回は、4月20日(土)10:20~12:40で、同じ稙田公民館の研修室Aで開催予定です。予約なしでも大丈夫です。本では学べない、生きたアドラー心理学に出会いたい方、アドラー心理学を暮らしに活かしていきたい方のご参加をお待ちしています。基本は無料なのですが、できましたら会場費として200円のカンパをお願いしています。どうぞよろしくお願いいたします。


ところで、大昔に株式投資はやめたので興味がなかったのですが、株価がなんだかバブル期の最高値38915円(産婆食い殺す? 砂漠へ行こう?)に迫っているらしいですね。定義はいろいろだとは思いますが、鍵野は株式は投資じゃないなぁと思っています。投資すると、それによって新たな価値が生まれて、それがリターンとして返ってくるものが投資なのではないかなと。株式は、パチンコと同じでギャンブルじゃないかなと思っています。お金を入れて、引き上げるときに、増えている人もいるし、減っている人もいる。みんなが増えると思って、どんどんお金を入れてくれると、一株当たりの換金額が増える。みんながお金を引き出し始めると、一株当たりの換金額が減っていく。個別株で言えば、増えたり減ったり、いろいろでしょうけれど、要は、みんながお金を入れ始める流れの始めの方で株を入手して、どんどん株式市場全体が膨れ上がっていって、最高潮に達して、みんながお金を引き出し始めるちょっと前に引き出せれば、儲けが最大になるんでしょうけれど、まぁ、未来はお釈迦さまでもわからないのでですね(笑)。


でも、ある会社の株が10倍になったところで、その会社のお金が直接増えるわけではなく、その会社の仕事の質が上がるわけでもない。膨らみ縮みを繰り返す株式市場に寄ってくる人同士でお金を取り合いしているだけですよね。もちろん、銀行家という信用創造によってお金の量自体を増やせるプレイヤーがいるから、お金を借りて(信用創造が起きて)株式投資をする流れが起きれば、株式市場に流れるお金自体がさらに増えていくので、プレイヤー同士のもともとの持ち分を取り合いしているよりももっと大きな取り合いになっていくんでしょうけれど。ゲーム、マネーゲームですよね。


それに比べて、ある人が、具体的にある会社に出資したり、お金を貸したりすることは、その会社がそこで得たお金で事業をすることで、世の中に新たな価値を提供して、その価値の対価としてお金を得て、その得たお金から、出資金や借入金に見合うリターンをその人にお返しすることになるわけで、株式投資とは全然性格の違うものです。これが本当の投資だと思っています。そういう意味での投資は、僅かではありますが、鍵野も長年しています。中には、決して戻ってこないとあきらめているものもあります。でも、世の中によい価値を増やすと信じてやったことだし、そのお金をその人は真剣に使ってくれたので後悔はしていませんが。トータルでは損にはなっていませんし。


それで、昔も今も、結局一番確実なのは自己投資ではないでしょうか。鍵野はアドラー心理学にはかなりのお金と時間をかけてきましたが、十分元は取れています。人間関係が比べ物にならないレベルでよくなったという感覚的なもので、お金には換算できないものではありますが。また、中小企業診断士という、俗に「足の裏のごはん粒」=「取っても食えない」(笑)と言われる資格を取るために、時間とお金(これはたいしたことないですが)をかけて勉強しましたが、実際、この資格のおかげで(最近少し謙虚になって(笑)、結局資格のおかげで仕事をいただいてきた事実を認められるようになりました)、なんとか食えてはきたので、やってよかったと思っています。


株式トレーダーを職業にするというならまた話は別かもしれませんが、他の人が損することで自分が得をする世界に足を踏み入れて、幸せになる道理がないと思います。株式市場に流入するお金が、ウイルス並みに増殖し続けるような前提でも入れない限りは、いつまでもいつまでも株価が上がり続けるなんてことはあり得ないわけですから。誰かがババを引き始めたら、みんなの手札全部がいっぺんにババに変わるようなことが起きかねませんし、きっとそのタイミングを手ぐすね引いて待っているプロがたくさんいるでしょうしね。


アドラー心理学を学んで、家族や周りの人と仲良く協力的に暮らせるというセーフティーネットさえ手に入れられたら、そんなにシャカリキになってお金を稼がなくてもいいはずです。ぜひ、お近くの野田俊作顕彰財団(AIJ)か日本アドラー心理学会アドラー心理学を学んでいる人を捉まえて、話を聞いてみてください。鍵野もそうでしたが、これまで会ってきた人たちとは違う何かを感じられるのではないかと思います。

