こんにちは、鍵野です。
春ですねぇ~。今日も暖かい佐伯上浦です。もう暖房のお世話にならなくて済みそうです。
暖かくなったのはいいんですが、スギなどの花粉症の方にはお気の毒な季節ですね。鍵野は今のところまだ大丈夫なのですが、あるときダムが溢れるように症状が出ると聞いたこともあるので、用心…といっても、特に何をしたらいいかはわかりませんが、花粉ダム?の許容量を超えないようにあまり外に行かない方がいいのかな?
スギとかヒノキとか、木々も生きてるんですよね。次世代に生命を繋いでいく営みが、人間からすると、ちょっと迷惑というか、花粉症ということになっていくんでしょうけれど、元はと言えば人間がスギやヒノキを材木として利用しようとしたからこそ起こっている現象ではあるわけで、「私が頼んだわけじゃない!」と思ったとしても(実際そうなんでしょうけど)、まぁ生きている者同士お互い様という視点も必要な気がします。
何かの記事を読んでいて、森の中で木々が豊かにコミュニケーションしていることを知って感動したことがあります。根と根を通して、化学物質をやり取りしていて、親族というのか、それぞれの存在を認識していて助け合っているんだとか。もう切り株しか残っていない木がまだ生きていて、それは子供たち孫たちがそのおじいちゃんだかおばあちゃんだかの切り株に栄養を与え続けているということもあると。
仏教は、生きとし生けるものの幸せを願いますが、植物が生命なのかについては、微妙なところがあるようで、仏教のお師匠様のスマナサーラ先生も明言されなかったように記憶しています。
比丘(初期仏教のお坊様)は、植物の果実などを生えている状態から直接取らないと聞いたことがあります。植物が落とした実であればいいけれどと。これは生命か生命でないかという別けとは違って、「与えらていないものを取ってはいけない」という教えからだと理解していますが、植物の生きものとしての権利を尊重していることもあるのではないかとも思っています。
仏教での生命、生きものの定義は、感覚があるものということですが、そういう意味では、やっぱり植物も立派な生命、生きものですよね。オジギソウとか、ハエトリグサとか、明らかに触覚がありますよね。太陽の方に顔を向ける向日葵もそうだし。
でも、センサーとアクチュエーターとCPUとメモリと電源があり、それぞれ適切に配線されていて、センサーから拾った値がある設定値を超えたときにアクチュエーターが動くようにプログラムしてあるシステムがあったとしたら、見た目上は、感覚がある生きものにも見えますね。
そのシステムを作っているところ、それが人(あるいはシステムを作るシステム)に作られたものであることを知らなければ、生命と勘違いするかもしれませんよね。
西欧、キリスト教社会では、創造神がいて、もともとその創造神が全部作ったんだけれども、そのとき人間だけに魂を入れたと考えるらしいですね。日本人の自分からしたら荒唐無稽というか、ちょっと信じられない話ですが。
なので、そういう理解がベースにある方々にとっては、植物だけでなく動物も、人間とは違う魂のない存在で、単なる機械というか、人間が利活用するオブジェクトというか、あまり思い入れなく扱えるのかもしれないなぁと思ったりします。
そのおかげで、倫理的な問題に煩わされることなく、自然科学が大々的に発展していったという側面もあるんでしょうけれど、魂がないんだから何したっていいんだとばかりに乱暴、横暴な扱いをしてきて、結局、しっぺ返しというか自分たち人間も困ってしまっている気がします。
お釈迦様は「魂」なんてものはないと明確におっしゃっています。永遠不滅の変わらない魂なんてものはないんだと。仏教は無常の教えですから、諸行無常、諸法無我、ものごとは変化するからこそ現象として存在しているのであって、変化しないということは=感じることができていないということになるので。
「魂」のある我々は特別だ!という究極の差別意識が、原爆やアウシュビッツやラーゲリを生んだとも言えるのではないですかね。人間のように見えて人間ではない存在がいると本気で信じられる人にしか、あんなことが同じ人間にできるとは思えませんもの。「あいつらには「魂」がないから大丈夫!」とでも暢気に思える恐ろしさが私たち人間にあることを忘れてはいけませんね。
ということで、「魂」なんて物騒なものには早々にお引き取りいただいて、人間だけでなくあらゆる生命が、今ここで、一緒に暮らしている、仲間なんだと、それぞれが川の中にできる一つの渦のような現象に過ぎないんだけど、それでも、互いに影響しあいながら、とりあえず今は存在しているんだよねという謙虚さを持って暮らしていければ、この世も少しは住みやすくなるんじゃないかなぁと思います。
