アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

話を聞く

こんにちは、鍵野です。
今日は雨模様でかなり肌寒い佐伯上浦です。

衆議院選挙の結果を受けて、自民党幹部の方々も自ら招いたこととはいえ寒い思いをしているかもしれませんね(笑)。政治がいくら変わっても、人の心が変わらなければ…と思っているアドラー心理学者の端くれである鍵野としては、政権がどう変わろうが自分のすべきことをするだけとは思っているのですが、それでも今回の選挙は「参政党」に期待して、小選挙区に立候補者はいなかったので、そこはともかく、比例代表については願いを込めて一票を投じました。今回は珍しく死に票にならず、九州で参政党が議席を確保できたのは嬉しかったです。やっぱりねぇ…日本人ですから、それも一つの偏見、好みに過ぎないとはわかってはいても、これまでの日本人が大事にしてきたことへのリスペクトは大事に暮らしていきたいと思っています。そういう意味で、これからも参政党を応援していこうと思っています。


さて、お隣の解体工事が終わって、崩れた塀は危ないのでもうそのまま塀なしでいいかなということになっています。前回ご報告したようにかなりのダメージを受けた愛車のミラちゃんですが、走るのには支障ない感じで自走して近くのダイハツさんで修理見積をいただいたのですが、乗って帰ることはできなくて、今もダイハツさんのサービス工場に入院中です。


サイドミラーとテールランプが割れているので、公道を走れる状態ではないと…
その他、重い石でできた塀がぶつかった右側面はいたるところ部品交換とか板金が必要な状態で、手足のように動いてくれるしとても気に入っているミラちゃんですが、直すよりは、いい機会と、後部座席の安全性も考えて普通車に買い替えようかと、思っています。


買い替えるとしたら、3代目のスイフト(スポーツじゃない)のマニュアル車か、最後のデミオディーゼルじゃない)のマニュアル車にしようかと、マニュアル車自体が絶滅危惧種なので、全国で探してもそれぞれ数十台くらいしかないので厳しいんですが(笑)。


買うとなれば、工事屋さんとの示談交渉の結果次第ですが、賠償金をいただけても、いくらになるのかいつになるのか、わからないし、予定していなかった出費が発生するので、それが痛い!(笑)


年末には久しぶりに遠征でのアドラー心理学の学びに参加する予定だったのですが、車を買い替えるとなると、かなりの緊縮財政が続きそうで…、またしばらく見送りかなぁ…


アドラー心理学の学び、特に先生方のカウンセリングに学んで、自分のカウンセリングがそこからズレていかないように定期的にキャリブレーションすることは、最重要事項と思ってはいるのですが、いかんせん、車があること前提の暮らし方をしているので、背に腹は代えられないといったところです。


宝くじ買うか(笑)。いやいやいや、カウンセリングとコンサルティングで、額に汗して(汗はかかないけど(笑))真面目に稼ぎます。遠慮せず、じゃんじゃんいらしてください、お待ちしています(笑)。


しばらくの間、日中はお隣の工事の音が響いて、かなり慣れては来ていたものの、こうして工事が終わって、元の静けさが戻ってくると、かなりの「苦」があったことがわかります。


それで、仏教では、感覚には「苦、楽、不苦不楽」という3種類があると教わります。
例えば、お腹が空いたという「苦」を感じていて、そんなときご飯を食べると「楽」を感じます。一口目がとっても美味しくて「楽」が強くて、食べ続けるとだんだん「楽」は減っていって、苦でも楽でもない「不苦不楽」という感覚になり、それでも食べ続けるとやがて「苦」を感じるようになってます。そこで食べるのをやめても、しばらくは「苦」の感覚が続いていて、食べ物の消化が胃腸で進んでいくにつれて、「苦」が減っていって、そのうち「不苦不楽」になって、それでお腹がスッキリしてくると「楽」を感じるようになり、やがてまたお腹が空いてきて「苦」を感じるようになっていきます。


生まれてから死ぬまで、どんなに美味しいものを食べても、結局そんなことの繰り返しに過ぎないんだなぁと…。結局、生きているってそういうことなんだなぁと…。つまらないといえばつまらないことですが、でも、そういう自己観察からの気づきが仏教の実践ということではないかと思っています。


