アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

お彼岸

こんにちは、鍵野です。
お彼岸の中日、春分の日ですね。


春休みで帰省している大学生の息子と一緒にお墓参りに行ってきました。とはいっても歩いて10分15分というところなので、あらためて出かける、行ってきた、という感じでもないのですが、それでも、息子が小さいころから一緒にやってきたことなので、終わると、スッキリするというか、よかった!というか、いい心持ちがします。


本気で仏教を学んで、お墓参りと仏教にはたいして関係がないことを知って、興醒めな部分もあったのですが、いやいや、かえって日本の文化として、伝統行事として、直接間接のご先祖様に感謝するいい機会として、子々孫々に伝えていくのもいいものだよなぁと、歩けるうちは(坂が急なので車椅子では無理そう)続けていきたいと思っています。


そのうち自分(の骨)も入るであろう鍵野家のお墓と、祖父母のお墓と、叔父叔母のお墓と、無縁さんのお墓と、大東亜戦争で日本のために命を捧げた佐伯上浦浅海井(あざむい)の方々のお墓をお参りしています。


お釈迦様の教えによれば、人は死んだ次の瞬間にもう別の生を始めています(完全に覚ったのでなければ)。餓鬼か畜生か天か人間かはわかりませんが、死んだ瞬間の心の清らかさに応じたところに次の生を得るのだと。


大乗仏教では49日というインターバルがあることになっていますが、ちょっと論理的に無理があるような気がします(まぁ論理じゃなくて信仰の世界なのでいいのかもですが)。死んでも生まれてもいない状態って…、よくわかりません。


仏教のお師匠様、スマナサーラ先生の明解な教えに納得しているので、鍵野家の墓の前で手を合わせても、そこに父や娘がいるとは全然思っていません。どこかで別の生命として生きていると信じていて、「悩み苦しみなく幸せでありますように」と願うだけです。


どこかで会うかもしれないし、既に会ったかもしれないし、いつも会っているかもしれないなぁと… なので、どんな生命にも慈しみを持って接することができるようにと思ってはいます。血を求めて飛んでくる蚊が、かつての肉親、仲間、恩師だったら、考えなしにパチンッ!ってやるわけにはいきませんものね(笑)。


そうそう、これだけ多くの人間がいる中で、あえて自分の血を吸いに来ている蚊は、ひょっとしたらいつの生での自分の母親だったかもしれないよ、というようなことを教えてくれたのは、野田先生のご縁でお会いできたチベット仏教のお坊様であるドルジェン・リンポチェでした。


そのリンポチェのお話を聞いて、母の恩についての説法を聞いて、自然に涙が溢れてきたのを思い出します。


その、母の恩に勝るものはないというのは、スマナサーラ先生にも教わりました。当たり前かもしれませんがチベット仏教にもお釈迦様の教えがしっかり伝わっているんですよね。ありがたいご縁に感謝します。


にもかかわらず、子育ても終わった今の鍵野のエピソード、陰性感情を伴う出来事のほとんどは、母をめぐってのことなんですよね(笑)。頭でわかってはいても、ついつい身体が、感情が動いてしまいます。まだまだ修行未熟ですね。大恩ある母にマイナスの感情を抱いてしまうようでは…


と、アドラー心理学の話題に入っているのですが、先日の福岡でのY先生をお招きしての「エピソード分析」継続学習会でも、母とのエピソードを相談者役として、大先輩にカウンセリングしていただいたのでした。


この大先輩が凄いなぁと思うのが、もう何十年も前に、野田俊作先生直々にカウンセリングを教わって、しっかり日本アドラー心理学会カウンセラーとして認定された方で、そのお人柄もあって、自在にカウンセリングができる方なのですが、それでも、新しい「エピソード分析」によるカウンセリングを学ばれて、それでカウンセリングをされようと努力されているところです。


きっといろいろと不自由な思いをされながらだとは思うのですが、それでも、ところどころ持前の自由さを披露しながらも(笑)、「エピソード分析」で、一緒に仮想的目標を抽出してくださり、私的感覚も引き出してくださいました。


おかげで、母の行為のどこがなぜイヤだったのか、不安に感じたのかが、自分のロジック、私的論理がかなり理解できました。


終了後のカンファレンスで、Y先生にさらにもう一段、私的感覚の深いところを引き出していただいて、また大きな気づきを持って帰ることができました。


Iさん、Y先生、ありがとうございました!


これをきっかけにボロボロとさらに気づきを深められそうな感じはあったのですが、ここで解決?してしまって、ただでさえ出にくくなっているエピソードが出なくなっては、これからの学びに支障を来すという自主規制(笑)で、自分ではあまり触らないことにしました。


この辺の塩梅がねぇ…、わかる人にはわかってもらえると思います。学習が進んできて出にくくなっている貴重なエピソードなので、どうせなら腕のいい人、相性のいい人に扱って欲しいなぁというこの感じ。ましてや、自分で分析するなんてもったいなさ過ぎる(笑)。


アドラー心理学は、陰性感情を持つなとは言いません。ただ、その陰性感情の勢いのまま行動してしまうのではなく、それに気づいたら、いったん考えて、相手にも自分にもプラスになると思われるような行動、協力的な目標を実現しそうな行動を選べばいいんだと。陰性感情はある。そりゃぁ、あるんだけど、でも、相手を裁くのか仲間になるのかを選べる自由は常にあるんだと。


対して、仏教は、陰性感情を持つこと自体が悪行為です。身口意、身体ですること、言葉を発すること、思うこと、それぞれが行為で、陰性感情を持ったということは、「意」の悪行為をしたということになります。完全なる覚者は悪行為をしませんから、陰性感情を持たないということですね。


なので、やっぱり仏教とアドラー心理学は全然違いますね。仏教は覚者になること、人を超える道の教えであり、アドラー心理学は、人が人のままで幸せに暮らすにはどうしたらいいかという教えです。


ということで、仏道修行が進んで陰性感情自体がなくなる前に、誰かに「エピソード分析」してもらわないとなぁ(笑)。なぁんて余計な心配をしている暇があったら、ヴィパッサナー実践しよう!


読んでいただきありがとうございました。

みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。