と、例によって前置きにならない前置きが長くなりましたが、今日のアドラー心理学の話題は、またまた「責任」についてです。
今、春休みで、こんど大学3年生になる息子が帰ってきてるんですが、そこは親父に似たのか車の運転が好きなんですね。それで、新しい愛車となったスイフトくんを友だちと出かけるのに貸して欲しいというので、それはいいね!、このスイフトの良さを味わって欲しいなぁという気持ちもあって貸したんです。
それで…、事件はその友達と出かけたときにではなく、息子らしいなぁと思ったのですが、そのとき困らないようにということで、バック駐車の練習をしてくるからと、前日に、近くの広いところで駐車の練習をして帰ってきたときに起こったのでした。
家の前は、車が一台余裕で停められるスペースがあります。スペースは余裕なのですが、隣の家の微妙な高さのブロック塀が微妙な角度で立っているんです。で、そのスペースにバックで入れようとするとそのブロック塀は左後方に位置することになるんですが、これが全然見えないんです。慣れればまぁ大丈夫なんですが、そこを意識せずに運転席からの目視だけでバックすると、目出度く(笑)、ぶつかることがあるんですよね。
初めてのお客さんが駐車するときは、誘導しながらそこに十分気を付けて停めてもらうんですが、何度目かで勝手知ったるお客さんが、こちらが出る前に停められたときに、一度ぶつけてしまったことがありました。
どうやら、息子がしっかり駐車練習してから戻ってきて停めようととしたときに、対向車があったようで、迷惑をかけないように早く停めなければと焦ったようです。左のボディに新たな凹みと傷が出来てしまいました(泣)。
でも、帰ってきた直後はそんなことがあったとは知らず…
(玄関での場面)
私:おかえり
息子:ただいま
私:どうだった?
息子:うん、練習できた
私:よかったね
息子:練習はできたんだけど…
私:うん?
息子:車…左側…擦ったかもしれない…
私:え?(車の左側の方に歩いていく)
息子:(ついてくる)
私:…(凹みと傷を2か所確認)凹んだね…
息子:…
私:そこ(ブロック塀を指さし)見にくいからなぁ… お客さんでもぶつかった人いたし…
息子:うん…
私:そっか… 行けるかな、行けないかなというときに、無理しないで確認できるとね…
息子:うん… ちょうどその時車が来てて…
私:うん。そういう焦ったときこそ、待ってもらって… 行っちゃえ!じゃなくてね これは仕事でも同じことだけど…
息子:うん
私:とにかく、錆びないように
(この後、ボディ色のシルバーのペイントを持っていたので傷に塗った。息子は作業を見ていた)
息子:ごめん
私:うん。まぁいい経験したと思えば… 次から気をつけて
息子:うん
こんな会話を交わしたのでした。一瞬、バイトもしてるし、修理代払ってもらうのが息子のためにもいいかなと思ったのですが、でも、息子に車を貸すときに、自分の保険は運転者限定なので息子には一日保険に入ってもらっていて、そこでは車両保険的なものは付けるようにお願いしてないし、他人の車を傷つけたらしっかり賠償できるように、自分の車は、事故が起きたら起きたであきらめていたことを思い出して、修理代の話はしませんでした。
最初は直そうかなと思ったのですが、走行にはまったく支障はないし、他人に不快感(この車の近くを走っても大丈夫?というような不安)を抱かせるほどの大きな傷でもないし、キレイさを追求しだすとキリがないし、足るを知るという意味でも、このまま、息子の勲章(笑)として乗っていこうかなと思っています。
人にものでもお金でも貸すというのは責任を伴う行為なんですよね。その人を信用して、どの程度の責任は取ってもらうし、こちらはどの程度の責任を引き受けるかを納得しての行為なので。
数年前に鍵野にとっては大金をある人の事業を見込んで貸したことがあります。単に貸しただけではなくて自分も関与するつもりだった事業でしたが、結局日の目を見ることなく(まだその方は頑張っていると思いますが)、もうお金が戻ってくることはないだろうなとあきらめています。
人と人が関わって責任ゼロはありえないんですよね。お互い様で迷惑をかけあいながら、この世からおさらばするまで、なんとかかんとか生きていく、よいこともあればよくないこともある、そもそも「よい/よくない」も自分の勝手な判断、好き嫌いに過ぎませんしね。
それでも…、このままこのスイフトくんに乗り続けて、4年後かな?、息子が院を修了して、就職して稼ぐようになったら、逆就職祝いで、板金修理代出してもらおうかな(笑)
それまで大事に乗ろう!
とにかく、息子も誰もケガしてないし、他の車も大丈夫でよかった!
今日も読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。