写真は津久見に咲いていた河津桜です。桜は散るから美しいとも言いますね。いつか散るバブルに期待するよりも、自分に投資して幸せの花を咲かせてみませんか。

読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

アドラー心理学を使う

こんにちは、鍵野です。
確定申告が終わってスッキリしました。去年から電子申告(e-Tax)を始めて税務署まで行かなくなりました。ラクですね。ラクですが、なんか年中行事のイベント的には少しさみしいような気がしないでもないです(笑)。まぁそれまでも会計ソフトで印刷しておいたのを職員さんに渡すだけだったので、申告会場に行ったからといって何か特別なことがあったわけではないのですが。

それこそ事業主の「税金」と思って、会計ソフトだけは最低限ではありますが保守契約を入れて最新版が使えるようにしています。慣れてしまうと心理的なスイッチングコストが高くなって、他にも選択肢はあるんでしょうけれど、ずっとやよいの青色申告を使っています。月次で損益を確認(決算)した方がいいですよと、お客さんにはよく言うんですが、自分は滅多にやりません(笑)。事業が継続できればというくらいの目標しかないので、資金繰りはいつも気にはしていますが、とくに利益目標はないので(これもセミナーとかで目標利益から逆算することを強調しているのと違う(笑))、間に合うんですね、それで。どんなに(数字上)儲かっていてもキャッシュがなくなったらアウトですし、どんなに赤字でもキャッシュが続くなら、いつまででも事業をやっていられますから。


それで、今回初めてアドラー心理学カウンセリングの収入を事業収入の一部として申告しました。経営コンサルティング収入に比べれば僅かではありますが、それでも、ゼロと1は違いますから、嬉しいことだと思っています。次の目標は、アドラー心理学への教育投資(学習費)をアドラー心理学関連の収入で賄うことかなぁ。学びに行かなければすぐに達成できるんですが(笑)、カウンセラー資格更新のためにも学習ポイントを貯めていく必要もあり、また、お仲間と学び合わなければクセが大きくなったり、錆びついていってしまうかもしれず、今年も(厳選しつつ)野田俊作顕彰財団(AIJ)や日本アドラー心理学会の講座等に参加するつもりではいます。


今日は、「アドラー心理学を使う」ということについて考えてみたいと思います。何度も書いていますが、アドラー心理学は真理ではなくて便利に過ぎません。「使う」というくらいだから、道具と言ってもいいんです。ただ、いわゆる「汚い言葉」を使っていると、その人まで「汚い」感じになることがあるように、道具がその人を作る面もあって、アドラー心理学を使っていると、アドラー心理学らしい人になっていって、そういう人を「アドレリアン」と言ったりもします。アドラー心理学らしく考えて、アドラー心理学らしく行動していると、いつの間にかアドレリアンになってしまうと。


「使う」ということについて、もう一つポイントがあって、それは誰に対して使うかというところです。それで、これは常に自分に使うんですね。ここがとても大事なポイントです。相手に使うのではありません。相手とのコミュニケーションを改善するために自分に使うんです。とりあえず、相手はどうでもいい(笑)。相手に対して、アドラー心理学らしく考えて、アドラー心理学らしく行動することができれば、相手とのコミュニケーションがよい方向に変わっていきます。


相手がアドラー心理学を知っているか、学んでいるか、は関係ありません。むしろ、相手がアドラー心理学を知らない前提の方がやりやすいのではないかとも思います。だって、「アドラー心理学を学んでいるくせに、なんでこんなことするのよ!」って、余計なことを考えないで済むから(笑)。「相手はアドラー心理学を知らないんだし、そんなことをするのも仕方がないことだ。でも、私はアドラー心理学を学んでいる。だから、私が、考えと行動を変えればいいんだ」って思いやすいから。


「なんで私が苦労して学ばなきゃならないのよ! そんなの不公平だわ。相手も学ぶべきよ」って思ったあなた、そこはあきらめて、最初にアドラー心理学に出会ってしまった現実を受け入れて、相手はとりあえず置いておいて先に学びましょう(笑)。学ぶべきよ!って相手を無理矢理引きずり込んでしまったら、せっかくの仲直りの切り札であるアドラー心理学が無効になってしまいます。どうか、わざわざ相手がアドラー心理学を嫌いになる理由を作らないでおいてください。あなたが学べば、それであなたがよい方向に変わったのがわかったら、相手も自然に学びたくなるものです、放っておいても。


