こんばんは、鍵野です。
数日前、歯医者さんに行って残りの親知らず2本を抜いてもらって、親知らずがなくなりました。親知らずの前の奥歯を守るための抜歯ということだったんですが、今回もあっさり抜けて、腫れもなく痛みもほとんどなく、抗生剤も痛み止めも使わずに済みました。先月抜いた左側は、その後は歯磨きがしやすくなってかなりいい感じなので、今回もその後が楽しみです。得るよりも捨てるのが大事だなぁと実感しています(笑)。
久しぶりに何日か福岡に行ってこようと思っていたんですが、急遽大事な仕事が入ったので、しばらく家に籠って集中することにしました。もともといつ入るかは未定だったけど、入ったら優先対応することは予定していたので、陰性感情なく冷静に対応できました。お客さんも喜んでくれました。
アドラー心理学を学んで実践するようになって、カウンセラーになってから、いつもたいていは協力的目標に向けて行動できている感じがあります。まぁそう判断しているのも自分なので他の人からみてどうかはわかりませんが、自分がこれから取る行動が他の人にとってどういう影響をもたらすかについて、わかっているのにわかっていないフリをして、自分の都合だけを考えて突き進むことはしなくなりました。
これ、カウンセラーになる前は、そうするのがアドレリアンだから、そうすべき、それができる自分になるべき、という目標追及のために共同体感覚に沿っているように見えそうな行動を選んでいたという感じだったんですが、カウンセラーになってからは、相手も自分も満足する方へ行かないと、人は結局満足できないんだということに頭だけではなくて全体として気づいてしまった感じに変わりました。
身近な例でたとえるなら、楽しみにしていた美味しいケーキがあったとして、カウンセラーになる前の自分は、それを独り占めはせず、無理して誰かと分け合って、そんなことができる自分をエライ!と思うようなやせ我慢的な感じの実践だったんだけど、今は、たとえ自分の取り分が減っても、それを喜んでくれそうな誰かと一緒に食べた方がもっと幸せになれることを、当たり前に疑いもなく知っている感じですね。月並みかもしれませんが、分かち合うと増えるんですよね、喜びって、物質とは違って。不思議ですね(笑)。
もう一つ身近な例で、自分の変化を感じているのは、カウンセラーになる前は、車で走っているときに、横から出てくる車など、そこに入りたそうな他の車を入れてあげたりとか、あるいはコンビニとかエレベーターのドアを開けてしばらく押さえておいて、入ってくる人が入りやすいようにするとか、そういうことも「これっていいことだよね、アドレリアンならやるべき」という意識でやっていたように思います。そのせいか、過剰というか、かえって迷惑というか、車でもタイミング的にそこはサッと行ってしまった方がかえってよかったかものところで、しばらく入れてあげようとして待ち過ぎたり、ドアを開けて待っているのも、別にそんなこと求めてない相手だったりもして、なんだか鬱陶しい感じになってたりとか、「感謝してよ」の気持ちがチラッとはあったりして、今思えばお恥ずかしい感じでした。それが、カウンセラーになってからは、もう少し自然に、それが必要なタイミングでスッとできるようになったし、それが必要なさそうな時にはサラッとスルーしたり、相手も(見ず知らずの人ですが(笑))自分ももっと楽になるような感じで対応できるようになりました。恩着せがましい気持ちもなくなりました(笑)。
それで今日は、「大人になったら何になりたかったか?」からわかることについて考えてみたいと思います。
みなさん、子どもの頃、大人になったら何になりたいと思ってましたか?
