アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

親戚づきあいと夫婦

こんにちは、鍵野です。
みなさんどんなお盆休みをお過ごしでしょうか。故郷に帰省する人、夫や妻の実家で過ごす人、旅行に行く人、近場に出かける人、家でのんびり過ごす人、お盆も関係なく(というか他の人が休んでいるからこそ)仕事をする人、様々だと思いますが、高速道路が渋滞しているというニュースからすると、都会から地方に帰省して過ごすのがまだメジャーなんですかね。核家族化してずいぶん経つはずですが、「○○家」という言い方はまだ廃れてはいなくて、結婚式の親族控室とか、お墓のタイトルではしっかり使われていますものね。


鍵野の場合、「鍵野家のみなさま」なぁんて言われると、そんな家あったっけ?と気恥ずかしさを覚えてしまうんですが、実感としてまだ親戚一同の顔が思い浮かぶような親戚づきあいをされている方も多くいらっしゃるのかもしれません。いざというときに助け合える関係を維持できているとしたら、ステキなことだと思います。


昨日、伯父の初盆供養について書きましたが、伯父は、母方の伯父ですが、十人きょうだいの長男でした。十人きょうだいがいて、それぞれ複数の子どもがいたので(鍵野もその一人)、もの凄い数の親戚がいることになるのですが、きょうだいの半分は既に亡くなっているということもありますが、初盆供養盆踊りに参加したのは、伯父の息子夫婦、伯母、私と息子だけで、ちょっと寂しい感じがしました。珍しくいつも元気いっぱいの母が体調を崩して参加していなかったこともありますが、家族が行事を共にできずにバラバラになっていく時代の流れは行きつくところまで行ってしまうんだろうなぁとあらためて思いました。


じゃぁ、鍵野自身、親戚づきあいが好きなのかと言えば、決してそうではありません。むしろ面倒なことは避けたいし、最小限で済むならその方がいいと思ってきました。自分と自分の家族(核家族)だけでなんとかやっていくのに精一杯ですよという感じで。多くの人がそうじゃないかなぁと思っているんですが、どうでしょうね?


工業生産品を輸出して外貨を稼いで原料、燃料、食料を輸入するという工業立国な日本になる前であれば、村で米作りをしながら一生を過ごすのが多くの日本人のスタンダードだった思うんですが、その頃であれば、親戚づきあいが暮らしそのもので、その人間関係を維持することがそれぞれの生存を確保する営みだったんだろうなと思います。冠婚葬祭すべてが米作りにリンクしていたんだろうなと。そこでは否応なしに、生きていきたいのであれば、親戚づきあいをしなければならなかっただろうなと。


それで、現代の日本社会に暮らす我々は親戚づきあいを絶ってしまっても、そのせいで死ぬようなことはありません。いまだに家を借りるときとか入院するときとか、保証人や連絡先として、誰かとの繋がりを示す必要はありますが、家族・親戚でなければというわけでもないし、保証会社もあるし、なんとかなりますよね。


そんな「遠くの親戚よりも近くのコンビニ」という社会で暮らしている私たちですが、稼いで食べるだけなら、それで済むとは言うものの、やっぱりアドラー心理学が社会統合論=人間関係論として言っているように、社会に組み込まれるというのは、人間関係に組み込まれて暮らしていくという意味なので、記号のやりとり、口座残高とバーコード決済だけではやっていけません。人と人とのコミュニケーション、メッセージのやり取りをする中で、自分がこの社会に必要とされている存在なんだという確信が生まれてくる必要があります。


AIロボットが生産もしてくれて、人間は働かず消費するだけでいいという世の中は、物理的には可能だと思いますが、そんな世の中は心理的に人間には耐えられません。


生産と消費、労働と遊びが分離されていなかった世界では、そりゃぁ理不尽なことも多々あったとは思いますが、それでもみんな自分が必要とされていることにみじんも疑いを持たなかっただろうと思います。生産と消費、労働と遊びを共にする村落共同体の一員として生まれてから死ぬまでそこでコミュニケーションしながら、老いも若きも男も女も強きも弱きも賢きも愚かも、互いの存在を認め合いながら暮らしていけただろうなぁと。