しつこいですが、アドラー心理学は自分が自分(のコミュニケーション)を変えるために使うものです。相手を操作するためのものではありません。アドラー心理学を学んで、なんとか相手を変えてやろうって思っていた方、残念でした。それはできないんです。生兵法で付け焼刃でアドラー心理学の技術を使うことで、こちらを信頼している人、小さなお子さんとかだったら、しばしの間変わってくれるかもしれません。でも、それは絶対にやめてください。そんなことをしたら後が怖いですよ。恨まれます、きっと。付け焼刃のアドラー心理学を使おうなんて人は、「あなたのため」は、「私のため」に決まっているので、お子さんはひどい反抗をされると思います。まだ、反抗してくれたらいい方かもしれません。親の言いなりになって徹底的に勇気をくじかれてしまって、そのまま社会に出てこれなくなったら、どうやって責任を取りますか?


だから、本当にしつこいですけれど、アドラー心理学を他の人に使わないでください。お子さん以外であれば、よっぽど問題のある人でなければ、付け焼刃の技術で操作されるようなことはないでしょうから、安全と言えば安全ですが、でも、嫌われますから、やめといた方がいいです(笑)。嫌われる勇気をわざわざ試さなくてもねぇ(笑)。


それで、前言を翻すようですが、他人に使うことはないのか、と言えば、実はあります。それは、相手がアドラー心理学を学びたくて、こちらがアドラー心理学を教える人であることを受け入れてくれたときです。アドラー心理学講座の講師と受講者という関係だったり、アドラー心理学カウンセリングのカウンセラーと相談者という関係だったり。アドラー心理学という前提はつけなくても、教師と(その先生から学びたいと思っている)生徒だったり、ここが先ほどの警告と重なってくるところで難しいところではあるんですが、親と(その親から学びたいと思っている(こじれてなければ成立しているはず))子の関係もそうですね。


そういう関係を「相談的人間関係」と呼ぶことがあります。一方が相談する人で一方が相談される人であることにお互いが納得している関係ですね。こういう関係があるときにだけ、あえてアドラー心理学を相手に使う(教える)ことが許されます、というか、実は、相手に使うことでしか、そのアドラー心理学が使われる現場からでしか、相手にアドラー心理学は学んでもらえないんですね。当然、教える方も自分にアドラー心理学を使って、アドラー心理学的コミュニケーションをしながら、学んでもらう相手にアドラー心理学を伝えて、相手にアドラー心理学を(自分のコミュニケーションに)使えるようになってもらおうとしているわけです。アドラー心理学カウンセリングに限らず、人に何かを学んでもらうということは、その学んでもらうことを学んでもらうための操作をしているわけですが、腕のいい人ほど、ついうっかりと相手がアドラー心理学を使ってしまう状況を作り出す操作ができるのだと思います。この場合、「教えてください」、では「教えさせてもらいます」という「相談的人間関係」への合意があるので、そこでの操作について、後で恨まれることが(あまり)ないんですね。


とはいえ、うまく操作できなかったり、期待以上に大きく操作してしまったりして、迷惑をかけることはあるわけで、アドラー心理学を他人に使う立場に立つ人(供給者)は、常に自分の腕を上げていく責任がありますね。自戒を込めて。


「操作」って言うとなんだか嫌な響きがありますが、要するに「行動」です。人に限らず生物は他の生物も含めた環境に働きかけて自分の生存に都合がいいように改変するという「行動」を繰り返すことで生き続けています。その行動にアドラー心理学の論理を適用することを「アドラー心理学を使う」と言っていいと思います。生きている以上、環境を「操作」し続けなければならないのであれば、どうせ「操作」するなら、アドラー心理学的に「操作」し合うことで、お互いにとって暮らしやすい世界が実現するのではないかと考えています。


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生きとし生けるものが幸せでありますように。

アドラー心理学のおかげ

こんにちは、鍵野です。
法事があったので、何日か大学生の息子が家にいたんですが、期末試験が近いということで、真剣に勉強をしていました。去年の今頃は、国立大学の2次試験の直前で、がんばって勉強していましたけれど、理系は入学してからも大変なんだなぁと思いました。「解析」の試験が特に重いようで、なんでも試験100%で成績が決まるらしく、それは厳しいねぇと思う一方、いいなぁ真剣勝負の感じもとも思いました。しっかり数Ⅲを勉強してきた積み上げがあってこそ対応できているということでした。子どもが(もう大人ですが)人生の課題から逃げることなく真剣に向き合っている姿を間近で感じれるのは、やっぱり嬉しいですね。親になれてよかった!