鍵野は一番小さい頃になりたかったのは「パイロット」、その次が「外交官」、小学校高学年の頃には「物理学者」、中学卒業の頃には「コンピュータープログラマー」でした。高校の時には「映画監督」になりたくなって、それで現役では日芸を受けたんですけど見事に落ちて(爆笑問題の太田さんは偉い(笑))、浪人の時に「小説家」になりたくなって、で、文芸専修のある早稲田の文学部だけ受けて、一文には落ち、二文に入ったのでした(そこからズルズルと8年もいました)。
パイロットと外交官は、なんかカッコイイというか、そんなことを言われた記憶はないのですが、それでも両方ともいかにも母が喜びそうな、自慢できそうな(笑)職業なので、母を喜ばせようとしてただそう思っていただけの気がします。
「物理学者」については、原理というか理屈がわかることで、それまでバラバラに見えたいろんなことがつながって、世の中のことがパッとわかってしまうというような、そういうところに惹かれたのを覚えています。デカルトの方法序説を読んで憧れたのかも(笑)。
「コンピュータープログラマー」は、たぶん友だちの家でMZ-80Bというマイコン(当時はそう呼んでいた)でスタートレックというゲームをやらせてもらって、それで面白くて感動して、自分もそういう、何かプログラミングでそれまでなかった世界を創ることができるというところに魅力を感じたんだと思います。今でもよく覚えているのが、中三で担任だったW先生が「今はいいけど、鍵野が大人になるころにはコンピューターでプログラミングする仕事なんかなくなってるかもよ」と言っていたことです。そのときは、人がせっかくその気になってるのに、そんな水を差すようなことを…と思ったものですが、この予測は見事に外れましたね(笑)。もう少ししたらわかりませんけども(笑)。
それで、実際に大学を卒業して最初に選んだ職業は「コンピュータープログラマー」でした。今、買収騒動の渦中にあるらしいF社(当時は二部上場で名前にABCというのが付いてましたけど)に入れてもらったんですが、たぶん役員の方だったのかな? 面接試験で、圧迫面接気味でしたけど、卒論で安部公房の評論を書いた話になって「安部公房のどこがいいの?」と聞かれて、ウーン…としばらく考えていたら、「不条理だろ!」と言われて、「はぁ…」という感じで終わって、いい印象はなかったんですが、3月に卒業してフラフラしているうちにもう秋になっていて、やっぱり就職しようとは決めていたので、入れてくれるならということで、そこから新人研修でプログラミングを覚えたんでした。夢の実現なんてつもりは全然ありませんでした(笑)。
その後、転職を重ねながら、ソフトウェアの開発方法を研究して人に教える仕事に携わるようになり、そのうちソフトウェア開発より上流の経営そのものに興味が移り、技術経営の大学院で学び、中小企業診断士という資格も取って、経営企画室に社内公募で異動して新規事業を推進する仕事をするようになりました。そこから、自営の経営コンサルタントとして独立して、公的機関でのマネージャの仕事も経験した後、経営よりさらに上流の(笑)、人が幸せになることそのものに興味が移り、アドラー心理学を学んでカウンセラーとなり現在に至っています。
と、なんだかいろんなことをしてきた鍵野ですが、アドラー心理学から見ると、小さな頃からの一貫した流れがあることがわかります。
こうして書いていて気づきましたが「普通」を避けてきたんですね、ずっと。普通に大学に入って、普通に卒業して、普通に就職して…という、世間一般の「普通」で暮らしていく勇気がなかった(笑)。
紆余曲折はありながら、サラリーマンとしての最後は、地味だけどみんなが知ってはいる大企業の中枢である経営企画室で働いていたので、立派な「普通」に落ち着いていたし、母も喜んではくれてたんですが、結局、飛び出してしまいました(笑)。
こうした「普通」でいられない鍵野のような人って、かなり勇気をくじかれているんですよね。劣等感が強いので、それを補償する目標も高くなってしまいがちで、「自分は人とは違う!」と自分と他人にいつも示し続けていないとそこにいられないのは、劣等コンプレックスの一種としての優越コンプレックスですね。そうでないと、仲間になれていない、所属できていないと感じてしまう人なんですね。
パイロットも外交官も物理学者もコンピュータープログラマーも映画監督も小説家も、当時の鍵野には「普通」じゃないように見えた人たちでした。
自営の経営コンサルタントも、(とってもマイナーな)アドラー心理学のカウンセラーも、やはり「普通」じゃないし(笑)。
なので、「嫌われる勇気」は、一読して「ごもっとも、ごもっとも」という感じで終わりましたが、もし「みんなと同じでいる勇気」という本があったら、すごく刺さって痛かっただろうなと思います(笑)。