「音」もそうなんですよね。気に入った音楽を聴くという「楽」もあるけれど、音がなくなったこと、騒音と感じていたものがなくなったことで感じられる「楽」があるんですよね。これ、好きな音楽を聴くというより、もっと深い安らぎのある「楽」だなぁという気がしています。


人間、何につけ、得ることよりも、手放すこと、離れることで感じる「楽」の方が大きい気がします。


この気づきも、お隣の解体工事のおかげですね。工事で壊れた車への執着に気づけたこともそうですが、有難いご縁だと思っています。


と言いつつ、代車で借りているダイハツムーブが当然のようにオートマなので、装備も豪華で静粛性もあるし室内も広いし、そういうところに不満はないんだけれど、でも、運転していて退屈で退屈で…、ミラちゃんのように、一日数百キロでも走り続ける気にはならないなぁ…、と、マニュアル車への執着が根強いなぁと…


やっぱり修行と思って、ただ走ればいい車にした方がいいのかなぁ? いや車くらいは少しはこだわってもいいのでは? 退屈して事故しちゃったらつまんないし…などと自分への言い訳を考え中です(笑)。


と、例によって前置きにならない前置きが長かったのですが、今日は、アドラー心理学の子育てで繰り返しテーマになることの多い「話を聞く」について考えてみたいと思います。


みなさんいかがですか? 人の話を聞くのは得意な方ですか、それとも苦手な方ですか?


鍵野は、得意だと思ってました。そりゃぁ、「人の話を聞くのが苦手です」なんていう人はカウンセラーになろうなんて思いませんもん(笑)。


でも、ですね、これ間違ってました。カウンセラーになろうと訓練を始めて、ようやく、それまで、全然、人の話を聞けていないことに気づきました。とくに相手が自分の大事な人であればあるほど、話を聞けてなかったんですね。


たとえば自分のパートナー(元妻)の感じていること考えていることなんてわかっていると思い込んでいて、全然わかっていないし、話を聞けていませんでした。


人は誰でもそうですが、自分の物語の中を暮らしていて、その物語の主人公で、夫や妻にしろ、子どもにしろ、親にしろ、その物語の登場人物で、自分の書いた脚本の中のセリフをしゃべっているに違いないと思い込んでいるので、相手のどんなセリフも、自分の筋書きに沿ってしか受け取れなくなっています。


カウンセラーになる前も、経営コンサルタントとして人の話を聞いて一緒に解決策を探す商売をしていて、それでご飯を食べれてはいたので、自分は人の話が聞けると思い込んでいましたが、それはそういう「経営コンサルタント」という配役として、それを演じる上で、お客さんの話を聞くという脚本の中ではそのように動けていたということに過ぎなくて、アドラー心理学カウンセリングという、相談者さんの人格とカウンセラーの人格が共にダンスを踊るような、誤魔化しのきかない、カウンセラーの全人格をかけて話を聞く、話をしてもらう、という関係性の中では全然通用しませんでした。


もちろん、カウンセリングにも筋書きがないわけではなくて、というか、カウンセラーの方にある程度の、そのセッションの目標地点を描いて、そこを目指して進んでいこうという意味での筋書きがないと成立しないのがアドラー心理学カウンセリングだと思っていますが、一歩一歩、相手の言葉だけでない身体の反応も確認しながら、合意を取って、進んでいくという意味で、筋書きはあるけれども、自分の筋書きに相手を当てはめるのではなく、一緒にそれを紡いでいくというか、描いていくというか、書いていくという意味で「話を聞く」ことができる必要があることに気づいたんですね。


ゲッシング(推測)は常にあります。ノーアイデアでフルオープンで質問することもないとは言えませんが、興味の方向自体はあるからこそ聞いているわけなので、カウンセリングに限らず本当に関心も何もなければそこで会話は始まらないはずです。


推測は推測に過ぎなくて、あるんだけれど、それはチョークやホワイトボードマーカーで書いたものに過ぎなくて、いつでももう片方の手に持った黒板消し(ボードイレーサー)で消せる用意をしながら会話をする必要があるんですね。


あなたはこういう人だ、こう思っているに違いない、本当はこう思っているはずだ!なぁんて、思いながら会話をする人は、ホワイトボードに油性ペンで書いてしまっている人のようなもので、全然相手の話を聞いてないので、本当の会話、対話の成立を望むことはできません。


