アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

区別と差別

<2023年11月10日wrote>
こんにちは、鍵野です。
今日の佐伯上浦は久しぶりの雨です。玉ねぎを100個植えたばかりの近くに住む母が喜んでました。玉ねぎ買わなくて済むかな(笑)。太陽のエネルギーを使って土と水と空気から玉ねぎが生きていくために作った物質を人間がいただいているということですね。やっぱり生き物が作ったものしか食べ物にならないんですよね。美味しいものにはたいてい玉ねぎが入っている説をとなえていた友人がいたけれども…そうかも。カレーライス、かつ丼、ハンバーグ、しょうが焼き、などなど。あの切るときの涙と共に玉ねぎに感謝します!
 さて、私たち人間は言語で、見えるもの聞こえるもの嗅ぐもの味わうもの身体に触れるものを、概念化して区別します。で、言語は、その国や地域、文化によって異なるので、例えば同じ雪を見ても、イヌイットの方々はたくさんの雪に区別するでしょうし、雪という概念自体が存在しない言語もありそうです。また、同じ日本人でも雪国で暮らす人と、雪にあまり縁のない南国で暮らす人とでは、雪という概念に対する区別の仕方が違います。同年代、同地域に暮らす人でも、魚を見たら、単に「魚」、あるいは「大きい魚」、「小さい魚」というだけの人もいるかと思えば、「鮎」、「鯉」、「鮒」、「ニジマス」、「ヤマベ」、「ヤマメ」、「アマゴ」なーんて区別をする人もいます。同じように、「大きい犬」、「小さい犬」、「おっかない犬」、「かわいい犬」という区別の人もいれば、「ラブラドールレトリバー」、「グレイハウンド」、「アイリッシュセッター」、「ポメラニアン」、「イタリアンマスチフ」、「甲斐犬」などという区別をする人もいます。キリがないですが、こんなのはどうでしょうか? 日本人、中国人、韓国人、アイルランド人、イギリス人、アメリカ人、ドイツ人、フランス人、イタリア人、スペイン人、とか、区別できる人もできない人もいるだろうと思います。もちろん典型のイメージというのはあるとは思うのですが、アメリカ人なんて、米国籍を持つ人という定義だったら、外見ではわかりようがないですよね。海外旅行とかで、他の日本人グループが歩いているとすぐわかりますが、欧米人から見たら東アジアの人同士の区別はつきにくいんでしょうね。
で、こういうのが単に分類上の便宜というかラベルに過ぎないのだったらいいのですが、人はどうしてもそこに価値を乗っけてしまうのでややこしいことになるんですよね。〇〇人は、こういう人たちだ、だから、いいとか悪いとか。△△ファンは、こういう人たちだ、だから、いいとか悪いとか。要はそう言っている人にとって都合がいいか悪いかだけなんですが、区別に過ぎないものに人間としての価値を乗っけると差別になります。IQが低い、走るのが遅い、背が低い、英語が話せない、車が運転できない、視力が悪い、などなど、いくらでもありますが、人間としての価値に上下はないのに、たとえば日本では英語が話せる使える人は価値が高いような感じがありますね。実際、鍵野も仕事で英語を使う機会があったし必要もあり好きでもあったから、英語で本を読むのは苦にならないので、よく英語の本(アドラー心理学)を読むのですが、英語圏の人なら当たり前にしていることをしているだけなのに、「凄いですね」とか「頭がいい」と勘違いされることがあります。娘がよく「パパがいつも英語の本読んでるから、私まで頭いいって思われるんだよ、もう~」と苦情を言ってました。もちろん、英語が必要な仕事に応募するには英語ができないとダメですが、これ人間としての価値ではないですよね。たんに、その仕事を遂行する上での必要条件を満たしているというだけです。同じく、それなりに難しいとも言われる経営コンサルタントの国家資格である中小企業診断士という資格を持っていますが、そもそもこの資格名称独占なだけで、これを持っていないとできない仕事ってほとんどないんですが(廃棄物処理業者の認可に関わる独占業務が少しだけありますが)、上場企業とか公的支援機関とか金融機関の方々は知っている方も多く、勉強して目指したことのある方からの評価は高くて、やっぱり「凄いですね」と言われることはありました。でも、だから人間としての価値が高いわけではなくて、ある程度経営のことについて知っていますというだけのことです。(日本アドラー心理学会と野田俊作顕彰財団の認定カウンセラーというのも、もちろん人間としての価値に何の関わりもないのですが、…でも、一番苦労して取って、本人はとっても凄い資格だと思っているのに、この資格に関しては、世間的には誰も凄いと言ってくれないのがちょっと悲しい(笑)。よくある家元商法のお金さえ積めば取れそうなやつと勘違いされている気がする…)。
でも、現実に区別は必要です。例えば、食事をするときに、そこで出される料理に使われるお肉が何の肉なのかどういう人がどう調理したのかを、とても気にする人たちがいます。「食べれば同じだよ」というわけにはいかないんですね、特定の食べ物を食べてはいけない宗教を信仰する方たちがいるし、ある食べ物を食べてしまうとアレルギーで命に関わる人もいます。なんでも一緒にすればいいわけではないと。〇〇人と△△人で、習俗が違えば、無理に混ぜるよりは、それぞれで別れていい距離感でお互い気持ちよく暮らす方がいいとは思うし。それを、自分たちの方が上だ!優れている!とかやり始めると、もう収拾がつかなくなって、紛争、殺し合いにまで発展しかねません。やっかいなのが、ある集団が信じていること自体に他の集団への差別が内包されている場合ですね。神がいると信じるのはどうぞご自由にと思うんですが、自分たちだけがその神から選ばれたんだ、あいつらとは違うということになるとねぇ… あいつらはあいつらで、同じ神あるいは他の神から選ばれたんだと主張し始めるわけで、こうなると仲良くやっていくことは難しくなりますよね(ちなみに、もともとの仏教では、神様も上から下までたくさんいるんだけれど、それも人間や昆虫とかと同じ生命の一つに過ぎなくて、悟っていないから、お釈迦さまの教えを聞きにくる存在ということになっています。それならどうせ煩悩のある存在なんだから、どの神様がいいとか悪いとかって争わなくてもよかったと思うんですが、大乗仏教になってから、またすべてを超越したスーパー神様のような存在が導入されて、またややこしくなった気がします…)。
小さな子どもたちが喧嘩しているときに、アドラー心理学でよくやるやり方が、仲良く遊ぶ気になるまで互いを引き離しておくというやつです。二人の子が喧嘩していたら、大人二人で別々にそれぞれの子を優しく抱っこして引き離して落ち着くまで待ってから「仲良く遊べますか?」と聞いて「嫌だ!」と言ったらもう少し抱っこを続ける。「うん」と言ったら、釈放(笑)するというのがあります。どこかの国とどこかの国が争っていたら、優しく抱っこして引き離してくれる保育士さんのような国がいたらいいのになぁと思います。でっかい国はいくつかあるんだけど、なんだか喧嘩好きそうだし(笑)、喧嘩中の国もありそうだし。日本がそういう国になれたらいいなぁと思うけれども、まずは自分たちが近くの国と仲良く助け合えるようになってからかなぁ…道は険しいけど、地道にアドラー心理学を広めていくしかない気もします。「嫌われる勇気」韓国でも台湾でも中国でも売れてるみたいだし。野田先生の本が売れたらいいのになぁ(笑)。
読んでいただきありがとうございます。
みなさま今日もどうぞよい一日を。
生きとし生けるものが幸せでありますように。