野田先生が、15歳でしつけは終わり、あとは大人と大人として付き合っていく、というようなことをおっしゃっていたと思います。我が家もそんな感じで、中学卒業までで子育ては終わって、あとはいくらかこちらが経験が多いだけで、必要な時にはアドバイスをするけれども、一緒に暮らす大人同士、助け合いながら、高校卒業まで来ました。去年の4月から息子が大学生になってからは、別々に暮らしていますが、何かあれば助け合える、何かなければそれぞれでなんとかしていけるだろう、という互いへの尊敬と信頼をベースに、幸せな関係をキープできています。


アドラー心理学に、パセージに出会えてなかったら、どうなったことかわかりません。息子が中学2年のときに初めてアドラー心理学の子育て学習プログラム「パセージ」を受講しました。生兵法は怪我のもとと言いますが、鍵野も例外ではなく、アドラー心理学の本や講座で学んだことを、自身の成長度合いは無視して、こうすべきという形で、子どもたちに押し付けていたことに気づいて、例えば「家族会議」という、家族みんなで話し合って決めていく、多数決ではなく、全員一致で、という実践があるんですが、パセージに納得して頭だけでなく身体にまで落とし込めるようなるまでは、「家族会議」という名を借りた、親父の決めたことを押し付ける会議になっていました。子どもたちからは、それが丸見えだったはずですが、なまじ「アドラー心理学」という看板でやっているものだから、押しつけ側の親父からは、自分はいいこと、正しいことをしているという自己欺瞞満開で、かなり子どもたちは迷惑したし辛かったと思います。


「ゲームは夜10時まで」と押し付けて、それを過ぎたら怒りに任せてゲームを取り上げたり(笑)。息子は悔しそうに泣いてましたっけ。本当に悪いことをしたなぁと思います。アドラー心理学がしみ込んで来てからは、子どもたちを本気で信頼することができるようになって、話し合いながら(20秒と言わず40秒でも待って子どもの考えを聞いて)、こちらの考えは伝えるけれども、ほとんどのことはお任せして、それで結局たいした問題も起こらず、互いに協力しながら幸せに暮らしてくることができました。


重い病気にめげずに、明るくいつも自分にできることをしながら、周囲の人も楽しませて生きてきた娘についても、文字通りに迫られる命がけの選択について、何も隠すことなく、娘に理解できるように医学用語を翻訳しながら、現状がこうなっていて、これとこれとこれという治療の選択肢があって、お医者さんはこれを勧めているけれど、こういう危険性もある、海外ではこういう例があって、それぞれこれくらいの率でこういうことが起こっている。お父さんとしては、これこれこういう理由で、この方向がいいと思っている。それにもこういう危険性はある。あなたはどうしたいかな? あなたの命だから最終的にはあたなが決めることを、お父さんもお母さんもお兄ちゃんも応援します。というような話を、当時小学2年生だったと思いますが、娘とできるくらいに、アドラー心理学のおかげですが、家族みんなが成長していました。


だからアドラー心理学は本当におすすめなんですよね。どんなに困難な状況にあっても、本気で実践すれば必ず幸せな方向に進んでいけます。困難がなくなるわけではありません。病気が治るわけでもありません。それでも、その困難な状況を、家族と仲間と一緒に力を合わせて乗り越えていける、その苦労自体が幸せな経験に変わってしまうようなことが起きます。生きていれば常に何らかの課題がやってきます。アドラー心理学ではライフタスクといいますが、その人生の課題から逃げ続ける人生を選ぶことも、家族や仲間と一緒に、その課題解決にチャレンジし続ける、そのこと自体を楽しむ人生を選ぶか、それはあなたの自由です。


アドラー先生は、アドラー心理学を学ぶのに遅すぎることはない、死ぬ2日前までなら間に合う(幸せになれる)、というようなことを、おっしゃたとか。善は急げとも言いますね、ぜひ、お近くの野田俊作顕彰財団(AIJ)か日本アドラー心理学会アドラー心理学を学んでいる人を捉まえて話を聞いてみてください。それまで想像したこともなかったような人生が開けてくるかもしれません。

写真は元妻からのチョコレート。やっぱり嬉しい!