思い起こせば、父は若くして独立して自分で事業をしていたのですが、オイルショックで事業がダメになって、身体も壊し、しばらくして親戚を頼りに大分から東京に出てきて、勤め人として再帰を図りました。鍵野が小学二年生のときでしたが、家族五人で東京での暮らしが始まり、転校して、当時、言葉の違いは意識していなかったのですが、同級生に大分弁をからかわれた思い出もあり、子どもなりにカルチャーショックを受けました。
そんな経験もあって、子どもながらに父と母が大変な苦労をしているのを感じていて、それで、父も母もとってもいい人なのに、一生懸命頑張っているのに全然報われていない感じがして、そんなの間違ってる! それは父や母が悪いのではなく、世の中の方が間違っている!と強く思い込んでいたように思います。
それで、何か世の中を変えるような、意味のあることがしたい、父や母が報われるような世の中にしたい、それには「普通」じゃダメだ! この今の世の中をそのままを受け入れるような「普通」な生き方じゃダメだと、子どもながらに無意識的に思っていた気がします。まだ自分にはわかっていないけど、この世の秘密というか原理というか、きっと何かあるはずだと、それがわかればなんとかなるはずだ!と強く思っていた気がします。
そんな思いがあったからこそ、野田先生に、アドラー心理学に辿り着くことができたのではないかなと、今、書いていてい思います。でも、「世の中を変えたい!」ってちょっと間違ったらヤバイですもんね、破壊的ではなく建設的な方へ、競合的ではなく協力的な方へ向かえてよかった! 辿り着いたのがアドラー心理学でよかったです(笑)。
それで、人は、一人ひとりユニークなその人のサバイバル戦略、人生の方針ともいえる「ライフスタイル」に表れるその人の人生目標の達成の方向でなりたい職業をイメージします。強くあるべきという人生目標を持っている人は、格闘技のチャンピオンを目指すかもしれないし、お金があることが強いと信じていれば、とんでもない金持ちを目指すかもしれません。
職業をどう見ているのかというのも、人によってかなり違うかもしれなくて、「学校の先生」から、人(子ども)を支配できるというイメージを持つ人もいるし、人(子ども)の成長を助けるというイメージを持つ人もいるでしょうし。「看護師さん」から、病気の人の世話をする優しい人というイメージを持つ人もいれば、冷静に仕事をテキパキこなす人というイメージを持つ人もいるかもしれません(鍵野の看護師さんへのイメージはこれ(笑))。
アドラー先生の本に出てくる面白い例が、子どものころ「死」に強く印象づけられた子(きょうだいが死ぬなど)は、その「死」を克服しようとして、医者などの医療関係の職業に就きたいと思うようになる子が多いけど、中には「墓堀り人」になりたいという子がいたんだそうな(日本だったら、葬儀屋さんかな?)。 これは、自分は、埋められる方にはならないで、埋める方になってやるという、意味ですよね。これも、そりゃぁ墓堀り人も必要だろうし(あまりイメージ湧きませんが)、葬儀屋さんだったら、絶対必要な職業なので、必ずしも破壊的な方向と決めつける必要はないですけれど、医療関係者の方が建設的なイメージはありますよね、死の克服の方向としては。
なので、どんな職業に就きたいか?を聞いて、それだけで、どうこう言うのではなく、それはどうしてか? も聞きたいですね。その職業に就くことで何を成し遂げようとしているのか、それが感じ取れれば、そこにその人の人生目標が透けて見えるかもしれません。
それで、お子さんがいらっしゃる方で、お子さんがどんな職業に就きたいのかを聞いたとして、何でもいいと言えばいいんですけれど、「普通」じゃなくて、それが極端なものだとしたら、たとえば、世界一の科学者とか、世界一のサッカー選手とか、世界一のピアニストとか、世界一のカウンセラーとか(さすがにいないか(笑))だったら、ちょっと気にしてあげた方がいいかもしれません。
「普通」じゃない目標を達成しないと自分はダメなんだと思い込んでいるということは、劣等感が強い証拠です。劣等感が強いというのは、自分の理想に対して現実の自分がイケてない感じがそれだけ強いということです。理想が高いから劣等感が強いのか、劣等感が強いから理想が高くなるのか、どっちが先なんだと言えば、劣等感が先ですね。赤ちゃんの頃から周りの大人に世話してもらってようやく生存できるところから、少しずつできることを増やしていくわけですが、(周りの人のように)したいのにできないという劣等感から、それをバネにして成長していくのが人間です。劣等感が強ければ強いほど、それを補償するために、より高い目標を設定してしまうんですね。
なので、お子さんがズバ抜けて高い目標を掲げていたとしたら、かなり劣等感に苦しんでいるのかもしれません。もちろん、がんばって努力して、実際に世界一になってしまう人もいるかもしれませんが、アドラー心理学はその方向はおススメしません。だってとっても苦しいから。世界一になったとしても、ずっと世界一で居続けることはできませんし。