社会保障が充実してきて、家族・親戚ではなく、国の制度に守られて暮らしている今の社会は、人と人との対面でのコミュニケーションで生存を維持してきた生物としての人間には相性が悪いように思います。それで、テレビやYouTubeで見る芸能人や有名人を疑似家族や疑似親戚のように受け取って、彼、彼女らが何か自分のためにメッセージを発してくれているかのように錯覚しながら、社会保障の充実では埋められない、コミュニケーションの穴を埋めているんだろうなと思っています。役所の窓口でのコミュニケーションでは、それがどんなに重要なその人の生存に必要な手続きだったとしても、その手続きのおかげで「社会に所属できているなぁ」という実感がもたらされることは期待できませんから(笑)。


野田先生が親戚づきあいの苦労を共にするのが夫婦だというようなことをおっしゃっていましたが、たしかに単に一緒に暮らしている男女というだけであれば、互いの実家に帰省するなんてこともないでしょうし、結婚って、扶養控除とかの税制の問題ではなくて、そういうまだ残っている互いの「○○家」にまつわるしがらみを引き受けていくことなのかなぁという気がします。


「○○家」の残滓をしばらくは受け継いでいくことが、言語でコミュニケーションしながら助け合って暮らしていく生き物としての人間の生存戦略として、日本人のコミュニケーションのプロトタイプとして、まだまだ必要なのかもしれないですね。


未来のことはお釈迦さまにもわからないんですから、人間の今持っている浅知恵で「こうあるべき」と社会を上から「設計する」やり方のまずさはソ連とか、現在であればキューバの惨状からも明らかです。


だとしたら、生物が様々な環境に適応してきた歴史もそうだと思うんですが、あるものでそのときの必要に応えながらなんとかやり繰りしていくというのがいいというか、それしかないだろうなと。


とすると、一旦なくしたものを復活させるのは大変ですから。多少のコストは払いつつも、まだ何かに使えるかもしれないし将来大化けする(笑)かもしれない、夫婦とか家族とか親戚とかは、維持していった方がよさそうですね。


それで、離婚件数はずいぶん減っているそうです(婚姻件数も減ってますが)。それでも、20年以上同居してきた夫婦の離婚、熟年離婚は過去最高になっているんだとか。


離婚理由は「性格の不一致」がトップということですが、これ一致するわけないじゃん!というのがアドラー心理学の当たり前の結論です。人は一人ひとりユニークな、それぞれのサバイバル戦略、人生の指針、ライフスタイルを持って生きているんですから、一致するはずないんです(笑)。自分と同じような人とだけは一緒に暮らしたくないと思いますよね(笑)。


まぁ、これは言葉の遊び的なところで、よく見ると「性格が合わない」というのを「性格の不一致」と言ってるみたいです。「合う/合わない」であればわかります。いわゆる相性のいい夫婦、よくない夫婦というのはあると思います。


でも、これも結局後付け的な理由というか、結婚した理由と別れた理由が同じだったりするんですね。


「いつもリードしてくれて、私のことを守ってくれる、本当に頼もしいわ」と思って結婚した人と、「わがままで何でも相談なしに決めてしまう本当に自分勝手な人」と思って離婚することになるし、その逆で、「おおらかで細かいことを気にしなくて私のしたいようにさせてくれるとっても優しい人」と思って結婚した人と、「優柔不断で気が利かなくてなんでも私に任せてばかりで本当に頼りにならない人」と思って離婚することになったりするんですね。


その人は変わってないんです。こちらの見方が変わっただけなんですね、ポジティブからネガティブに。だったら、さらに反転させることも可能です。アドラー心理学を学んで、グループワークでも、自助グループでも、カウンセリングでもいいんですが、他の人と対話することで、案外簡単に「あの人もそう捨てたもんでもないなぁ」と見直すことができるかもしれません。


見方を変えることができさえすれば、あなたの感情も変わりますし、行動も変わります。そうしたら、相手の行動もよい方向に変わります。すると、ますますポジティブな見方が簡単にできるようになっていきます。そうなったら、面倒な離婚をするよりも、ここまで来たんだし、これからもなんとか仲良くやっていこうと思えるようになる可能性大です。


お盆に帰れる故郷がまだあるという未来もなかなかいいものではないかなという気がしています。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよいお盆休みをお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。