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生きとし生けるものが幸せでありますように。

アドラー心理学を採用すること

こんばんは、鍵野です。
今日は経営コンサルティングの方の仕事で、二人の社長さんとお話したのですが、それぞれ業界も置かれた状況も大きく異なるんですが、それぞれに嬉しいお話を聞かせていただくことができました。


最初は、厳しい状況の中、あきらめずに粘り強く工夫しながら改善努力を続けておられた社長さんの会社の業績が明らかに上向きになっていたという話です。コロナ過を耐え抜いてきて無駄が削られてきたことで、かつての売上には及ばなくても、しっかり利益が残るようになってきたんですね。よかった!


そして次に、お会いした社長さんは、今が踏ん張りどころという状況ではあるんですが、それでも丁寧にお客さんに向き合って取り組んでこられた結果が出始めていて、大変手応えを感じられているし、やはりその方向に大きな希望の光がありそうですね、と確認し合うことができました。こちらも、よかった!


経営相談の場面では、こうだっ「たら」、こうしてい「れば」といった、「たら、れば」という後ろ向きの話をされる社長さんもいらっしゃるのですが、そんなときは、そのおかげで、学ぶことができて、今のこの判断と行動ができたんですよね、とその経験を黒歴史にせずに、前向きに、今のあなたがその経験をどう使うかという視点で一緒に確認します。やっぱりここもアドラー心理学ですね。あんな苦労、こんな苦労も含めて、全体としてのあなたが、それらをうまく使って、自分も含めたみんなが幸せな方向に動いていくしかないんですよね。そうやって動けた方はみなさんなんとかなっている気がします。それは経営している会社がうまくいっているという意味では必ずしもなくて、人のせいにせずに動けた経営者は、会社がどうなっても、なんとかその方なりの幸せな方向で暮らしておられるようだという意味です。


それで、これは経営者に限らず、相談に来られる方みなさんそうだなぁという気がします。アドラー心理学を学ぶと人のせいにできなくなるので、自分を追い込んでしまう人には辛い面があるんですが、それでも、その自分を追い込むことも含めて、やっぱり主体的に自分が決めているんだというアドラー心理学の見方を採用された人は、なんとかなっている気がします。あの人があんなことをしなけ「れば」、私の母親(父親)があんな人ではなく、こんな人だっ「たら」、と考えだしたら、自分の幸福のために自分にできることがなくなってしまうので、「かわいそうな私」と被害者を演じて、悦に入って泣き寝入りするか、迫真の演技力で他人の同情を得ようとするか、「悪いあの人」と復讐に燃えて生きるくらいしかなくなってしまいます。「かわりそうな私」と鬱々として暮らしている、一見、被害者のように見える人は、実は加害者なんですよね。一緒に暮らす人の幸せを奪い続けているんですから。もちろん、原理的には、周りにそういう人がいたとしても、自分の決断で幸せに暮らすことはできるはずですが、やっぱり、そりゃぁ、鬱々とした人と一緒に暮らすのはそんなに楽しい経験ではないはずですよね。かといって、元気を通り越して、いつも飛び跳ねてこちらにぶつかってくるような人と一緒に暮らすのも、それはそれで大変疲れることだとは思いますが(笑)。


その方その方のいい時期があると思うので、相談に来られたからといって、すぐに洞察してもらう必要もないわけですが、アドラー心理学を学ぶことで、ご自分の人生を知り、現在の苦難(の多く)が、ご自分が決断して行動してきた結果であることを知り、いったん抵抗し、人のせいにしてみたりして、でも、やっぱり自分が決めてるんだ(と思ってみる)というアドラー心理学の提案を引き受けることができたとき、わけのわからないまま踊らされているようだった人生が、ある程度その人の手の内に収まるものに変わっていきます。

 

