<2023年10月17日wrote>
こんばんは、鍵野です。
今日は、鍵野が大分で経営コンサルタントとして独立して以来、一番古いお客さんとのお仕事でした。ずっとご用命いただいて、本当にありがたいことです。もう大きな問題は解決して、いい流れのできている会社の社長さんですが、たまにお会いして、お話をしてもらうことで、ご自分のお考えを整理するお役に立てているようです。惰性で続けるのもよくないので、毎年契約を更新するかどうか、今期で終了いただいても全然大丈夫ですよと思いながら、確認しているのですが、継続を希望してくださいます。経営コンサルティングとアドラー心理学カウンセリングは違う仕事とはいいながら、傍目には相談を受けてお金をいただくという意味で、似たようなものにも見える中で、長年にわたってカウンセリング料金の何倍もの費用を払ってくださっています。こちらも毎回お会いしてお話をするのも楽しみですし、本当に幸せなことだと思います。これからも、いただくお金以上の価値を提供できるように精進します。
それで、「お金」ですが、これ典型的な仮想ですね。日本なら円、中国なら元、米国ならドル、欧州ならユーロ、イギリスならポンド、ロシアならルーブルと、国や地域ごとにもう少し具体的な仮想があって、その仮想を共有する人たち同士で使われています。また、円安ドル高などと言いますが、仮想同士を交換する為替レートという仮想もあって、世界中で「お金」という仮想を元に、様々なやり取りがされています。物々交換から始まった=交換される物の総量=お金の必要量というのは違っているようでMMT(現代貨幣理論)によれば、インフレを制御圧として、通貨発行権を持つ政府はいくらでも通貨を発行できるということです。実際に日本もそうやって運営されています。税金を集めて配るというイメージは真っ赤なウソで(税金を集める前に予算は執行されます)、税金というのはガス抜きというか、インフレ抑制のために貨幣流通量を減らす目的で、経済を冷やすために徴収されます。貸借対照表がわかる方なら、理解できると思いますが、国の借金は国民の財産なんです(銀行の貸借対照表を見るとわかりますが、預金は負債の欄にあります)。国の借金が膨らむほど、民間にお金が回って動いているということです。人生ゲームというボードゲームをするとき、最初にお金を配りますよね。あれです、日本国のお金は。たくさん国民に配った分、国から見ると借金が増えています。なので、国の借金を減らす=国民の財産を徴収する(ゲームで配ったお金の回収)ということになります…って、すみません、ちょっとアドラー心理学から離れてしまったかもですが、言いたいのは、増税して経済を冷やそうとしている財務省批判ではなく(笑)、お金は受け取る人と払う人がその紙なり金属なり数字なりで表現された仮想に合意しているから成立するものだということです。なので、仮想なんですけど、現実的な作用効果があります。仮想に過ぎないんだから、私は1万円の価値を認めない!これは100円だと言い張ってもダメなんです(喜んで1万円札を100円玉と交換してくれる人はいそうですが(笑))。
前に劣等感について書きましたが、あれ仮想ですね。仮想に過ぎないんですが、その仮想の劣等感をなんとかしようとして人は行動します。自分はバカだという劣等感からすごく勉強して賢くなる人もいますし、自分は弱いという劣等感からすごく身体を鍛えて強くなる人もいます。お金という仮想と劣等感が違うのは、それが一人ひとり違っているところです。背が低くても全然気にせず暮らしてはいけますが、お金を気にせずに暮らすことはできません。お金についての意見は人それぞれ違うでしょうが、この現代社会で暮らすためには、まったく無関心でいることはできません。すべてを自給自足でまったくお金を使わずに暮らそうにも、それこそ国民健康保険税とか国民年金保険料とか、土地があれば固定資産税とか、お金という仮想を受け入れる必要から逃れられないはずです(気が狂ってしまえば別ですが、それでも目的論から考えると無意識的にお金という仮想を受け入れているからこそ、そこから逃れる行動を選んだということになりますね)。
じゃぁ、劣等感(その反対の優越目標も)は、お金とは違って一人ひとり違うので、そんなの自分だけの仮想だから気にしないでいいじゃん!とはならないんですよね(なったらいいのに)。原始時代とか、あるいは現代でも未開の地に暮らすいわゆる原住民と呼ばれるような方たちだったら、人間だから劣等感はあるはずですが、そんなに気にしないで暮らせるのではないかという気がしますが、現代社会に暮らす私たちには無理です。それはどうしてかというと、お金のように具体的なものや数字としては見えていませんが、私たちは小さなころから「人の価値に優劣がある」と信じ込まされているからです。お金持ちの方が人として価値が高い、頭がいい方が人として価値が高い、美人の方が人として価値が高い、背が高い方が人として価値が高い、力が強い方が人として価値が高い、字が綺麗な方が人として価値が高い、などなどいくらでもあると思いますが、人としての価値に優劣・高低・上下の差があるという根深い信仰にも似た、共通した仮想を持っているからです。その「人の価値に優劣がある」という仮想があるからこそ、映画やドラマ、アニメ、小説、少年漫画、少女漫画を楽しめます。もしそんな仮想がなかったら、誰かが海賊王になろうがなるまいが気になりません(笑)。疎まれ差別されさんざんな目に会った主人公が世間を見返すというようなストーリーに感動するのも、やっぱり本当は「人の価値に優劣がある」んじゃね?と私たちが思っているからです。だって、「人の価値は平等だ」とみんなが本気で信じて暮らしている社会があったとしたら、そんなストーリーにリアリティないですもん、絶対感情移入できません(笑)。なので、この劣等感の仮想から抜け出すのは、とても難しいんです。
でも、それは可能です。だって「人の価値は平等だ」というのは仮想ではなく真実ですから(アドラー心理学カウンセリングを受けるとそれを実感できる瞬間があります)。劣等感からまったく自由になるという境地に達するのは、悟りを開くとかそういうレベルが必要かもしれませんが、自分の劣等感に支配されずに暮らすというレベルであればアドラー心理学を学び実践することで十分可能です。かくいう私も、かなり制御できるようになってきたと思います。アドラー心理学を十分実践できるようになる前は、自分より賢そうな人がいるとついつい対抗して何か強迫的に自分をアピールする行動を取りがちでしたが、最近では、チラっと対抗したい衝動のようなものを感じながらも、そんな自分をかわいいなぁとニッコリ笑いながら、自分も含めたみんなの役に立つ方の行動を選ぶことができる場面が増えてきました。
自分と周囲の人を生きづらくしている仮想にしばられずもう少し自由に生きるためにも、ぜひアドラー心理学を学んでみませんか?
鍵野と一緒に学んでくれるのも大歓迎ですし、もっとちゃんとした先生に学びたければ(笑)、野田俊作顕彰財団(AIJ)あるいは日本アドラー心理学会のホームページを覗いてみてください。
読んでいただきありがとうございます。
生きとし生けるものが幸せでありますように。