かく言う鍵野もそうだったわけで、相手が大事な人であればあるほど、自分の想定が崩れるのが怖過ぎてちゃんと話を聞けないんですね。なので、目の前の人と対話をしているんじゃなくて、自分の妄想の世界、自分の書いたドラマの世界の登場人物と会話、対話をしたつもりになって、終わってしまう。それで、なんで、相手はわかってくれているはずなのに、なんでこんな勝手なことをするんだ!と勝手に怒ったり悲しんだりしてしまうんです。


これが相手がたいして大事な人じゃないのであれば、そんなにこちらの想定もゆるいというかかっちり決めていないので、それなりに話を聞くことができます。想定範囲内を出ないのは一緒なんですが、かなりゆるゆるなのでですね。


なので、相手の「話を聞く」というのは、アドラー心理学の基本で子育て学習プログラムでも最初の方で教わることでありながら、なかなか難しく奥深い技術…というか、いや思想のレベルの話かもしれませんね、「共同体感覚」というアドラー心理学の思想に関わることなのかも、本当は。


本当に相手を対等平等な存在として、尊敬して信頼して、仲間だと思えていないと話なんて怖くて聞けないのかもです。自分の想定問答集の枠を超えて、自分の人生のドラマが書き換わってしまうかものリスクを引き受けながら、しっかり相手の話を聞く覚悟ができたとき、本当に相手の話を聞けるのかもしれません。


今日、例えば、お子さんに

子ども:ただいま…(目が合わない… 視線を下に落としている)
私:おかえりなさい…
子ども:…
私:何かあった?
子ども:別に…
私:…おやつあるわよ
子ども:いらない(部屋に入ってドアを閉める)
私:(何かあったんだわ、きっと。何だろう? いじめられたりとか? 先生に怒られたとか?)
  開けるわよ! ねぇ、Tちゃん、何かあったんでしょ? ねぇ
子ども:(机に突っ伏したまま)何にもないって!
私:そんなはずないじゃない、いつもおやつ楽しみにしてるのに、そんな恰好で
子ども:もう放っといてよ! あっちいって!
私:まぁ、ママになんてこと言うのよ!
子ども:ママなんか嫌い! ウェーン、ウェーン
私:……


という展開になるはずだったドラマを


子ども:ただいま…(目が合わない… 視線を下に落としている)
私:おかえりなさい…
子ども:…
私:何かあった?
子ども:別に…
私:…おやつあるわよ
子ども:いらない(部屋に入ってドアを閉める)
私:(何かあったんだわ、きっと。何だろう? いじめられたりとか? 先生に怒られたとか?)
  (でも、とにかく今はあの子、部屋で一人でいたいんだわ… あとで出てきたときに話を聞いてみよう)

<しばらくして 子どもがリビングに…>
子ども:ママ、おやつ何?
私:プリン、ほら、この前駅前にできたケーキ屋さんあったでしょ。あそこの。
子ども:そうなんだ(ちょっと笑顔)
私:(冷蔵庫からプリンを出す)食べましょうか
子ども:うん
(一緒に食べて…)
子ども:ごちそうさまでした
私:ごちそうさま。美味しかったね。
子ども:うん。今度一緒に買いに行きたい。
私:わかった、そうしよう。
子ども:うん(笑顔)
私:Tちゃん、何かママにお話ししたいことがあったらいつでも言ってね。
子ども:…うん、わかった。でも、今はいい。
私:そう(笑顔)
子ども:うん。ありがとう。
私:(ニッコリして頷く)

というドラマに変える力が身に付きます、アドラー心理学を学ぶことで! 

このドラマなら、まだお子さんの具体的な話を聞いてはいないんですが、お子さんにしたらママがとっても大事なことを聞いてくれた気がしていると思います。ママは仲間だなぁと思えている気がします。


話を聞くのはその場その時じゃなくてもいいんです。自分だけではなくお互いのいいタイミングで、「話を聞く」のって大事なことですよね。


アドラー心理学を一人でも多くの方が身に付けて、この日本でもっと幸せに暮らせる人が増えますように。学びたいと思ったときがチャンスです、どうやって学んでいけばいいのか、あなたにあった方法をご提案できます。お気軽にメールでもお電話でもお問い合わせください。よろしくお願いいたします。


今日も読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい一日をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。