具体的にどうしたらいいですか?という問いには、代替案の提案はできますが、その方の人生はその方が生きるしかないわけで、提案を採用するもしないもその方の決めることです。そこは完全に自由です。そもそもアドラー心理学を採用するかしないかも含めて、「やっぱり、やぁめた」も全然ありです。原因論で暮らすことは十分可能です(というかほとんどの方はそうしていると思います)。過去を呪い、運命を呪いながら生きることを選べるくらい人は自由なんです。


ただし、もしアドラー心理学を採用されると決めたのであれば、ぜひ、他の心理学(自分心理学含む)と混ぜて使わないようにしてください(ときどき、どこか他派の用語らしいものをアドラー心理学用語と思い込んで使われている方に会うこともあるので、これはアドラー心理学を提供している方の問題があるのかもしれませんが)。そうすれば人間関係の困った場面についてであれば、すべて矛盾なく理解できるようになると思います。でも、これはアドラー心理学が正しいと言っているわけではなく、アドラー心理学で矛盾なく説明できますよと言っているだけです。説明できたからといって実際に解決できるかどうかは別ですし。


誰もが、限られた、明日をも知れぬ命を生きています。だからこそ、他のを探す時間がもったいないから、実績十分なアドラー心理学で、とりあえず幸せになってみませんか? と言いたいんです。だから、その提案に乗ってくれる方たちに限って真剣にアドラー心理学をお伝えしたいと思っています。たとえ一人でも、本気で学ぶ気のある方がいらっしゃるのであれば、時間とお金の許す限り出かけていきたいと思っています。もちろん、他にたくさんアドラー心理学を伝えられる方もいらっしゃるので出しゃばるつもりはありませんが、お近くにそういう機会がなくて困ってらっしゃるのであれば、メール等で、一度ご相談ください。何かお手伝いできることがあるかもしれません。どうぞよろしくお願いいたします。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

伯父との思い出

こんばんは、鍵野です。
今日はお世話になった伯父のお葬式がありました。伯父はお坊さんで、父親(鍵野の母方のおじいさん)の始めたお寺で生まれ育って、教員となり、中学校の校長先生を定年まで勤め上げながら、住職もされていました。住職を息子に譲ってからも、鍵野の家での法事でお経をあげてくださるなど、元気に活躍していました。先月の終わりころに悪くなって入院したと聞いていて、来週あたりには見舞いに行こうかなと思っているうちに、訃報が先に届いたのでした。互いに執着が残るほどの関係ではなかったし、お坊さんらしく?、かなり前からいろいろと準備をされている様子は聞き知ってはいたので、会えなかったことに後悔はありませんが、行こうと思えば行けたはずで、やっぱりこれも自分で選んだことだなぁとあらためて思いました。


自分のお寺でお葬式をするというのはお坊さんならではですよね。当たり前かもしれませんが、お坊さんがたくさんいらっしゃって、本堂には一般人よりもお坊さんの方が多いくらいで、大変迫力のある合唱のような読経が響いて、普通のお葬式とは違う感じがして、一緒に参列した息子も驚いている様子でした。伯父は昭和8年生まれだったそうですから、8歳くらいのときに開戦して、終戦を迎えたのが12歳くらいということで、大東亜戦争の直前から最中にライフスタイルを形成したんだなぁと、アドレリアンカウンセラーなので、そういう風に時間的なコンテキストに置いて人の人生を見てみたりするわけなんですが、戦争に向かっていく大きな流れの中で、小さな男の子がどんな思いで自分の人生法則を築いていったのかなぁと…。


この伯父との早期回想もあって、小学校低学年くらいのころと思いますが、釣りに行くのにリールと竿が欲しいとおばあちゃんにねだっている自分を見つけて、これで買っておいでとおばあちゃんがお金をくれようとしているその寸前のところで、こちらを咎めている感じの表情で伯父が割り込んできて、おばあちゃん(伯父からしたらお母さん)に、「そんなん買っちゃらんでいいんじゃ」「これで十分じゃ」「はい」と仕掛けのついた(ぱっとしない)長い竹の延べ竿が立てかけてあったのを持ってきてくれたのでした。欲しかったのは買えなくなっちゃったじゃないか、とがっかりしたけど、まぁそうだなぁ…と納得してるところもあって、おばあちゃんも「そうかい」という感じだったのでゴリ押しもできず、そのまま、がっかりした感じで頷いて、その延べ竿と餌とバケツを持って釣りに向かったというようなものです。

よくない思い出として記憶に残っていたのですが、今思えば、足るを知る「知足」がテーマの思い出なのかな、とても大事なことを教えてくださった気がしています。ありがたいことです。