でも、「普通」というのも、誰かと比較して「普通」と言っているとしたら、「人並み」という意味での「普通」と言っているとしたら、これも結局あまり「世界一」と変わらず苦しい不幸な人生が待っていそうです。いつもいつも他の人と比べて「普通」かどうか「人並み」かどうか気にし続ける人生は、一番かどうか気にする人生と、人がどう見るかを気にするという意味で五十歩百歩ですから。
なので、アドラー心理学のおススメする「普通」の目標は、他の人との比較ではなく、自分の大事にしている価値の軸線上で、自分としてこれまでよりも成長できたなと実感できればよしとするくらいの「普通」を目標に、都度都度具体的なマイルストーンを置きながらそこを目指して動いていくことです。
「人を助けたい」という目標を抱いている人が、「医者になる」という具体的な職業選択上の目標を持ち、そのために「医学部に入る」という目標を、そのために高校では「地域一番の進学校」に入って「模試でも上位をキープ」する…といった意味での「普通」の目標を立てて進んでいった結果として、ひょっとしたら将来、世界一腕のいい心臓外科医になっているかもしれませんが、それは最初から「世界一の心臓外科医」を目指すのとは全然違うということです。最初から「世界一の…」を目指すのは「普通」の目標ではなくて、強い劣等感の裏返しの、それが実現してもしなくても苦しみが約束されている目標なのでおススメしないという意味です。
「普通」の目標であれば、途中でうまくいかなくても代替案がいくらでも出てきますから安心です。「医学部に入る」が無理そうだとわかったら、「歯学部に入る」とか「看護学部に入る」とか、カウンセラーもいいかなと「心理学科」に入るとか、他にも医療系の専門学校に行くとか、消防士を目指すとか、他にもいくらでもありますよね「人を助けたい」が実現できる具体的な職業は。
これが「世界一の〇〇」とかだとやっかいです。途中のどこかで引っかかってしまうと、なかなか他の案に乗り換えることができなくなります。「世界一の○○」ならなんでもいいやと、世界一悪い人を目指されても大迷惑ですし、「世界一」じゃなきゃ意味がないと、どこかで躓いた後は挑戦する意欲を失って「もしあそこであんなことがなければ、今頃世界一の〇〇だったのに…」なんて言い訳しながら一生を暮らすというのは、非建設的だしとっても辛いですもんね。
もしお子さんが「世界一の○○」とか「日本一の○○」と言い出したら、どうしたらいいのかと? 年齢にもよりますけれど、先ほども書いたようにその理由を聞いてみて、それが人からの評価をもの凄く気にしているからこそらしいとわかったら、自分がそう仕向けてはいないかと子育てを振り返ってみてもいいかもしれません。
一番じゃないと意味がないとか、いつも他の子と比較してたりとか、お子さんに対してでなくても、自分に対しても、あるいは夫さん(妻さん)に対してとか、テレビに向かってとか、いろんなところで人と人を比較して、人より上でなければ価値がないかのような言動をしていないかどうか気にしてみてください。
家ではそんなことはないけど、という場合は、学校など家の外でそういう価値観をしっかり学び取ってきているのかもしれません。教師や友達からの影響も大きいでしょうし、SNSやYouTube、テレビやラジオ、漫画やゲームなどからも大きな影響を受けているはずですし。
子どもは素直で敏感ですから、親や教師を始めとする世間の大人の大事にしている価値観をよく知っています。そこからどんどん学んでどんどん影響を受けます。
そして、残念ながら現代社会の価値観は、人と人に価値の違いがあるという前提に立った競合的な価値観が支配的です。どちらが上か下か、勝ち負けを争い続ける人生が続いていくと想像した子どもたちの劣等感が強まるのも致し方ないことかもしれません。
それでも、だからこそ、アドラー心理学の考え方、人は一人ひとり能力は違うけれど人としての価値は平等で(これは事実)、それぞれの能力を持ち寄り分かち合って協力しながら暮らしていくべき、そこに人の幸せがあるという思想(共同体感覚)を一人でも多くの人に知ってもらい学んでもらい体験してもらって、大事なお子さんに伝えていって欲しいんですね。
みんなが「普通」の目標を持って、その達成度合いを人と比較する必要なく暮らせる社会の実現に向けて、自分のできること、アドラー心理学を伝えることをやっていきたいというのが、今の鍵野の「普通」の目標です(笑)。
いつの間にかたぶん過去最長の文章を書いてしまいました。ここまでお付き合いくださって本当にありがとうございます。
カウンセリングでも講演でも勉強会でも、行けるところまでは採算度外視でやっていきたいと思いますので、生きたアドラー心理学を体験したいという方はぜひお気軽にお問い合わせください。よろしくお願いいたします。
読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。