亡くなったといえば、最近亡くなった方で、アドラー心理学関連の恩人がいらっしゃいます。ヘンリー・スタインさんです。2月3日に亡くなったと、日本アドラー心理学会掲示板でN先生が教えてくださっていました。スタインさんは、アドラーに還れという感じで、Classical Adlerian Depth Psychotherapy という一派をなした方です。米国のアドラー心理学のメジャーであるドライカース派とは一線を画する感じの方。どう恩人かというと、会ったこともないけれど、鍵野の目指すアドレリアンであるブルック先生を知ることができたのは、スタインさんが、ブルック先生の本"Classical Adlerian Brief Therapy"を出版してくださったからです。この本、何度も読んでいるのですが、読むたびに、凄いなぁ、相談者さんをこんな風に援助出来たらいいなぁ、こうなりたいなぁ、よし、やるぞ!と、勇気づけられています。相手が変わればアプローチが変わる、型にはまっていない感じに、ライブ感あふれていてクリエイティブな感じに、凄く惹かれます。

スタインさんありがとうございました! ご自身の著書からも、大いに学ぶことができました。ドライカース派ではない視点からアドラー先生に出会い直す機会も与えてくださいました。


こうしていろんな方がこれまで生きてきて、その方たちの貢献があって、何かを学ぶことができているんですよね。これからもそんな大それたことはできませんが、鍵野も生きている以上は、何かできることで、無理して高い道具をねだらず、延べ竿なら延べ竿にできる貢献をして暮らしていこうと思っています。


ドイツで開催されるICASSI(ドライカースサマーセミナー)2024の募集が始まっていて、もし参加するならかかるであろう費用がおおよそわかったのですが、うーん、さっきの早期回想ではないですが、ここは奮発して(来年、再来年の稼ぎにおねだりする感じ)、リール竿で遠くのドイツまで仕掛けを放り込むのを目指すよりは、延べ竿で届く範囲の国内の学びの機会の方がかえっていいんじゃないのかい?という、ありがたい忠告のような気もしてきました。足るを知る…か、伯父さんも、じいちゃん(伯父さんのお父さん)も言ってたっけ…。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。

知識が行動を変える

こんばんは、鍵野です。

これまで特に不満はなく(電子ロックじゃなくて、いちいち後ろのドアのロックを外すのだけは面倒と思っていますが)、もう17万キロ超えのミラに乗っているんですが、最近、どこかで読んだ記事で「軽自動車には、リアバンパーレインフォースメントが付いていない」という情報があって、「リアバンパーレインフォースメント」というのは衝突対応部品のことで、後ろから追突されたようなときに、真後ろからではなく、右にずれていても左にずれていても、左右のフレームで受け止められるようにする補強材のことのようです。これ、普通自動車にはみんなついているらしいんですが、軽ではないんだとか。重くなるしコストアップになるからですかね。軽でもフロントにはついているものが増えているらしいですが。


今乗っているミラですが、そういえば、納車されて次の日くらいに後ろから追突されたのでした。まぁ、クラッチの加減に不慣れだったせいで、信号が青になっての発進でエンストして、後ろの車は、こちらがもう先にいるものと思い込んでぶつかってきたので、こちらのせいでもあるんですが、事故処理上は100%向こう側の過失となりました。フレームがどうこうというレベルでは全然なかったのですが、いつなんどき追突事故があるかわかりませんし、少し心配になってきました。


知識が行動を変えることを私たちはたくさん経験しています。納豆が身体にいいとテレビで放送されると、翌日のスーパーで納豆が売り切れるとか。懐かしいところでは紅茶キノコとか。マスクが飛沫を抑えて感染予防の効果があるとか。マスクのせいで酸素飽和度が下がるとかえって感染するんだとか。正しい知識ならいいんですが、絶対に正しい知識なんてものは、お釈迦さまのおっしゃった「無常、苦、無我」といった真理を除いては存在しないので、前提条件を吟味して判断しないと危ないです。ある人にとってよかったことが他の人にとっていいとは限りませんし。


で、自動車の話に戻りますが、やっぱり普通車に戻ろうかなぁと考え始めています。週に一回、せめてもの親孝行ということで、母の買い物の運転手をするんですが、自分はまぁいいとしても、自動車がもう少し頑丈なら母が助かったのに…なぁんて事態は避けたいなぁと。


とはいえ、そもそも自動車に乗らなければ車対車の事故には合わなくて済むわけで、リスクと便益とを天秤にかけて(リスクを下げればコストが上がって便益が下がるし)、対応可能なコストの範囲でベターな解をみつけるんでしょうね。そもそも、全部、宅配とかで済ましてもらえれば買い物に行かなくてもいいんだけど、買い物って、それ自体が楽しみでもあるでしょうし、週に一度の息子との数時間の買い物ドライブは、それはそれで、こちらも何かさせてもらっているという貢献感も得られるし、気の利いた会話をするわけでもないけれど、母もコミュニケーションの時間として大事にしているかもしれないですしね。


前乗ってた車、真っ赤なアルファロメオGTVは、3リッターV6のトルクフルで伸びのあるエンジンが楽しくて、その音も等長マフラーに変えてさらに官能的に響いて、それはそれはいい車だったし、娘には大好評だったんですけど、目立ちたくなかったお年頃だったのか息子には不評で、それで田舎の細い道にぴったりの地味だけどシュッとした車(と思ってます(笑))に変えたのでした。乗せる人がいなかったら、いい歳して昔憧れたレプリカタイプのスポーツバイクにしてたかもしれません、皮のつなぎを着たりして(笑)。


後ろにも人を乗せられる普通車で、マニュアルシフトで、燃費のいい車がいいのですが… となるとやっぱりスイフトかなぁ…。マツダの小さいディーゼルエンジン車も、ディーゼル車を運転したことがないからちょっと気になるんですが、煤がたまるという話も聞いてるし、まぁ、クリーニングしてもらえばいいんでしょうけれど。


と、なんか目的が違ってきてるんじゃない?と、物欲を野放しにする方向にいきそうなのに理性が警告信号を出してくれているので、車の話はこの辺にして、少なくとも次の車検を通すことはしないなぁとは決めた感じがします。


で、アドラー心理学の話ですが、アドラー心理学のカウンセリングは教育モデルなんですね。治療モデルではないんです、悪いのを治すというような。それまで知らなかったことをカウンセリングの中で知ってもらうことで行動が変わって、結果として人生がこれまでよりも幸せな方に変わることを目指しています。なので、カウンセリングでは知識を提供します。場合によっては、ほとんどレクチャーだけで終わる回もあったりします。野田俊作顕彰財団(AIJ)とか日本アドラー心理学会の基礎講座を受講してもらえばいい話なのですが、全国どこでもやっているわけではないし、いつでもやっているわけではないし、結構な費用もかかりますし、だったら、必要なことはここでお伝えしましょうとなることがあるわけです。


そこまであからさまにレクチャーではなくても、必ず毎回何かを学んでいただきます。最初お話を聞いて、相談者さんが何に困ってらっしゃるのかがわかってきたら、この回のカウンセリングで学んでもらいたいこと持って帰ってもらいたいことが実現できるようにカウンセリングを組み立てます。カウンセリングの最後で「今回のカウンセリングでどんなことを学ばれましたか?」という定番の質問は、そこがうまくいったかどうかを確認している意味もあります。もっとも、最近、N先生に学んで、あまりそのセリフそのままは使わなくなりました。学んで欲しいのはやまやまなんですが、「当然、学んでくれましたよね?」というように押し付け気味に伝わったらよくないので(笑)。なんかその場その場の感じに任せてのセリフですが、「最後に全体を通して何か感想とかあったら教えてください」とか、そんな聞き方をしている気がします。


どうやら、鍵野は、人が本気で学べてよかったと思えたことを学ぶことに貢献できたと思えたときに、「生きていてよかった」と感じるようです。それで、その学べてよかったと思ってくれる「人」は、たった一人でも十分なんですよね。だから、カウンセリングとか少人数の学びが好きなんだなぁ、東京ドームを満員に(笑)とかはなくて(稙田公民館の研修室でもガラガラですから(笑))、せいぜい3、4人の方と学び合えたら十分なのかもしれない。


そんなことを続けながら、もちろん仏道修行の方を優先して続けながら、今生が尽きる日がいつ来るのか(この後すぐかもしれないし、明日か明後日か、十年後か…)わかりませんが、いつ来てもいいように、執着を少しでも減らしながら暮らしていきたいと願っています。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。